素朴な疑問 『あさくらちゃん』とは?
視点と見え方の相違のOHANASIです。
秋、敦賀郡司家の朝倉宗滴さんが死去されました。
80手前なのに、ばりばり働いていた、元気なおじいさんです。
先代の朝倉当主に続いて惜しい方を無くした。
まあ、浅井氏(久政)が弱くなったのとも関係があるのかもしれない。
先代の朝倉家の当主、朝倉孝景、朝倉宗滴とはどんな人だったのか?
まあ定説は……
「六角さんが小谷を攻めてきた。きゃぁ~大変。
六角の大軍を目の当たりにした亮政は、越前の朝倉孝景に救援を求めた。
孝景は、名将宗滴を援軍に送り、六角氏と浅井氏との講和を調停を勤めた。
そのおかげで、めでたく和議が結ばれた。」
だから恩義がある、だと思うけど……。
爺に、『あさくらちゃん』のことを聞いてみた。
爺も聞いた話と前置きしたが……。
要するに、
大永五年 お祖父様(亮政)は、土岐頼芸派の長井氏の要請を受け、
「美濃のお家騒動の混乱」に乗じて、関ヶ原の方へ介入しようしていた……。
「ひやっは~、美濃、関ヶ原、戴き~!!」
と、思う間もなく朝倉孝景に「義弟救出」を命じられた宗滴が美濃の内乱に介入してきた。
六角さんもやって来た。
宗滴は、「まあまあ、六角殿、私にお任せを」
(じゃかぁっしい~わ、おんどれだぁ~とれ、儂がなし(話)つけたる)と六角さんを押さえ込み、
亮政を説得(O.HA.NA.SI)した。
首尾良く、邪魔者(亮政)をおとなしくさせ、美濃へ侵攻、れっつらゴ~。
一方的無双!!をして、頼芸・長井勢の反対勢力をフルボッコ!!見事勝利をおさめました。
宗滴は小谷城の一角に「金吾嶽」を増築、在陣し、六角氏と浅井氏の調停役を務めた。
とか言っているが、あきらかに「付け城だ」美濃に行くために拠点を確保しただけじゃん。
まあ、朝倉さんは、土岐頼武(孝景の身内)派だもんな、頼芸側の亮政はあからさまな敵じゃん。
敵とはいえ、攻めるのも大人げないからと『恫喝した』訳だ。
宗滴にとっては、「浅井領はただの通り道、浅井家は路傍の石」でしかなかったんだな。
恩義と云うより、直接家に乗り込まれて恫喝されたんだ、おじいさんも大変だな。
まるで。
不良にパシリにされている、『いじめられっ子』を見て「スゴク仲が良いと」勘違いしているみたいだ。
視点が違うだけで見方が、180度変わるな、おそろしい。
弱小勢力はつらいよ。
朝倉さん宗滴を派遣。
救出すべき『義弟』とは土岐頼定の事でした。
亮政はこの時、敵でした。
宗滴の「OHANASI」によって、犬になります。
異論があるとは思いますが、実際はこんな感じだったんだと思います。
弱小はつらいですね。