シャール王国という最期。 後
「死にたくない。」
搾り出すような声が聞こえたのは、一陣の柔らかな風が辺りを駆け抜けた直後だった。
あぁ、目を覚ましたね。
その風は、侍女の身体を自分の物とし、その感覚までも支配しているオウキにも感じ取れた。
だが、その風によって目端に生えている木々の葉が揺れることもなく、燃え上がろうとしている炎を揺らすこともなかった。
死にたくない、と命在る者なら当たり前に持っている本能が、小さく、本当に小さく声となる。
少年とも呼べるような幼い顔立ちの若い兵士から漏れたその声は、浮かれたマリアが行列を成して出立していく音に簡単に掻き消されてしまうものだったが、指先一つ自由にならない身から耐えることなく紡がれ続けた。
ポタッポタッ
晴天の中、ある一つの石畳の上にだけ水滴が落ちる。
それは、声が紡がれる場所とはまた、違う所でのことだった。
水滴が落ち、そして消えていくその石畳の上には、一人の壮年に差しかかろうかという男が立っていた。涙を零す目は、真っ赤な炎に煽られてなお、黒く揺らめいている。
同じ様な光景が、あちらこちらから。
皆一様に、王都から消えてから随分となるオウキにも覚えのある気配を放つ者達だった。
侍女に兵士、王宮に潜り込む為に使った体に留まっていたオウキは、マリアの出立のどさくさに紛れ、マリアの"道具"を持ち去ろうとしていた。
自分自身の享楽にしか興味を持たないマリア。マリアを前にしてしまえば、マリアにだけ意識を向け、マリアを楽しませる事だけを考えろと『お願い』を植えつけられているアズル。
二人はすっかりと、神から贈られた御褒美のことを忘れていた。
皇国を支配する為に大いに役立ったというのに、忘れ去られた"道具"フェルン・テレースという名を持っていた筈の少年を、オウキは放棄され消し去られようとしている王都から、助けるかも知れないと祈るように口にしたオリヴィアの下へと、運び出そうとしていた。首、両腕、体、両足、全身のあらゆる所へ身に付けさせたのは、破邪の力を含んだ白い装身具。何の装飾も施されてはいない、ただ身に付ければいいと一度粉にした白い石をその形へと凝り固めただけのもの。その体の中には、オウキの魂の一部も入れ、白い石と共に運んでこさせ、オウキが取り込んでみた存在達も放り込んで置いた。少年の意志と反して勝手に動き、マリアの声と言葉を紡ごうとする口もそれで抑え込むことは出来た。だが、こうまでしても少年の自我というものは見えてこない。オリヴィアは出来るかもと言ってはいたが、死なせてやる方が救いかもしれないよ、とオウキは遠く離れた場所に居る哀れな運命を歩まなくてはいけない"妹"を想うのだった。
上空で様子を窺っている娘の気配を感じ取りながら、オウキは「それでも」と言うであろうオリヴィアの下にフェルンを運び始めていた。
王都への興味は最早オウキの中には無く、燃やされようとしている王国の住民達のことも、燃え尽きたら一度戻り、喰らい尽くすか程度にしか考えてはいなかった。
だが、オウキと一部の者達にしか感じ取れなかった風によって、そして、その後に始まった些細な抵抗を見て取り、オウキは深い笑みを浮かべることとなった。
その風を感じ取れたのは、破邪の血を微かにでも持つ、つまりオウキの血を引いている者達だった。
黒髪の若い兵士も、黒い目の男も、大恋愛の末に婿へと行ったオウキの息子の血が感じ取れる。
他にも、二人程ではないが小さな抵抗を見せようとしている者達も、オウキの孫、曾孫に当たる者達だった。
「血を通じて、破邪の力を伝えたのか。」
今頃、黒い靄を全て消し去って、寝台から立ち上がっているだろう、エリザの姿を想像する。
血は、何よりも勝る力の媒体。何よりも勝る繋がり、道筋。
オウキが想像するに、エリザは『家族』以外を拒絶したのではないだろうか。
エリザにとっての『家族』は、何よりもエリザを愛し、護ってくれる存在だ。オウキが見るように仕向けた『死』は全て、他人によってもたらされる、助けなど望めようもない絶望。エリザが助けを求めるのならば、それは『家族』に求めるだろう。今までもずっとエリザのことを強く厳しく、しっかりと護ってくれていた家族なら助けてくれるのだと、マリアによってもたらされた苦境によってより一層結束の固まったサルドの一族以外を拒絶するのだと、オウキは考えていた。それに、テイガ達にも言うことなく嗾けた下種な『死』がより一層、そんな事をエリザにしないと明言出来る『家族』への思いを募らせる。
全て、オウキの計算通り。
唯一の誤算があったとすれば、オウキのそんな性格を知っている筈の妻や娘に叱られたこと。本体は暫くの間落ち込んでしまっていたようだが、感情も切り離し、ほぼ別の個体として存在しているに等しい自分から見れば、笑える喜劇だった。
血によって伝わった『家族』以外を拒絶する力。
それによって、根付いていたマリアの力の大半を排除することが出来たのだろう。全てとはいかないのは、彼等が持つ血が薄まっていることと、遠く離れていることだろう。
エリザの力が足りないということではない。それだけは、本体に確認を取って、確かだといえた。
テイガ達は、血が濃い。本家筋ということもあって、テイガ達兄弟の両親は一族内で婚姻を結んでいる。サルドでは無い家に入った血などとは比べ物にならないのだ。
助けるか、助けないか。
さぁ、どうしようか。
オウキとしても、他人ならば見捨てようが何をしようが、興味の欠片も感じない。
だが、一応は己と愛妻の血を継ぐ存在。エリザのように、遠い血の先にオウキを楽しませてくれる者が生まれる可能性を秘めた者達だ。ならば、助けるか?
そう自問したところだった。
「死にたくない。」
一つの声がオウキの耳へ届いた。
それは、他に聞こえる声と同じ。
だが、そこに含まれていう感情が、悲壮なものではなく、決意を秘めているような力強いものだった。
「そう、こんな事で死んでよい命など無いのだ。この国の民が、死んでよい訳がない。」
マリアの『お願い』によって、炎を生み出していた筈の王、ガンゼ。
炎を生み出すことを止めた手に拳を作り、深く爪を食い込ませたのであろう手からは血の雫が生まれていた。
オウキの末の娘が生んだ、シャール王国の王。
しっかりと母マリアベルから、オウキの血を受け継いでいたのであろう彼は、他の者達よりもはっきりと正気を取り戻し、体の自由さえ取り戻していた。
「陛下!?」
それだけでもオウキを驚かせていたというのに、もう一人。物陰から飛び出すように、完全に自由を保っている騎士らしき風貌の青年が現れた。
その胸には、紐によって吊るされた白い石のついた、オウキもよく知る指輪が揺れている。
「フレミングの息子の、確かマークという名であったか。」
その腕を炎に向けて動かしながら、ガンゼは走り寄ったマークに一瞥をくれた。
多くの魔術師によって生み出される真っ赤な炎。だが、マリアの『お願い』通りであろうのならば大きく広がっていく筈の炎は、ガンゼが腕を大きく振り回し始めると同時に広がりを止め、ガンゼの周囲に留め置かれているようにも見えた。
「はい、陛下。」
「正気を保っているのならば、一つ頼みがある。私がこの炎を留めている間に、王都から出来るだけ多くの者達を逃がしてはくれんか。出来うるのならば、全員を。」
それは、無茶な願いだろう。
たった一人で、正気のないような人々を王都から出す。
どれだけでも時間を掛けていいというのなら、何れは出来るかも知れない。だが、すでにガンゼの腕には無理が祟ったかのように血管が浮かび上がり、大きく振るえている。
一人対多数。炎をそう永い間、抑えきれる訳も無かった。
「王都の民の半数は、数日前より王都から連れ出し、出来る限り遠くへと向かわせました。」
エリザ達が王都を抜け出た頃から、マークは一人、王都の住人達を助けようと奮闘していた。
マリアに悟られないように、マリアが醜いと見ようともしない光の当たらない場所に住む住人達から少しずつ。老いたものから始まり、子供、あまり見目の良くない若者達と、王都の外へと連れ出して、匂いが届かない場所へと送り出す。そんな事をする程度で、マリアの力から抜け出るかどうかなど、マークには解らない。彼がわかっていたのは、マリアの匂いが原因だということだけ。
「ですから、陛下。陛下も…」
「ならん。愚かにも良いように正気を奪われ国を滅ぼす不甲斐ない王ではあるが、私は王だ。国を捨てるのは、民達よりも後でなくてはならない。」
騎士の家に生まれついたマークにとって、助けられるかも知れない多数よりも絶対に助けられる確実性を選び、何よりも主である王を守らなければならないと考えるのも、極当たり前のことだった。
だからこそ、多数の魔術師によって生み出される炎を抑えるなどという、命を落とす可能性が多い行為を止めさせ、逃げるよう進言することがマークの中に根付いている忠義だった。
「ですが。この数を逃すなど、恐れながら陛下の御命が費えてしまわれます。」
「良い方法があるよ?」
一向に引く事が無いであろう押し問答。
呆れたオウキが口を挟んだ。
突然、表情豊かに話しかけてきた一人の侍女に驚き、マークは剣を抜こうともした。
「僕はサルドの人間だよ。敵じゃない。」
「サルドの…?」
疑わしげな表情のまま、警戒を解こうともしないマークだったが、痛みさえ覚えながらも炎を抑え続けているガンゼは侍女姿のオウキに「方法とは何か」と尋ねた。
「此処に居る彼等も、王都に残っている住人達も、全員と素早く王都の外へと出す方法があるよ。使うかい、ガンゼ?」
小首を傾げて、場に一切そぐわない可愛らしさを全面に押し出して、オウキは笑った。
その物言いとその表情に、ガンゼは遠い昔の記憶を刺激されたのだった。
「頼めますか?」
その記憶が間違いでないのなら、と丁寧な物言いでガンゼは頼む。
王になどなりたくない。
母から教えられた王族の役割、王としての責務を重く感じ、駄々をこねた幼い頃。
まだ健在だった外戚にあたる、母方の祖父は勉強の時間をサボって隠れていたガンゼに囁いた。
「ならば、暇も与えない勉学を止めてしまえる方法や、王の責務に直面しなくても済む方法を、教えてあげようかい、ガンゼ?」
その笑顔が恐ろしく、母に泣きついたことで、その方法を聞くことは無かった。だが、母から聞かされた祖父の過去から、その方法がとんでもない事だったのだろうと成長した後には思えるようになっていた。
恐ろしさのあまり、今でもはっきりと思い出せる祖父の声音。
それとまったく同じものを、若い侍女の口から聞けた。
「私が炎を抑えます。マリアが望んだ炎が唐突に消えてしまえば、不審に思われるでしょう。ですから…」
「ですが、陛下!?」
ガンゼの強い決意を聞き、オウキは準備を始める。
沈黙させて運び出そうとしていた道具を使う準備を。
王を護る。幼い頃から教えられてきた忠義を切り離すことの出来ていないマークが、なんとか決意の篤いガンゼを説得しようと試みるが、ただ首を振られるだけでガンゼを動かすなど出来なかった。
道具の中に入り込んだオウキによって、マリアの声で、マリアの力を持って呟かれた『着いてきて』という言葉。
マリアが王都を離れ、あの甘い匂いが薄れたことによって、道具の力でもマリアの『お願い』に染まりきった王都の住人を動かすことは出来た。
オウキである兵士二人、そして悔しさを滲ませるマーク。
三人だけの少ない先導によって、王宮に居た者達、王都に居た住民達が、マリアによるマリアの為のパレードが向かった門とは真逆へと、駆けるように去っていった。
王都に、王宮に残っているのは、ただ一人。
術師の姿も消え、真っ赤な炎を生み出す術の維持と、それを己の周りに留め置く術、その二つを両立させながら必死に耐えている、シャール王国の最後の王となるガンゼの姿だけが、この地に残っていた。
国の滅びを体験するという、王として何よりも不名誉なことの最中にあるというのに、ガンゼの顔には穏やかな笑みさえ浮かんでいた。
最後の最後で、正気に戻れたという安堵が、彼にそんな表情を浮かべさせていた。
王族であるのならば、王であるのならば、国と共に生き、国の命運と共に逝きなさい。後悔など持つことは、王族には許されないこと。結果だけを見、その結果を全て己が不甲斐なさと受け止めなさい。そして、潔く命を民の代わりにと、捧げなさい。
母からの教えを思い出す。
分かっております、母上。
この悪夢は全て、私の不徳故のこと。あれが台頭する前に、何か出来たこともあったかも知れない。何か、手立てがあったかも知れない。
それを成せなかったのは、息子を守れなかったのは、私の不甲斐なさ故です。
出来ることならば…。
今は亡き母へ懺悔をしながら、ガンゼは一つの心残りを想い、祈る。
最近の思い出せるだけの記憶の中に存在しない息子が、何処かで無事に、正気を取り戻していて欲しい、と。責めを負うだろう。
それも仕方がない。彼も王族で、王太子。何より、マリアの夫であるという事実があるのだから。
だが、せめて生きていて欲しいと想うのは、王としてではなく、父親として。
バチッチチチッチ
抑えきれずに弾けた真っ赤な炎が、その中心に立つガンゼにも襲い掛かってきた。
全身の肌を舐めるよう触れてくる炎の中、最後の王としての矜持として、笑みを絶やす事はなかった。
まったく。
遭ってくれるなと思って教えたことなのにな。
お疲れ様、ガンゼ。お前はよくやりました。お前は何も悪くないわ。
悪いのは…。
ガンゼは真っ赤な炎の中で、最期に自分へと伸びてくる腕を見た。
それは、幼い頃の記憶にもはっきりと覚えている光景だった。




