『決戦 淀の戦い』 ~ とある軍師の策略(イタズラ) ~
朝倉と三好の決戦が始まる。
『決戦 淀の戦い』
あれから数日が経った。
朝倉の動揺を見てとった三好勢が、すかさず攻勢をかけてくる。
上洛軍は、最大の危機を迎えることとなる。
越後の上杉家が抜けたいま、越前の朝倉家、若狭の武田家、駿河の今川家、近江の六角家、美濃の土岐家。ほかに、近江の浅井家、大和の松永家。その他、上洛軍に従った丹波内藤家、赤井家、河内池田家ら有力国人の寄り合い所帯である。
義昭を擁立する朝倉派は、戦が長引くにつれてその勢力を縮小していった。
兵を起こして早、半年が過ぎようとしている。
手伝い戦としては、あまりにも長い在陣である。
台所事情に余裕のないものには、相当きつかろう。
朝倉家以外、ほとんど利益を享受していないのであるから、不満も大きい。
上洛軍に降伏した丹後・丹波の国人衆も、もはや面従腹背の様相を見せている。
わずか数日で、このような事態になってしまっていた。
皆をまとめていた軍神の存在が、とても大きかったのがあらためて感じられた。
かの軍神が参加する以上勝利は間違いないというのが、彼らの服従の根拠だったのだ。
また、公家衆と懇意な浅井家が、朝廷と交渉すると思っていたようだ。
皆、朝倉の家来なのではない、時流に乗ろうとしただけである。いや流されたと云うべきであろうか。
軍議が行われるが、場の空気は毛ほども改善されない。
いや、悪化をする一方であった。
総大将朝倉義景・副将景鏡が、露骨に諸大名・国人の軍に損耗を強いる布陣を強いたことで、義秋派の進退はきわまった。
まるで、蕩けるかのごとく、軍としての結束・団結が霧散していった。
唯一の朗報といえば、浅井家の家臣.遠藤直経が5千の兵を引き連れ参陣したことぐらいであった。
「もとより、朝倉だけでも勝てる戦よ」
義景は、そう嘯きながらも腰が引けていた。
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― 決戦 ―
早朝
川辺で休んでいた水鳥たちが、異変を感じて一斉に飛び立つ。
燃えるように赤々と紅葉した山々が、地鳴りを轟かす。
数万もの軍勢の移動により、山が大地が鳴動した。
両軍が山を降り、河を挟んで対陣する。
朝倉の軍勢は、天王山・山崎を降り軍勢を東へと進めた。
桂川を渡り、淀(現在の京都競馬場辺り)に本陣を置いた。
布陣は、中央前方に松永軍、中央に浅井軍。左翼に今川・土岐と河内国人衆、右翼に若狭武田と丹後一色、それに丹波衆だ。
もちろん、朝倉は後方に控え戦況を見守ることとなる。
木津川、宇治川を渡ってくる三好勢を待ち構えていた。
三好の軍勢も山を降り、木津川を渡ってくる。阿波・摂津の諸将の旗指し物が見て取れる。
河原には、おびただしい軍勢がひしめいている。
「決戦のときぞ!」
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最終的に、松永兄弟の軍勢が若狭の武田軍と土岐・今川、残りの国人衆を両脇に引き連れ矢面に立つこととなる。
浅井軍が中央。その後ろに六角勢。朝倉本陣はかなり後方である。
露骨な布陣である。
ここに至り、本気で戦おうとするものはいなくなった。
いかに被害を最小限に食い止めるかの算段が、密かになされていた。
その結果、消極的な応戦となった。とはいえ、相手のほうは戦意が旺盛だ。
三好軍の左翼に布陣した三好長治は、初めての大戦に張り切っていた。
まず最右翼の若狭武田軍の動きに、若干の異変が現れた。
士気が振るわず、そのままジリジリと後退する様相をみせた。
三好勢の圧力に耐えかねたのであろうか、若狭武田軍は潰走をはじめた。
それを追う三好勢。
兵馬の巻き上げた砂塵が舞い、視界が遮られる。
先陣を切って兵を率いる将は、『三階菱』 三好長治であろうか。
自ら兵の先頭に立って鼓舞するとは、なかなかのヤンチャをしている。
その後ろで諸将を巧みに操るのは、おそらくは三好長逸だろう。
三好勢に後ろを取られながらも、ひたすら逃げるように駆ける『武田菱』。
中央に控え、『三つ盛亀甲』『井桁』の旗を掲げる浅井軍の横を、大きく迂回した若狭武田軍。
これは、潰走ではない!!
馬を駆り、先頭を走る沼田祐光は、己が手足のごとく兵を統率していた。
「少しばかり礼をさせてもらおう。行き掛けの駄賃じゃ」
その視線の先、右前方には、朝倉家の本陣の旗 『三つ盛木瓜』 がなびいていた。
祐光率いる部隊は、その脇を、今度はかすめるように通り過ぎ、桂川を渡り一目散に北を目指す。
「そうりゃ、駆けろ駆けろっ!」
朝倉の本陣を囮にして、武田軍は本格的に逃げ出した。
慌てたのは三好勢に肉薄された朝倉である。
すでに敵が迫っている、思わぬ事態に狼狽をしながらも応戦するしかなかった。
戦況は、一変した。
前線の両翼が皆、被害を避けようと武田に倣い、みな散りぢりになって後退した。
先程まで堂々と翻っていた旗指し物であったが、もはや文字通り『旗を巻いて』逃げ去っていく。
武田家を監視していたはずの、朽木元綱も泡を食いそのまま逃げ出した。元綱は、名も知れぬ雑兵に追いつかれ、なす術もなくその場で討ちとられた。
両翼の潰走のせいで奇しくも出来上がった陣形は。
『鋒矢』 と 『鶴翼』 との、ぶつかり合いであった。
士気を喪失した朝倉勢とは違い、三好は勢いづいていた。
朝倉を打たねば、足利義栄を将軍に推す三好家に未来はないのだ。みながこの一戦に賭けていた。
三好がひろげた翼がついに、朝倉を捉えた。
左翼の三好長治と三好長逸ら三好勢が、すでに交戦を始めている。安宅・岩永勢が後に続く。
右翼を担う篠原長房、伊丹親興、池田勝正ら摂津衆も獅子奮迅の働きを見せ敵本陣を切り崩していく。
朝倉本陣は、前を浅井軍が守り、後ろに桂川が控えるという状況で、左右から三好勢の猛攻を受けた。
前後に身動きが取れない本陣の朝倉軍は、柔らかな脇腹を喰われていった。
それは背水の陣ですらない、周りを囲まれ自由に身動きすらできぬ間抜けな姿形であった。
もはや、生き残るには敵に無様な背を晒し、他の国人衆と同様に河を渡って逃げるしかなかった。
三好勢は、朝倉に与する兵を蹴散らし追い打ちをかけようと、ひたすら前へと進んで征く。
戦いの中央にとり残されていた浅井・松永勢は、ひたすら守りに徹していた。
彼らの軍勢は、奇しくも三好の中央を突破する形となった。
「「ここが生死の境目ぞ! 気張れぃ」」
と、久秀・直経らが配下の将兵を鼓舞し攻勢に転じた。
三好本陣に迫る浅井・松永軍。
果たして、逆転はなるのか………。
しかし、戦の勝敗は、もはや誰が見ても明白なぐらいに決してしまっていた。
後方に控えているはずの朝倉軍が、算を乱し我先にと逃げ去っていくのだ。
激しかった戦闘は、朝倉の潰走で幕を引いた。
もはや朝倉に義理立てをしたところで、益はなかった。
三好の本陣へと迫った浅井・松永であったが、にらみ合いに留め頃合いを見て兵を引いた。
三好義継としても、戦いを続けることなどできなかった。
旗大将が掲げる『公饗に檜扇』の旗を背に、全軍突撃しようと熱り立つ十河存保を抑え兵を固めさせる。
しばしの間、睨み合いが続いた。
この緊張が、永遠に続くのではないかと感じられた。
なかば傀儡であっても大将は義継だ、そろそろ頃合いだと軍を引くように命じた。
三好としても喉元に剣を突きつけられる、危うい勝利であった。
斯くして、およそ半年に渡る長い戦いは、三好家の勝利で幕を閉じた。
右京の外れには、越前を目指し這々の体で逃げる朝倉軍の姿があった。
そこには、半年前の栄光は微塵もなかった……。
実は、この話のために、沼田くんは引き抜かなかったのである。
感想で沼田祐光を長政の配下にと推してくださった方、お待たせしました。ようやくの登場です。
長政は、『京都守護職』の仕事をしておりますので、京.本国寺でお留守番です。
浅井軍は、名将.海北綱親が総大将として指揮を執っているという設定です。
土岐軍には、重鎮.雨森弥兵衛が土岐頼次の名代で指揮をしていました。
浅井家主力.遠藤直経は、殿といっしょではないためおとなしめです。
いわお(河田長親):直経の宥め役。
謙信が長政に迫ってきた時の保険の役がなくなったので、直経の首輪として参戦。