『大国の奢りと小国の意地』
タイトル通りです
貴方は今日、歴史を知ることになります。
結婚と昇進で、前回とても浮かれていた『賢政君』も現実を知ります。
奥さんの妊娠と……。
永禄3年(1560年 )
年があらたまり、これからの事を考えます。
去年の永禄2年(1559年)も表面上は、大成功のうちに、平和に終わりました。
うわべは平和そのものでも、もちろん油断は禁物です。
斉藤の動きが怪しいです。
信長上洛襲撃の時みたいに領内に勝手に入ることもありますし、うちを舐めてますね。
(史実では義龍は足利幕府相伴衆に列せられ戦国大名としての大義名分を得た後浅井に侵攻していたし。
さらに南近江の六角義賢の息子義治と同盟を結び、北近江の浅井挟み撃ちにしていたと思う。)
まあ、俺は六角の要求に何らキレることなく、おとなしく従属をしている。
(こんな、おいしい宿主は滅多にないんだ。)
義賢さまは、俺が浅井家当主で安心しているので、当面の所挟み撃ちの危険は少ない。
俺も一応、将軍には、目通りしているので大丈夫だと信じたい。
でも浅井は最近ほとんど大きな戦争していないし、案外と一色(斉藤)勢や四郎(義治)らに舐められてるかもな?
やはり、多少は忍びの者を手配しておくべきだな。
遠藤に相談だ。
後で知ることになるのだが……。
案の条、と言うか、残念ながら義龍は義治と秘密裏に連絡を取り合い機会を窺っていた。
これは数名の側近だけに漏らした機密事項だが、俺も長期的には関ヶ原以東まで勢力を拡大する方針をすでに固めている。
信長の台頭で、美濃が弱るタイミングをじっと待っているところだ。
外交で『西美濃四人衆』の中では与しやすいと思われる、安八郡神戸の不破氏を調略する予定だ。
西濃での影響力を高め信長との同盟を多少早めるよう下準備をしたいところだ。
1月末には正親町天皇の即位式 が執り行われた。
俺も浅井家当主として、ポケットマネーから1000貫、朝廷のご入り用分として献金しました。
今年は、ひとつの節目になるでしょうか。
新年から目出度いです!縁に続いて祐子が懐妊しました。
早速、井伊谷の親父さん『井伊直盛』殿にご報告しました。
しかし、15歳で二児のパパ(予定)になるとは夢にも思わなかった。
3月
春になり祐子の親父さんがやってきました。
「殿!井伊直盛殿がお見えです。」
「え、どういうこと?」と思っていたら、井伊直盛殿と椿の方(友椿尼)が数十名の従者と下男下女を伴って小谷へ引っ越してきてしまいました。
聞く所によると、『甥の直親さん』に正式に家督を譲ったそうです。
「娘の直虎がいるのならともかく、他家の嫁さんと一緒というのもいろいろ気を遣う」とのことで
『孫の顔見たさ』にやって来たとのことだ。
直親の子、直政はまだ生まれていないらしい。
案外向こう夫婦も、直虎と直盛夫妻に気を遣っているのかもしれないな。
おそらく祐子の事も気にしているだろうし、一度手紙を出そう。
祐子にも、一筆添えるように言い渡した。
とてもイヤそうだったが、彼女も母となる身だ、大人になって貰う必要がある。
それにしても……、
『頑固一徹』、『常在戦場』という一言は、『直虎らしい』が女としていかがなものかと思うぞ。
直盛殿には、雲雀山の館近くの屋敷を提供した。知行は500貫(およそ1000石相当?)
久政のお小遣いを容赦なく削り取ったので余裕である。
「働かざるモノ、喰うべからずである」
「婿殿は気前が良い」と驚いていた。
「祐子殿には何かとお世話頂いております故」
いきなりぶん殴られなくてホッとした。
まあ、家出をした娘が、『妾になった~、』とか言って来たら、相手がまさかの子供。
『嬉しいお知らせ』の手紙には、彼女は官位持ちの大名の側室さまで、しかも懐妊してますだもんな。
確かに驚くと思う。
井伊家当主として何か思うところがあったようだ。
所領ではなく、貫高にしたのは、即収入があるからです。
という建前だが、なるだけ土地は手元に置くべきだ、金は増えても、土地は基本増えないからな。
あとこれを機に、遠州・三河兵を引き込みたい。
知行に応じて国からもう少し家臣を連れてくると言ってくれた。
昨年から今年にかけて三好長慶は、河内・大和を平定して着実に領土を増やしている。
六角家が、かなり出遅れているような気がするのだが、やはり育ちがいいからか?
三好もまた義輝から幕府相伴衆に任命され、朝廷から修理大夫に任官された。
子の義興も筑前守に任官、御供衆にも任じられた。
幕臣として義輝に仕える事で、対立関係から一転して幕府と協調関係を築いていった。
一応将軍と親しい六角の方が任官が先だったんだけど、完全に出遅れているね。
とりあえず、平井様から聞いた上方の情勢はこんな感じらしい。
そして、歴史が動き出す……。
永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻した。
駿河・遠江の本国に加え、三河をも支配する今川氏の軍勢は、2万5千人を越える大軍であった。
これに対して織田軍は総兵力は、わずか5,000人。家臣は籠城し防戦をするように進言したが……。
ああ、ついに歴史が動き出したか!
『俺は、今、歴史の中にいるのだ。』
今川義元の出撃の報告を感慨深く聞いた。
爺にも感想を聞いたが……『2万5千?まあ、大大名ならそんなもんでしょう?普通です、よくある事ですよ!』と言われた。
なんか納得がいかないが、『六角さん』が気軽に2万5千の兵を出すから、浅井家は感覚が麻痺しているのだろうか?
『あさくらちゃん』と『六角さん』が、カチ会ったら、4万か?
よく、爺さん生きていたな。
意外とあの、元亀の信長との戦いでも、軍勢が来たことを気にしてなかったのかもな。
馴れってコワイ、どうりで重臣(老害)が、気軽に久政をかつぎだす訳だ。
結果も知っているし、なんか気が削がれた気がする。
さっきまでの俺の興奮を返してもらいたいと思う。
所詮は、よその家のことだしなあ~、見に行きたかったなあ~。
そう呑気に考えていました……。
『あの尾張のうつけが、今川の大軍を退けた。』
市中が、その噂で持ちきりだ。
まあ、そりゃ噂にもなるだろう。
皆が、『織田家は簡単に潰され、尾張は蹂躙される』と思っていたもんな。
斎藤家だって、上洛経路にあるから緊張していたらしい。
まあ、今川家が、将軍家配下の一色家を攻撃する名分はないから、尾張どまりなのは間違いないが。
「上洛戦ではなく局地戦だった」と言う説もあるからな。
でもそれは、俺が歴史を知っているからで…何もせずボサッとしている、そんな呑気な大名はいないだろう。
浅井家だって、先年に上洛を果たして、将軍家・朝廷のお墨付きを貰っているから、まだ余裕があるのだ。
信長の上洛は、ある意味失敗しているとも言える。
刀を貰ったぐらいで浮かれていてどうするのだ。
室町幕府将軍の権威が一応は健在だとはいえ、ある程度は力でねじ伏せられる。
滅ぼすなり、従属させてしまえば……それで、何とかなってしまう。
あくまで、強いから将軍に認められるものであって、認められたから強いのでは無いからな。
もっと、大々的に将軍家と関係を築きあげ、迂闊に攻めると将軍のメンツ丸つぶれになるぐらいの環境は整えないとならなかったよな。
まあ、普通は無理だ。
状況が整わなかったのは、少数の供で上洛し、義龍側の襲撃を受けかけていることからも明らかだ。
たぶん信長も、気付いていただろう。
『仮初めの上洛で得た将軍家の威光は何も保証しない!』と、いうことぐらい。
戦国の世だし、信長は『乾坤一擲の大勝負』に賭ける時だったのだ。
そして大当たりを引いた。
これから怒濤のように歴史が動くことだろう。
そう感慨にふける俺であった。
騒ぎは、なかなか収まらず、皆が新しい噂を仕入れる度、話が盛り上がっている。
松平元康率いる三河勢が、大高城に兵糧を届けたこと。
今川軍が織田の城砦を次々と陥落させていったこと。
織田方の戦評定が、難航していたらしいこと。
織田の殿様、信長がいきなり出陣したこと。
信長が熱田神宮に戦勝祈願の参拝をしたこと。
善照寺砦で軍勢を整えてから出撃したらしいこと。
丸根砦の織田軍500名は城外に討ってでて、大将の佐久間盛重は討死したこと。
中嶋砦の佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊も信長出陣の報に意気上がり、抜け駆け攻撃を仕掛け全滅したこと。
ものすごい豪雨が降ったこと。
信長に天の運があったこと。
そして、桶狭間という場所が、今回の激戦地だったこと。
今川軍が、敗走したこと。
『今川義元が、重傷を負い激怒している』こと
あれ、歴史がうごいたん?
後日知り得た報告を話そう。
今川義元は、毛利某、服部某に捕捉され、片腕を失う程の手傷を負うも、辛くもこれを撃退したとのことだ。
輿を棄て、常に側においてあった愛馬に乗り戦場を一目散に逃げ去ったらしい。
詳細は不明だが、生きていることだけは確からしい。
当時の情報では、なかなか詳細なことが伝わらずイライラでしたでしょうね。
新聞記者は、もろスパイ、忍者ですね。
『捲土重来、あいしゃる、りた~んでおじゃる~!』
桶狭間山を駆け下り、知立を目指すヨシモトは、そう叫んだと言われる。
どんな、BGMだったのか?非常に興味深いですね。
ヨシモトは永遠に不滅でした。




