もう少し、ということ。
「ッ!」
びり
エリザちゃんの手を握り締め続けている手の平に痛みを感じた。
これまで、エリザちゃんがうなされる度に周囲の闇が迫り、足や体の一部が黒く塗りつぶされ、そこに自分の体があるのだと認識出来なくなる感覚に襲われはした。だが、焼けるような、痺れるような、そんな痛みを感じるのは、これが初めてだった。
「そろそろ、その手は放した方が良いんじゃないかしら?」
痛みは感じた。
でも、エリザちゃんから手を離す気など一切思い浮かばない。
逆に、今まで以上に強く手を握り締める。
けれど、そんな俺に女の声がかけられた。
後は頑張れ?なんて首を傾げながら姿を消したオウキさんの声ならば、聞こえてもいい。この闇は、オウキさんの一部だ。そろそろ切り離すといって消えたが、何らかの考えを持って顔を出すくらいはするかも知れない。でも、この声は確実に彼のものではない、此処にある筈の無い声だ。何の声だと驚き、それの聞こえたエリザちゃんの足下へと顔を向ける。
高貴な身分にある女性が亡くなり、棺に納められる時に纏わせる白いドレス。
それを纏った若い、俺とそう年は変わらないだろう女性がいる。
その顔に、何処かで見たことがあるような、なんて思いに襲われるが、それが誰かが分からない。
傭兵、医者、そのどちらの職業であっても、関わった人間のことは注意して観察し、滅多なことでは忘れないようにしている。
だというのに、女が誰なのか思い出せない。
その装いと、この場にいることから、死者であることは理解出来る。
黒髪、緑の目、高貴な身分、死者、女性。
その姿から思い浮かぶだけの条件を探りあげ、思い出そうとするが何も無い。
戸惑う俺に、女は意地の悪い笑みを浮かべた。
「うちの孫と、父親が迷惑を掛けているわね。あぁ、それと息子ね。」
それは、女にしてみれば簡単なヒントなのだろう。
孫、父親、息子。
珍しい黒髪から、サルド家の関係者だとは分かる。
そして気づいた。
「皇太后…?」
現王の母親、オウキさんの器として使われている王太子の祖母、オウキさんの娘。
皇太后マリアベル。
気づかない筈だ。
生前に直接関わったことは無く、遠目から見た事はあっても今とは違う年老いた姿だったのだ。はっきりとした容貌を見たのは、絵姿でだけ。
気づけという方が無理だ。
「そうよ。」
初めまして。と笑う顔は、どこかオウキさんの笑いに似ている。
「うちのくそ親父が面倒をかけて、ごめんなさいね。あの人の生き甲斐みたいなものなのよ、母に構ってもらうことが。その為なら、要らぬ騒ぎは起こすし、元からある騒ぎは悪化させるわ。今回も、エリザが相手だというのに配慮を怠って、貴方の事も放っておく。」
そして、もう一度放たれた言葉。
その手をさっさと離しなさい。
絵だけでは、お淑やかな上品そうな女性だった。時の王に一目惚れされて求婚されたという逸話や、貴族の令嬢達の憧れの的だったなどという話を聞いていただけあって、その所々から聞き取れる、あまり上品とは言い難い言葉には驚かされるが、それ以上に真剣な面持ちで「手を離せ」と言われた方に驚く。
「目を覚めるまで、繋いでいてあげたい。そう思うのですが?」
駄目なのか。
意味もなく言う筈が無いと分かっていても、許しが欲しいと願う。
「貴方が死んだ方が、エリザは苦しむと思うけど?」
あの馬鹿親父の一部になりたい?
そうなら止めないけど?
なりたい訳がない。
その言葉を即座に否定した。
「もうすぐ起こる悪夢を追い払う為に放たれる拒絶の力は、周囲の全てを消し去るわよ?ましてや、あの馬鹿親父のせいで、エリザは男性を敵と認識するものを見せられているのだもの。」
それが何を意味するのか。
馬鹿じゃないんだ。
すぐに理解する。
皇太后に向けていた顔を、エリザちゃんへと戻す。
眉間に皺を寄せ、苦痛の声をあげるエリザちゃんを、無理矢理にでも、どんな手を使ってでも起こしてしまいたい。
そんな思いに駆られ、手を伸ばしかける。
その手は、皇太后の透けた腕によって掴まれ、止められた。
触られているという感触も弱い、ひんやりとした手。
全身に鳥肌が立っていくのを感じる。
「大丈夫よ。そういったモノ達は全員、この闇から切り離されたわ。エリザが見たのは一人分、それも軽いものよ。最悪なものは回避されたわ。今頃、馬鹿親父も叱られてるわ。」
軽い、重いなんて他人の判断に、意味があるとは思えないけど。
それでも、何人もの体験を見せられてしまうことを思えば、耳にしただけで嫌悪しか浮かばないような事態を思えば、マシなのだろう。
そう思うことしか、出来ない。
「彼女達には、エリザ以上にその記憶をぶつけるに相応しい相手が居るのだもの。そちら用に取って置けばいいっていうのに、あの馬鹿親父は。」
まぁ今頃、母様に殴られている頃でしょうけど。
皇太后が鼻を鳴らした。
「さぁ、いらっしゃい。」
グイッと女性とは思えない力で腕を引かれた。
「此処は…」
瞬く間だった。
気づいた時には、屋敷の中の何処か違う場所だった。
エリザちゃんと共に入った部屋へ向かう途中に通った光景でもないところを見れば、随分と離れた場所に移動させられたのだろう。
皇太后の姿も無く、しばらくの間呆然としていた俺を正気付かせたのは、テイガだった。
「何してんだ、お前?」
エリザに付いてるんじゃなかったか?
そう言って俺の肩を叩いたテイガを振り向くと、お前こそと言いたい姿だった。
片腕で担ぎ上げているのは、オウキさんが体にして自由に使っていた王太子シオン。
グッタリとやつれた様子で、ピクリとも動かず目を閉じている。
「あぁ、これか?」
俺の視線に気づいたテイガが笑う。
「爺様が突然これを放棄して、どっか行っちまったんだよ。まぁ、丁度いいから回復させておこうと思ってな。放っておくのもなんだし、まだまだ爺様の器になっててもらわねぇといけねぇだろ?」
で、お前は?
今思い返せば、皇太后はオウキさんの末娘。つまり、その孫である王太子は再従兄に当たるはずなのに、テイガ達はあまり気にもしていないのだなと、何となく思う。それは、祖母である皇太后にも言えるが。
「皇太后に腕を引かれたら、此処にいたんだ。エリザちゃんと一緒に居た筈なんだけど…。」
「…あぁ!そういえば、全然考えてなかったが、破邪の力が本当に拒絶の力なら、お前にも危険があったんだな。」
あまりにも暢気に言い放った友人を、少し殴りたいと思ってしまった。
「それにしても、さっきは曾婆様が出て来たし、なんか騒がしくなってきたな。」
それは、目指している最後が近いという証なのかも知れない。
この分だと、あいつらも出てくるかな。
聞いているだけならば、それはうんざりとした声だった。
だが、その表情が柔らかな、希うように細められたのは見逃せなかった。
それが何となく、死んでしまった弟と妹に向けられているものだろうと思う。
テイガの目に潤む様子が見て取れた。
「出て来たとしても、お前よりも先に、オリヴィア姫やリアちゃんの所に向かうんじゃないか?」
兄よりも先に、恋人や遺してしまった娘の所だろう。
そんな当たり前な事を言えば、テイガの目に浮かんだ潤みが引っ込み、俺を睨みつけてくる。
「二人の後なら、俺の所だろう。」
ふて腐れたテイガ。
だが、それにも反論しておこうか。
こうして馬鹿みたいな話をしていれば、エリザちゃんに最後まで付いて居られなかった事から気が紛れる。
テイガもきっと、それを分かっていて付き合ってくれているのだろう。
「二人の後ならエリザちゃんだろうし、セイラちゃんなら旦那の所だろ?肉体の無い状態なら、行方知れずでも見つけ出せるだろうし。」
「…そうだな。」
一応、年上の義弟の行方を気にしていたテイガ。
テイガが居た堪れなくなり、砂を吐きそうになる程、妻であるセイラちゃんを大切にしていたカノンさんの様子を思い出す。大抵の貴族子弟など蹂躙する程度の腕を持っていた彼女を、あそこまでか弱い女性のように扱い、心配していた彼はある意味でサルド一族の男達から尊敬を集めていた。
馬鹿な事をしていないといいが。
「姿を見たら、一発は入れてやる。」
「今度は、それを止めるセイラちゃんは居ないしね。」
この人と結婚するのよ、とセイラちゃんに報告されたテイガが、殴りかかろうとしたことがあった。それは、セイラちゃんの華麗な鞭捌きで実行出来ず終わったが、今度は上手く行くだろう。
思い返せば、思い返す程、あの女がどれだけのものを破壊し尽くしたのかと思い知らされる。
それも後少し。
あと少しで終わるのだと、終わりを告げることが出来るのだと思わなければ、狂ってしまいそうになる。俺でさえそうなのだから、テイガやエリザちゃん、オリヴィア姫、そしてサルド一族の人々の怒りや憎しみは計り知れないだろう。
そして、そんな思いを抱いている人はサルド一族以外にも居るだろう。
その人達が、正気を残していれば、だが。
エリザちゃん。
祈るように吐き出した小さな呼びかけは、誰の耳に届くこともなく、虚空へと消えた。




