『女心と秋の空』
窓の外には、虫の声が聞こえます。
もう秋なんですね。
『女心と秋の空』
永禄10年(1567年) 秋
京の都の郊外では、山々が赤く色づいていた。そこかしこに美しい紅葉が見られる。
とはいえ、その景色を心から楽しむ者など居るはずもなかった。
石清水八幡宮の鳩が峰に陣を置いた、 足利義栄を推す、三好勢。
天王山を奪取した、足利義秋を推す、朝倉・上杉らの守護連合。
両陣営のにらみ合いが、今なお続いている。
畿内に住む町人・農民たちは老若男女問わず、応仁の乱が再び始まるのではないかと恐怖におびえていた。
夕日に染まるあざやかな紅葉でさえ、心に巣食う不安からであろうか、何やら禍々しさを感じてしまうのだ。
そのような緊迫した状況の中、京の都で着実に足場を固める京都守護職.浅井長政。
彼は与えられた職務を、精力的かつ忠実にこなしている。
小堀正次、板倉勝重、そして河田長親を奉行に据え、復興や町作りに着手している。
さらには見廻り組まで立ち上げて、京の治安にはことのほか注意を払っているようだ。
もちろん浅井家当主としての仕事も、抜かりはない。家臣への指示の文も大量にしたためている。
浅井家は、斯波家を密かに後援し尾張上四郡をも手中に収めようとしていた。
そんな折り、長政には文が届いた。
とはいえ、政治的に重要な連絡文書というわけではない。
個人的なやり取りである、長政も奥方から届く手紙が楽しみのようだ。
これもまた、大切な文なのである。
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― 浅井長政 ―
思っていた以上に、長いこと京に滞在している。
本音をいうと、早いこと小谷へ帰りたい。
将軍を奉じての上洛戦が長引いている上に、京都守護職まで任官したからな。
南禅寺跡地から、そのまま本国寺の陣屋に入ったからいろいろな不都合がある。
「このまま単身赴任は、ご勘弁願いたいよ」
岩男(長親)が真面目に「では、どなたか奥方をお呼びすればよろしいではございませんか?」
なんて、バカげたことを言う。
「政之には、”山科に女を連れてきていいぞ”といったが、あれはちょっとした冗談だ。 初陣の前だしな。
まあ別に連れてきたところで、褒めこそすれ怒りはしないが……。流石に俺が、そのような真似をするわけにはいかないだろう?」
「左様ですか」
心底、訳が分からないという顔をしてやがる。
相変わらずな奴である。
まあ、多少融通がきかないのは仕方がない。こいつは、保険だからな。
このまま、放置しておこう。
正直、家族との手紙のやり取りが今の俺の唯一の楽しみだ。
「どれどれ、みんな元気に仲良くしているかな?」
先ほど佐吉から受け取った手紙を読むとしよう。
「ふむふむ」
綾姫からは、愛姫の近況が綴られていた。可愛い盛りなのに、側にいられないのが辛い。
縁は、俺の体調を気づかう内容ばかりだ。涼しくなってきたから寝冷えしないようにとか、俺はいくつだよ!
祐(直虎)からは、息子の虎丸(夜叉法師)の稽古のことばかりが綴られている。頑張っているようだ。
そして、泰香からは、「三好や地方の大名の動向に注意されたし」と念を押された。
確かに義栄が左馬頭に任ぜられたのは、正直不安要素である。
(とはいえ、蔵良よりもそっちの話のほうが大事なんだな。さすがは重虎だよ)
朝倉景鏡のやつが、俺が思っていた以上に無能で、あの時はびっくりしてしまった。
あの状況で、左馬頭をかっ攫われるなど普通絶対にありえないぞ。
まあ、今のまま朝倉が好き勝手にしたのでは、それはそれで俺も困るからな。
これで、やつも多少は頭が冷えただろう。
京の情勢は、はっきり云って義秋を推す勢力が優勢であった。
最終的に、浅井家が加われば状況は決すると思われた。
洛南の戦いでも、軍神.上杉謙信が神がかり的な力を発揮して、まるで蚊でも払いのけるかのように三好勢を易々と追い払い天王山を制している。
現在、桂川と宇治川、それに木津(淀)川の3本の川を挟んで両軍の睨み合いが続いている。
情勢は、長政の思惑通りに進むかに見えた。
しかし、そこに思いもよらぬ報告がもたらされた……。
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畿内では、両陣営が互いににらみ合いを続けている。
もし、軍神.上杉謙信に全軍の指揮権があれば、数日を待たずして決着がついていただろう。
しかし、そうではない。
三好も京に長政がいる以上、迂闊なことが出来ない。
双方ともに、決定打を欠いていた。
一方、地方では……。
情報伝達の手段が限られているため、情報の齟齬や改竄がまかり通っていた。
特に山深い地域や、独自の情報網が脆弱な小国は、正確な情報を得るのに苦労していた。
曰く、『三好が推す足利義栄公が左馬頭に任ぜられ、征夷大将軍となった』
というものである。
これは三好側が故意に流した情報であると同時に、皆が、左馬頭=将軍という風に思い込んでいたことの表れでもあった。
足利義栄に対して朝廷から左馬頭任官の許可がおりたのは、真実である。
(京に入っていないため、正式な叙任はまだである)
任官の許可が公式のものである以上、将軍宣下は目の前なのも確かなのである。
色々とややこしい。
それを受けて動いた者たちがいた。
『温井景隆』 と 『椎名康胤』である。
ことの発端は、能登の遊佐続光である。
能登の守護、畠山義続・義綱父子は、温井氏を追放することに成功し守護としての力を次第に増していた。
守護による支配を復活させようと図るが、逆に重臣達からの反発をかってしまっていた。
昨年、永禄9年(1566年)のことである。
畠山七人衆の遊佐続光は、家中の反発を上手く利用することで、守護を追放することに成功した。
続光は傀儡として、畠山義隆を後に据えた。
遊佐続光は、能登の支配権を望んでいると思われる。
この件に関して、上杉謙信は神保長職を対処に当たらせた。
その最中での出来事である。
温井総貞が、反抗の狼煙を上げた。
今度は、遊佐続光の方が、温井総貞の子景隆によって討たれてしまった。
温井家は、加賀の一揆衆とつながりが深かった。
一揆勢を味方につけたのだろうか?
と、皆が推測をした。
温井景隆の背後には、本願寺に圧力をかけた武田信玄がいた。
信玄の調略の魔の手は、それだけに留まらなかった。
武田の透破や歩き巫女が、密やかに噂を流した。
『三好が推す足利義栄公が左馬頭に任ぜられ、征夷大将軍となったらしい』
『上杉謙信は、将軍の擁立に失敗した。関東管領の地位も、もはやあぶない』
これほどショッキングなニュースは、ほかにあるまい。
かの”軍神”が、京の都で失策したのである。
事態は大きく変わるだろう。と、皆が踊らされてしまった。
神保長職が、上杉家と共同して事態の収拾と義綱の能登復帰作戦を画策するのだが……
~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~
椎名康胤は、悩みに悩んでいた。
越中東部を支配する椎名家では、宿敵.神保家に対する巻き返しを望んでいた。
「はてさて、いかがすべきか」
椎名家の当主康胤は、重大な決断を迫られていた。
最終的な判断は自らが下すとはいえ、家臣たちの意見も慮らねばならない。
「神保家の圧力がある今、上杉家を頼るほかはございますまい」
稲見七郎右衛門茂周が、悩める康胤に言上する。
「左様でござる」
あの上野勝重でさえも追従する。
家臣は一様に、上杉を当てにしている。
「確かに、上杉殿には恩がある、しかし……」
康胤の顔には、苦悩がありありと浮かんでいた。
神保長職が勢力を急激に回復し、椎名家を圧迫している。
永禄5年(1562年)9月の神通川の戦いでは、椎名軍は神前孫五郎を討ち取られるなどの大敗を喫し、居城の松倉城まで攻め込まれる事態となった。
この時は、謙信が来援したおかげで事なきを得た。また、謙信からはそれなりの信頼も寄せられてもいる。
家臣は、このことを元に意見を言っているのである。
とはいえ、これらは康胤が長尾一族の長尾景直を養子に迎えているためである。
長期的に見れば椎名家は、上杉に半ば吸収される定めであった。
それだけではない、上杉家は能登の守護畠山氏の顔をたて、椎名家の宿敵である神保家にも甘い。
康胤には、椎名家には先が無いように思えてしまった。
そんな中で、武田信玄からの密書が届く。
『逆臣.上杉謙信を討つべし』
密書は、将軍義栄公が義秋を担いだ逆臣を討つべく、すでに諸大名に働きかけられているというものだ。
もちろん武田家も参加すると、付け加えられている。
「なるほど、温井景隆殿が突如立ち上がったのはこのためかっ」
康胤は、書状を手にしたまま叫び声を上げ、思わず立ち上がってしまった。
このまま神保家が、畠山義綱の能登復帰作戦を主導してしまえば、必ずや守護を利用して再びわが椎名家に圧力を加えるだろう。
そればかりは看過できなかった。
好機到来。
「みておれ、神保家に鉄槌を下してやる!!」
椎名康胤は、甲斐国の武田信玄の調略に応じた。上杉家を離反し、神保家に攻撃を仕掛けた。
長政は用心深いです。
岩男が保険なのは……、
そうそう!
来月、10月1日と2日に長浜市では『アートイン・ナガハマ』が、開催されます。
なんとなんと、30年も続くイベントなんです。
『長浜ものがたり』にて、ねねたちが歩いた旧市街地の各通りに、芸術家たちが集います。
道のど真ん中に、ズラリと芸術版楽市楽座(自主制作品のフリ-マーケット)が展開します。
町の通りなのですから、もちろん無料ですよ!
(気に入った作品を見つけたら、応援のために買ってあげてくださいね。)
もちろん、見て歩くだけでも楽しいこと間違いありませんよ。
この日はぜったいオススメです。
ぜひ、長浜観光にお越しくださいませ。
ひさまさも、スゴク楽しみにしております。
長浜が大好きな ひさまさでした