上洛戦の裏側で
今回は裏側のお話し。
長政にとって”上洛”とは、いつでも出来るイベントにすぎない。
ぶっちゃけ一週間もかからずに、将軍弟の義秋を入洛させる事ができる。
もちろん、宿泊先の手配や軍の滞在先の割り当てとかを含めての話である。
では、何故そうしなかったか?
それは少なくとも、近江・美濃・北伊勢・伊賀を完全に掌握し、それを認めさせる事が先決だったからである。
足利義秋の上洛の号令は、守護に対しておこなわれた。
もちろん、手続き上は正しいのであるが。
これは戦国大名化を目指す浅井家にとって、好ましいものでは無かった。
どう言葉を取り繕おうと、下克上を狙うことに変わりは無いのである。
義秋が狙ってやっているのか? それとも天然なのか? は判らないが、とにかく都合が悪い。
朝倉義景は、影で笑っている事だろう。
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― 上機嫌なお殿様 ―
朝倉義景は、上機嫌であった。
最近の浅井の小倅の動向には、苛立つ事も多かった。
朝倉家を蔑ろにして、将軍足利義輝公の寵愛を得ていた事はとくに腹立たしかった。
しかし、鴨が葱を背負ってきたのである。
いや、義秋公が、近習を引き連れ越前を訪れたのである。
さっそく利用する事に決めた。
大野郡司家の景鏡の意見を取り入れて良かった。
「朝倉も大きくなる時を迎えたのだ」
せいぜい、将軍家の権威を利用してやろうではないか。
本来、朝倉家では当主自ら戦地に入る事はないのであるが、今回は特別である。
朝倉義景は将軍弟義秋公の名代として、上洛軍本隊を率い意気揚々と進軍を続けた。
かの軍神すら配下に従えて、気分は最高であったに違いない。
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― 謙信の誤算 ―
「これは困った事になった……」
謙信は、困惑した。
将軍義輝公が弑された今となっては、弟君を立てるしか無いのは判っている。
三好三人衆が台頭し、万が一にも関東管領の職を解かれるわけにはいかないのだ。
義輝公と懇意だった関係上、義秋を担がねばならない。
「義を通すのも、たいへんだ」
愚痴をこぼそうにも、腹心といえる者は警戒のために越後に残してある。
今、彼の周りにいるのは、将軍家の権威を有り難がる古い人間達である。
「まあ、戦をする分には問題ないのだが……」
謙信の予想では、越後から敦賀に入り近江を抜ければ、さほどの手間をかけずに上洛できると踏んでいた。
朝倉家と浅井家の緊密さは、以前の上洛で謙信自身よく知っている。
浅井長政自身も、欲に走らず六角家や将軍家に仕えており信用がおける。
謙信としても、一番信用できる武将として真っ先にあげられるのが”浅井長政”である。
だから、ひと月かからずに”京”に入れるだろうと算段をしていた。
「浅井家の躍進を妬んだ義景殿には、そうは映らないのかもしれんな……」
丹波路を通り上洛するという基本方針を聞いた時、謙信は暗澹たる気持になった。
いや、耳を疑ったといった方が良かった。
翻意を促そうにも、すでに義秋の名で上洛軍が招集されており、今さらどうにも出来なかった。
(これでは将軍家の上洛というよりも朝倉の手伝いではないか!)
胸中の不満を押し隠し、軍を進めるしか無かった。
(こんなことなら、義秋殿を越後へ呼び寄せておけば良かった……)
後悔する事しきりである。
目下の謙信の鬱憤晴らしは、ひたすら反抗軍を蹴散らすことであった。
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朝倉景鏡の憂鬱な上洛?
私の率いる第二軍は、膳所城にて兵を整えた。
本隊と歩調を合わせるため、私には充分に時間があった。
六角・土岐・今川の守護を従えた連合軍である。
私、大野郡司家の当主朝倉景鏡の大野衆3000名を筆頭に、朽木元綱が従える六角1500名、斎藤が率いる土岐1000名、朝比奈の今川は1500名、そして浅井家の3000名。計1万の軍勢である。
私が率いる上洛軍は、向かうところ敵無しのまま京の都へ入洛を果たした。
近江・山科では、ほとんど大規模な戦闘が無く、はぐれの国人や夜盗に近い者達が散発的に襲ってくるだけであった。
「なんとたわいの無い、些か拍子抜けだな!」
「まこと、朝倉様のご意向のたまものでございましょう」
傍らにいる朽木元綱が、そう相槌を打つ。
打てば響くとはこの事であろう。いい拾いモノをした。
思えば朝倉家は内に籠もりすぎであった。
もっと外に積極的に出ていれば、毛利のように大きくなっていたであろう。
「いや、嘆いても詮無きことである」
この私が、朝倉をさらに大きくするのだ。
景晃みたいな腑抜け野郎は、さっさと始末すべきだったのだ。
あ奴は、浅井と懇意すぎる、朝倉の為にならんな。
長政も所詮は、朝倉の家臣みたいなものではないか、いいように使い潰してやるとしよう。
「ふふっふ、京の都よ待っているが良い!」
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― 洛中 ―
三好派の者達は、すでに洛外から退去していた。
三好三人衆としても、将軍義栄の擁立のためにも洛中で騒動を起こすわけにはいかなかったのである。
復興中とはいえ、まだ荒れ果てた京の都である。
作業にあたっていた三好の人間があわてて逃げだしたために、余計にうら寂しくなっていた。
斯くして、戦闘がないまま静かに上洛軍第2軍は入洛した。
京に入った景鏡であったが、そこで初めて問題が生じた。
彼は、京の都でなんのコネも持っていなかったのである。
僭称している肩書きなんてモノは、京では毛ほどの役にも立たないのであった。
頼みの綱の軍事力も、『洛内では使用することまかり成らん』と釘を刺されており、頼れるのは金であった。
景鏡にすり寄り何かの利益にあずかろうとする者は、小物か二流であった。
しかし、彼がそれに気付く事はおそらくないであろう。
京の人間という者は、実にしたたかな生き物であるのだから……
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洛中に棲む一流どころは、長政の静かな怒りをひしひしと感じていた。
じわりじわりと、物流が減り、物資が高騰し始めていた。
戦時徴用を名目に、浅井家の息のかかった者達が他所へ引き上げている。
「あなおそろしや~」
膳所や山科で起こった出来事は、耳の早いモノにはすでに伝わっていたのであった。
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― 二条御所跡地.景鏡 ―
浅井長政は、南禅寺(跡地)に陣を張ったらしい。
景鏡が率いる軍勢も、二条御所跡地にて何とか野営をするように準備をしていた。
景鏡自身は、近習の者達と近くの寺に宿泊した。
これから、足利義秋公をお迎えする準備をせねばならない。
そのためには、義秋公の御座所と将軍宣下の下準備が必要であった。
「まこと頭が痛いわ」
景鏡は上洛すれば、もろ手を挙げて歓迎され、内裏からの使者が来ると思っていたのであった。
しかし、現実は違うのである。
対抗馬の足利義栄にも充分に資格があるのだ。
今、義秋と義栄は天秤にかけられているのであった。
事前の工作活動をしていない分、朝倉が推す義秋側が劣勢であるともいえる。
ここに来てようやく、自分の責任の重大さと難しさに気付いた景鏡であった。
しょせん、無計画な上洛でしかなかったのであった。
三好が京を離れたのは、無用な争いを洛中に起こさない配慮でしか無い、京に棲む魑魅魍魎は敏感にそれを感じていた。
しばらくは睨み合いが続くであろう、まだまだ先は長い。
朝倉家が長政と不和であるならば、強いて懇意にする必要も無いのである。
なんのことはない、一番頼りになる人物と不仲になったため、朝倉家としては予想していた以上にアテが外れてしまっていたのだった。
浅井家の4ヶ国の支配を認めてさえいれば、今頃、義秋に対して左馬頭の宣下がでていたであろう。
朝倉家が、長政を侮った代償は大きかった。
”小説家 『太宰治』 になりきろう!”を投稿しました。
第一弾は、太宰治が世に問うた、問題作!
”美少女” を、お送りいたします。
”みちざね” という名前で投稿しました。
太宰と言えば、菅原の道真公ですよね。
初の文学へのチャレンジです。
太宰ですが、軽いお話しに仕上げております、ぜひ読んでみてください。
ちょっとエッチかも?
(女性の方は、これを見て”ひさまさ”をキライにならないで~。)




