続.禁じられた火遊び
戦いが始まる中での、皆の思惑です。
― 京、南禅寺浅井の陣屋 ―
俺は報告を聞いて暗澹たる気持になった。
織田信長が松平元康と語らい、願証寺を襲ったのである。
(正直、他の浅井領を襲って欲しかった……。)
もちろん、こんなこと口が裂けても言える事ではないのだが、正直な気持ちである。
本願寺に限らず、『寺社勢力から武力を取り上げ、暴徒化しないようにする』
という、これまでの俺の苦労を水の泡と化し、押し流そうという行為である。
寺社の既得権益を奪うという事は、それはもう大変な事なのである。
それを信長に理解してもらえなかったのは、正直悔しい。
独創性はなくとも”良いところを真似ること・取り入れること”ができる男だと思っていた。
とても残念である。
忍びからの報告で何とか開戦前に敵方の情報は掴んでいたが、予想以上に状況は悪くなりそうだ。
「はあ~」
今回は、将軍弟.義秋公の入洛準備のための、入京である。
俺自身が、ホイホイ身軽に動くわけにはいかないのが辛い。
『誰の信仰も認め、それを咎めない』
『浅井家が寺社を保護する代わりに、寺社は無用な兵力は持たないこと』
そのように約束を取り交わした以上、浅井領の寺社については、
浅井家が、その安全を保証す事は 『最低条件』 である。
これには、領内の比叡山延暦寺・願証寺あたりが反発し、やたら煩かった。
まあ当然の部分はある、延暦寺の方はただのワガママに近いが、願証寺については織田家という敵が存在する以上安全保障はどうしても必要なのだ。
俺もそこの所は理解している。
だからこそ、”無用な”という部分を拡大解釈させ、”必要と思われる分”を黙認するかたちで許可している。
「まあ、今はそれでいい」
そう思った。
改革というものは、何事も一気に進めることなど出来ないものである。
宗教を理想的な形に持っていくなら軍事と政治から切り離すべきだと思うのだ。
「筋道をたてておき、じっくりと進めて行こう。やはり急がば回れ、だよな」
そう自分に言い聞かせていた。
『浅井家が寺社を保護する代わりに、寺社は無用な兵力は持たないこと』を、
示したのは、各寺院にその覚悟を問い、また他の大名にも協力を仰ぎたかったからだが……。
一向一揆が一番有名ではあるが、他にもある。
法華宗徒の法華一揆、比叡山延暦寺の僧兵の暴動、興福寺に至っては筒井家が大名化している。
宗教が武力を持てば、堕落する。
当たり前である、人を脅し、人を殺す事は、本来の宗教のあり方として正しくは無い。
信者に殺人を強要する教義が盛り込まれていたり、解釈があるのは、すでに形骸化しているのである。
『できれば、なるべく多くの者に幸せに暮らして欲しい』
これは、俺の本心からの願いである。
もちろん簡単に実現するとも思っていないし、難しい事だろう。
だけれども、やってみたいのだ。
そうでなければ、俺が未来の記憶を持って浅井家に生まれた甲斐がない。
『どうせなら、みんなの笑顔が見たいじゃ無いか』
だけれども、信長はそれを理解してくれなかった。
松平元康も同じだ。
スゴク残念である。
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― 願証寺 ―
「っく、やはり兵を減らしたのは失敗ではないか」
願証寺四世の住持.証意は、織田の侵攻に思わず法体の身でありながら、口汚く悪態をついた。
証意は、永禄4年(1564年)に父証恵の死に伴って28歳の時に願証寺四世の住持となった。
先年、証如13回忌に際して上洛し本願寺11世法主顕如より改めて正式に願証寺の院家相続を認められた
その際、顕如より『浅井家に協力するように』と要請があった。
院家相続のため、しかたなくその条件を呑んだが、証意は決して戦力を手放さなかった。
非常時に動員している農民を帰しているだけで、実態はさほど変わってはいない。
帰る家や農地を持たない雑兵を、浅井家が雇い入れただけである。
願証寺の息のかかった地侍を、銭を払って浅井家が雇ってくれるのだから悪い条件ではなかった。
今、信長と戦っているのは、証意配下の坊官と門徒兵、そして浅井家が置いていた警備隊である。
いきなりの攻撃であり、門徒を集めるには時間が必要である。
「やはり…舐められたら、それで終わりなのだ」
証意はそう思っている。
本願寺も元から好戦的だったわけではなく、どちらかといえば迫害を受けて蜂起したに過ぎない。
いわば”いじめられっ子”が、逆上したら意外と仲間が大勢いて”いじめっこ”に勝ってしまった。
そんな感じなのである。
”搾取される農民” それが本願寺の仲間だったのである。
無能な為政者への民衆の嫌悪感というものは、それはそれは激しいモノがあるのだ。
個々の力は弱くても、集団となると手強い。それが一揆というものである。
願証寺は、天然の要害である。
そう容易くは落ちないが、末寺や町、村、川湊が、織田・松平の連合軍によって蹂躙されていった。
~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~
永禄10年(1567年)
7月某日
織田・松平連合軍は、長島を攻略した。
この戦いに際し信長は、浪人、町人、農民の区別なく大勢の者を配下に組み入れていた。
『褒美は、取り放題』として、長島の町を蹂躙するのであった。
そのため予想以上の軍勢へと膨れあがった。
信長の直接配下の兵は4000ほどであるが、動員するとなると正直3000と云うところだ。
松平勢も外征だと、1000を出すのがやっとである。
本来であれば、5千足らず。しかし、膨れあがった兵力は万を超えようかという勢いであった。
尾張の無頼者たちは、勝てない戦続きで逼塞していたのであった。
軍勢は増えたが……。
そのぶん、統制はお粗末な物とならざるをえなかった。
しかし信長にも策があった。
長島攻略はいわば威力偵察と、新たの雇い入れる者達への餌である。
新たに加わった雑兵は、尾張・三河で食えなくなった者達の集団とも云えよう。
信義もなくただ、食・銭・略奪品という名の”生”を求めて略奪をすべく配下に加わった事など、いわれずとも判っている。
信長の兵として真面目に働くもよし、いずれにせよ今回は駒として暴れてくれるだけでよいのだ。
信長は軍を2手に分け、長島と市江島を攻略した。
「まあ、せいぜい暴れて本願寺の坊主どもを困らせてくれるがよい」
信長は、松平勢が率いる長島攻略部隊を見送った。
特に軍船で送りつけた、雑兵が主体の略奪部隊は足止めのための囮に過ぎない。
織田軍の主要目標は、市江島である。
信長の本当の目的は、服部友貞を討つ事である。
奴は尾張の国人でありながら、宿敵今川と結び織田信長に抵抗していた。
織田家にとって重要な拠点である”津島”の南、河内(海西郡)に”服部党”といわれる勢力を持っているのだ。
服部氏の所領は、いわば信長にとって喉元に突きつけられた剣であった。
しかも本拠地は、半ば陸続きではなく『市江島』と呼ばれる攻めにくい輪中状の半島にあった。
腹立たしい事に今川・願証寺と協調関係を持っており、おいそれと手が出せなかった。
そういうわけで。
市江島の服部左京大夫は、信長の躍進を大きく阻んでいたといえよう。
「なんとしても服部友貞を潰せ!」
信長は、配下の武将達に下知を下した。
「 いざ出陣! 」
「「「「「 おお~っ! 」」」」」
信長配下の宿老、武将達が鬨の声を上げた。
織田信興、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、
池田恒興、前田利家、滝川一益、佐々成政、岡田重善、毛利良勝ら
そうそうたる武将が、この戦いに参加していたと云われている。
次回、ついに本格的な戦いの火蓋が切って落とされます。
松平が長島担当なのには、理由があります。




