「浅井新九郎は、小谷でいろいろ考えた。」
江北篇、スタートです。
今回は少し堅めのお話し。
お付き合い下さい。
小谷に帰還するやいなや、俺は解き放たれたかのように精力的に活動した。
まずは、小谷城の大広間で浅井家家臣団と対面だ。
観音寺城も大概だったが、この小谷城も急峻な山城だ。
お屋敷を出て険しい山道を登る。
番所を抜け御馬屋敷、桜馬場を抜け、鐘丸の大広間前にたどり着く。
道中。
「ふう、『いざ鎌倉』ならぬ『いざ江北!』の時には、小谷城に登城する習わしとはいえ、面倒なことだ」
直経に愚痴をこぼすが。
「若、登城してこその儀式ですぞ。ご辛抱あれ」と、あっさりと言い負かされた。
「確かに、儀式の中心だもんな」気を取り直し山道を登った。
木々が途切れると、遙かに琵琶湖が見渡せる。
小谷城下の街も手に取るようだ。さずがは要地小谷だ。
街の賑わいは、観音寺城下にはおよばないものの、惣構えだ。
防衛力ではこちらの方が遙かに高い。
織田の軍勢数万を、平然と見下ろしていた訳が判るというものだ。
確かにこの城ならば、そうそう負けることは、無いと思う。
最長8ヶ月籠もれば、雪が降ってくれ攻撃側の軍は行動不能だ。
ここに城を築いた、祖父、亮政公の戦略的・地勢的な着眼点は秀逸だ
「若、そろそろお召し替え下さい」
景色を眺め感心していると、友松に呼ばれた。
そろそろ広間に顔を出すために着替えねばならない。
「判った、行こう」
直経と友松に導かれ、支度部屋へと急いだ。
大広間には、浅井に与する国人衆、譜代衆、親族・一門衆が、俺を待って勢揃いしていた。
皆が俺の無事の帰還、そして初顔合わせを喜んでくれた。
(俺は、この者たちを導いていかなくてはならないのだ。)
判断を誤る事は許されない、決して『無意味な死を彼らに押しつけてはならない』と改めて決意した。
堅苦しい儀式の後は、無礼講な宴会騒ぎが続いて大変賑やかだった。
この雰囲気が江北だと、しみじみ懐かしく感じられた。
その後、10日ぐらいは、いろいろと挨拶回りに忙殺された。
父上よりいただいた屋敷にも押しかけてきて、いろいろ皆のふるさとの話を聞かせてくれた。
みな、『寄り合い』という会合が大好きなのだ。
流石に疲れた。
半月ほどで、親族・家臣団の顔と名前を覚えるのは、なかなかできない。
役職名や続柄、婚姻関係を覚えるのが、あまりにもややこしすぎて骨だ。
向こうは俺と数人だが、こちらは百人以上覚える必要がある。
切実にゲームみたいな『情報ウインドウ』がほしい。
奥さんが複数いるのは、正直勘弁して欲しい。
ややこしすぎるわっ。
「はあ、ようやく一段落か?」祐子の入れてくれたお茶を飲んで一息ついた
俺が以前から進めていた試験的な実験も、多少は成果が期待出来るようだ。
飢饉対策とか備蓄関係については、『赤尾・雨森のじいさまたち』が、地道にコツコツと出来る範囲で順次おこなってくれているらしい。
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― 弱小 ―
俺が考えるに、浅井家はまだ戦国大名になっていない。
六角家に従属しているという事もあるが……、
江北での浅井家の立場は、あくまでも国人領主連合の盟主でしかない。
つまり京極家の被官の時代とほとんど立場が変わらない。国人領主から脱却出来ていないのだ。
ましてや国人勢力としても、さほど飛び抜けているわけでもなく、多少『浅井の名前』が通っているにすぎない。
唯一、『天下の堅城小谷城』が、浅井家の盟主としての地位と存続を保証している。
今はまだ、国人衆の利権調整の代表格でしか無い。国人衆はそれぞれの思惑があり、二股膏薬だ。
『烏合の衆』とは、よくいったもので、勝っている時は良いが、負ければすぐに離散し粘りがない。
浅井が弱いと云うよりも、個々の纏まりが弱く、大きい勢力相手だと勝つまで粘り切れずに負けてしまうのだ。
どんな戦いでも被害を受けずに一方的に勝つことは、あり得ない。そんなのは、まれであるし参考にならない。
しかも、相手の方は、近江の守護を勤める名門の六角勢。そして、越前の名家、朝倉家である。
いずれも半端なく勢力がでかいのだ、動員力2万強は伊達ではない、勝機を得るまで粘れねば絶対に勝てない。
と言うか、それでも相手が攻撃を諦めて帰ってくれるのが「戦略の大前提」だ。
江北の浅井の立ち位置など、邪魔になるか成らんのかの違いでしかない。
浅井領は、通り道。浅井家は路傍の石ころにすぎない。心せねば。
たとえ浅井と京極とが激闘していても、必要ならば、ごり押しで蹴散らしながら中山道を通る奴らである。
まともに相手をしようというのが無理なのだ。
ホント、頭が痛いよ。
ようやく、自由という翼を手に入れた、新九郎。
いろんな想いが過ぎります。




