アズルという男。
あぁ、僕は何をしていたんだろうか。
アズルが彼女に出会ったのは、本当に何の変哲もない日常での事だった。
授業の合間の息抜きにと、学園内にある庭園で咲き誇る花々の中を散策していた。
代々、王家の傍近くに控える、時に宰相位を頂くこともあった、優秀な高官ばかりを排出してきた大貴族。そんな家の嫡男として生まれついたのが、アズルだった。
大きな領地を持ち、貴族社会の中において大きな影響力を持つ、多くの爵位を抱く一族の次期当主として生まれながらに決まっていたアズルは、そうであるからこそ幼い頃から勉強に次ぐ勉強を強いられていた。
強いられていた、と言っても別にアズルがそれを厭っていたということはない。
自分がまだ知らないことを学ぶ、ということはとても楽しかった。
知っていることでも、すでに持っている知識との差異や見解の違いなど、色々な考えがあることを知ることが出来ると面白かった。
だから、別にアズルは自分の境遇に苦しみを覚えるということは無かったのだ。
彼が学ぶのは、責任を負うこととなる立場故であり、彼の楽しみの為。
彼の周囲に多くの人々が集まるのは、彼が負うこととなる立場に必要な知識と経験を得る為に必要なことであり、何より多くの意見や考えを触れることで彼を楽しませる事だった。
でも、彼女はそんなアズルを違うと言った。
勉強ばかりを強いられて可哀想。
立場でばかり見られて可哀想。
私はそんなことを、貴方に強いたりしない。
私は貴方をちゃんと見てる。
彼女が言っていることは、アズルには理解出来なかった。
突然出会い、まるで今までも付き合いがあった、親しい友人のように話しかけてきた、マリア。
彼女の言っていることは、全てが的外れで、なのにそれが真実なのだと言わんばかりにアズルの否定の言葉を聞くこともない。
そして、マリアの言葉を聞けば聞くほど、それはアズルにとって真実になっていった。
アズルの一人称は、『僕』だった。
でも、マリアは違うといった。アズルは『私』と自分を呼ばなくてはならない。
アズルは人の意見を聞くのが好きだった。
でも、マリアは違うといった。アズルは、人の意見になど耳を貸さず、全てを自分の考えだけで動かそうとする独善的なところがあるのだから。
アズルの全てはマリアによって否定され、それが新しいアズルの本当となった。
マリアがそう言うのだ。そうでなくてはならない。
マリアの言葉は絶対だった。
そうでなくてはならなかった。
だから、アズルはそうなるように動いていた。彼女を否定するものには罰を与え、彼女を害そうとするものは排除した。彼女が欲しいと思うものは、彼女がそれを口にする前に察して差し出した。彼女が傍に置きたいといった存在は、彼女の前に引き釣り出した。
彼女が気に食わないといえば、親戚関係にある者達も、家族も、幼い頃から親しい付き合いを続けていた婚約者でさえ、彼女が言うがままに始末してみせた。
言い訳にしかならないだろう。
僕は、犯してはならない罪をどれだけ、マリアの名の下にこの手で犯したのだろうか。数えることも出来ない。悔やむ事もおこがましい。
僕は、血塗れた罪人だ。
今なら分かる、マリアの微笑みが醜いものだと。
僕じゃない僕が美しいと褒め称え、女神と称した彼女は、とても恐ろしく汚らわしい存在だと。
すっきりとした僕の頭は「嫌だ」「触るな」「今なら…」と叫ぶことが出来る。
なのに、身体は言うことを聞かない。
僕の手足なのに、僕の命令を聞かない。
僕の口なのに、僕が思ってもいないことを淀みも無く紡いでいく。
ほら、今も…。
風が走り抜ける音が耳に届いた時にはもう、それは避けることも出来ないところにまで来ていた。
目には見えない筈のそれは、アズルの隣で笑顔で身体を休めているマリアの胸へと真っ直ぐに、吸い込まれるように勢い良く入っていった。
胸に穴を開け、御輿の床へと倒れていったマリア。
『僕』はそれを見て「ざまぁみろ」と罵っている。なのに、その口は全く違うことを叫ぶ。
「マリア!あぁ、私の女神!誰がこんな非道な真似を!誰がこんな罪深い事を!!!」
そして、その手は倒れたマリアへと抱き上げ、そのマリアの身体に顔を埋めたアズルは激しい慟哭を上げて、涙を流している。
「あぁ、マリア、マリア。貴女を失ったら私は!!」
「うっさいわね。だったら、さっさとアンタの全部を寄越しなさいよ。」
「えっ?」
マリアの胸元から顔を上げたアズルの目に映ったのは、口元から血を流して自分を見下ろしているマリアの、冷たい冷たい、恐怖さえ覚えるような目だった。
「最っ悪!!」
床に投げ出されたままのアズルの耳に、マリアの不機嫌な声が届いた。
「もぉ~なんなのよ!?」
椅子に座り直して、乱れてしまった髪を弄るマリアの姿。
準備もまだ整っていないのに侍女達を処分したマリアの為に、その髪を綺麗に整えたのはアズルだった。
幼い頃から決まっていた婚約者。彼女の為に出来るようになったその技術を、マリアの為にアズルは惜しむことなく何度も披露していた。それを、『僕』は酷く悲しく思う。
アズルの妻になることを生まれながらに決められていた婚約者である彼女は、本を読むことを好む人見知りがある大人しい女の子だった。親達の思惑の下で、何度も何度もお互いの家で交流を深めていたアズルと彼女だったが、彼女はすぐに図書室へと逃げ込んでしまうのだ。そうなると、アズルもまた図書室へと追い立てられた。本に夢中な彼女の横で、しょうがないからと本を読んでいたアズル。別にそれが苦になる訳ではなかったから良かったが。
本に夢中になると人目も気にせずに床に寝転んだり、それが難しい内容だったら頭を掻き毟りもした、彼女。
そして、読み終わった後に「どうしよう」と涙を滲ませながら焦るのだ。
アズルの髪結いの技術は、そんな彼女の為に身に付けたものだった。
親や家族達も、使用人達も知らない、彼女と『僕』だけの特技。
ごめん。
最期にみた彼女の姿を思い浮かべ、今の『僕』は謝ることしか出来なかった。
もう、アズルの身体が動くことはない。
床の上に投げ出された自分の腕は、腕の形をしているだけの、カサカサに枯れ果てた木の枝のような物体だった。
きっとそれは、アズルの全身がそういう状態になっているのだと思う。
うぅうううぅう
辛うじて声が漏れた。言葉にもならない、声とも言いがたい、音。『僕』にはそれが、「マリア。良かった。私の女神。」と言っているのだと分かった。こんな状況になっても、『僕』ではないアズルはマリアに愛を囁いている。
「あら、まだ生きてたのね。普通だったら、傷ついた私に全てを捧げて砂みたいになっちゃうのよ?」
「やっぱり、攻略キャラだから長持ちするのかしら。ってことは、私が怪我しちゃった時用に攻略キャラ達は回収しておいた方が良いのかしら…」
そんなアズルに投げ掛けられたのは、何の感情も抱いていない冷たい声。
マリアが腰掛ける椅子に向かって投げ出されているアズルの腕を、マリアは蹴り飛ばした。
ポキリッ
軽い音を立てて、蹴られた腕が折れた。だが、もうアズルは痛みを感じ無かった。
化け物め。
『僕』の霞み始めた目に映ったマリアに、そう罵りたかった。
自分もまた、被害者達からすればマリアと同類なのだと分かっていても、そう言わずにはいれなかった。
それでもまだ、アズルの口は呻き声のように聞こえる、マリアへの愛を囁き続けていた。
攻略キャラ。
それが何か分からない。
だが、予想はついた。
マリアの傍にアズルと共に侍っていた彼等。
マリアを巡って争っていたが、彼等も多分、アズルと同じ状態なのだろう。
どうか、此処から遠く離れた何処かで、『僕』のように正気を取り戻し、出来ることならば身体の自由を取り戻していてくれと願う。
何処か遠くへと逃げ延びてくれと、願う。
罪は全て『僕』が背負うから。だから、彼等だけはどうか見逃してあげてくれ、と『僕』は見た事も感じた事もない神に祈っていた。
もう、いらないの。
マリアのそんな声に導かれ、彼女の胸元を押して突き落としたのは、アズルの手。
涙を流して小さくなっていく彼女に、また会いたいと、会って許される時が来なくとも謝り続けたいと想う。
だが、そんな事は絶対に無理だと、ちゃんと理解していた。
アズルが向かうのは、本当にあるというのなら地獄という場所だ。
遠い異国の本にあった。
罪人が墜ちていくという、裁きの世界。
婚約者であるアンナと二人、その恐ろしく描かれた裁かれる罪人達の絵を見ながら、恐怖に震えたのは幼い日のこと。
今思えば、それは本当に馬鹿な事だった。大人しく、人見知りで、心優しいアンナが、地獄になど墜ちる訳がないのだ。墜ちるのは、血塗れたアズルだけ。
さようなら。
大切だったアンナに、もう届かないと分かっていても別れを告げずにはいられなかった。
また会おう。
きっと地獄に墜ちてくるだろう、マリアに向けて言わずにはいられない。
それが、アズルが最期に考えた事だった。




