婚約指輪の始まりとその力。
「ねぇ、茉莉。ちょっと、手を出して?」
サルド騎士候家の就任間際の新たな当主オウキが、機嫌良さ気に王都の別邸の玄関を思い切り開け放ったのは、まだ仕事の最中である筈の昼過ぎの事。
サルド本家の一人娘として、当主を継いで子を残す為に結婚でもするかと考え、修行の旅から帰ってきたジャスミンの前に突然現れた、東の果ての島国でジャスミンの目の前で厳重に封印された筈のオウキは、身分でも作ってみようかな、なんて軽い言葉と行動で軍に入ってから一年も経っていない。経っていないというのに、すでに軍を掌握し、国にとっても軽く見ることは出来ない状態を作りあげていた。強さを尊ぶサルド家の面々も彼のことを当たり前のように受け入れ始めたのは早かった。
軍に入って一月もしない内に、オウキはジャスミンの夫の地位を手に入れ、彼女に代わって当主となった。もちろん、ジャスミンも元は敵であった彼を、一族の後押しがあったからといって、すんなりと受け入れた訳でもなく、あらゆる手札を使って抵抗したのだが、そんなものは祖国に居た頃とは違って本性を隠す気も必要も無いオウキにとっては暖簾に袖の状態で。何より、構ってくれないと何をするか分からないよ?という無邪気な脅しに、どうしてなのか恐怖や怒り以上に庇護欲を刺激されたジャスミンは、渋々といった体で受け入れることにしたのだった。
オウキは、妻となったジャスミンのことを自分の祖国の言葉で、ジャスミンの花を指す「茉莉」と呼んで、良き夫を務めていた。サルド騎士候家の当主としても優秀で、軍人としても好戦的な姿勢を見せる隣国達に対しても効果抜群の牽制の力を奮って、その存在を知らしめていた。
そんなオウキが昼中に、多分仕事を放棄してまで自宅に帰ってきたということは、何か有事が起こっている訳では無いことは分かっている。だが、何か嫌な予感に襲われるのは何故だろうか。
大きくなり始めている腹を摩りながら、ジャスミンは顔を引き攣らせて夫を出迎えていた。
少女のような容貌のオウキがジャスミンの前で可愛らしく首を傾げて、彼女が手を差し出すのを待っているが、長年培った勘に訴えられているジャスミンは中々手を出そうとはしなかった。
「茉莉?」
ジャスミンとしては、オウキの本性などは分かりきってはいるものの、そんな風に哀しげに顔を顰めて見つめないで欲しいと思った。
容貌だけ見れば、十歳も年下になるジャスミンなどよりもずっと年下に、絶対に間違えられる可愛らしい少女のそれ。まだオウキが地位や身分を手に入れて王都や近隣諸国にその容姿が知れ渡る以前には、一緒に歩いていたら、可愛らしい妹さんですね、と勘違いされることも多かった。そんな男の、そんな表情は、分かっていても胸を撃つものがある。そして、ジャスミンにとっては東の果ての島国に居る年上の親友である女性を思い出させて、より一層何とも言えない想いを思い起こさせた。
「今度は何を仕出かす気?」
手を出さないまま、ジャスミンは夫に向かって訝しげな声を絞り出した。
ジャスミンを愛していると言いながら、確かにそうなのだろうと誰もが、ジャスミン自身も思えるオウキだったが、何かとジャスミンを事件に巻き込んだり、危険を差し向けたりすることがあった。
良識のある、数少ない人間がそれを指摘した時にオウキは笑みを浮かべて言ったそうだ。
「そういう時の茉莉は、誰よりも僕を楽しませてくれるから。」
流石に子供が出来たと分かった時、ジャスミン本人よりも、医者よりも早く気づいたのはオウキだった。それ以来は過激な悪戯や行いは控えてはいたが、その間は一族の者や他の貴族達、軍人、つまりはオウキの周囲で目に入った者達がその被害に合っていた。
それでも、やっぱり茉莉以上に面白いのは居ないな、なんてジャスミンの事を見ていたことが最近あった。だからこそ、我慢が出来なくなって何かをしようとしているのかと疑ったのだが、それについてはジャスミンは悪くはないだろう。
「酷いなぁ。そんな事しないよ。ちょっと、茉莉や子供の事を守ってくれる良い物を作ったから渡そうと思っただけだよ。」
ジャスミンが見る限り、その顔に嘘は無い。そう思った。
流石のオウキでも、まだ生まれてもいない自分の子供を危険に晒すことも無いだろうという考えもあった。
恐る恐る、左手を差し出したジャスミン。
何かあれば、利き腕である右で対処する為にという、幼い頃から教え込まれた習慣だった。
オウキは、その手が引っ込んでしまわない内に自分の手で掴み、逃がさないようにしっかりと繋ぎ止める。そして、その薬指に素早く、手に隠し持っていた指輪を嵌め込んでいた。
「はぁ?」
思わずジャスミンが声を上げたのは仕方が無いことだった。
何時の間にサイズを測っていたのか。指輪はジャスミンの左の薬指にピッタリで、ちょっとやそっとでは外れそうには無かった。その上、オウキが小さく呟いて、ジャスミンの指と嵌め込んだ指輪に対して、オウキが呪と呼ぶ術を掛けた。
慌てて腕を引いたジャスミンの手を、オウキは引き止めることなく手放した。
目の前に、指輪を嵌められた手を引いたジャスミンは、まじまじと指輪を確認する。
「指輪を失くさないようにかけた呪だから、何にも害は無いよ。」
安心してね。
そんな風に言うオウキを軽く睨みつけ、ジャスミンは再び指輪に目を向けた。
シンプルな銀の紋様を施した指輪には、大きな真っ白な宝石が埋め込まれていた。
一応、貴族らしくは無い生活をしているサルド家とはいえ、令嬢としての教育も完璧に施されているジャスミンでさえも、見た事も聞いた事もない、真っ白な光沢を放つ謎の宝石。
オウキが持ってきたというだけで、ただの石ではないと分かるそれに、ジャスミンは眉を顰めた。
「まだ君に、贈り物らしい贈り物なんてしてなかったなって思ってね。作ってみたんだ、僕が。」
「貴方が作ったの?…器用なものね。」
ありがとう。
オウキの真意は分からないまでも、その気持ちは妻としては喜ばしいもので。眉を顰めたままではあるものの、素直に礼を言って、作ったことを褒めたジャスミンにオウキは晴れやかな笑顔を滲ませていた。
オウキの真意が分かったのは、それから半年程経った頃の事。
オウキとジャスミンの間に子供が生まれ、王家と縁戚関係にもある、建国から国を護っている一族の直系の血を継ぐものが生まれたとあって、王家が祝いの席を設けた。
その裏には、今や軍部を掌握し、その存在だけで近隣諸国の、特に帝国を牽制しているオウキへ思うところがあっての事だったが、その宴自体は多くの貴族が集まり、盛大なものだった。
夕刻より王都にある王家の別邸で行なわれた宴に出席したオウキとジャスミン。二人の長女、生後五ヶ月になる赤子もお披露目された。
宴が始まって一時間もしない内に、用意された部屋にジャスミンと赤子は引き上げていき、会場には当初からの予定通りにオウキだけが残った。
騒がしい会場にまで、女性の悲鳴が響き聞こえたのは、一時間も経ってはいないかった頃。
それは、ジャスミンと赤子が宿泊するものとして先に休息を取っている部屋がある方から聞こえてきた。慌てて走り出す騎士達と共に、夫であるオウキの姿もあった。
一つ違う事があるとすれば、険しい顔となっている騎士達の中で一人、オウキが笑みを浮かべていることだった。それを見た王族や貴族達は、その笑みが怒り故のものだと思ったようだったが、それはオウキが考えていたことが本当に起こった事に対する嘲笑だった。
辿り着いた部屋の中には、赤子を抱いてソファーに腰掛けたままのジャスミンと、その前に赤い血を垂れ流して蹲り、呻き声を上げている男。怯えて涙を流し、もう悲鳴を上げることも出来なくなっている数人の侍女達だった。部屋につけてあった筈の衛兵は呆然と立ち竦んでいた。
「オウキ。貴方、この指輪に何を施したの?」
騒ぎの中でもスヤスヤと寝息を立てている赤子に、流石は僕達の子だな、なんて暢気な感想を抱いて、先ほどまでの嘲笑ではない、穏やかな笑みを浮かべたオウキを、ジャスミンは睨みつけた。
目の前に蹲っている男に一切目を向けることなく、騎士達にさっさと片付けろという姿に、何となく男が何をやらかしたのかを察した騎士や衛兵達は、引き摺るように男を部屋から連れ出していった。
部屋で子供を寝かせながら休もうとしたジャスミンの下を訪ねてきた男。伯爵位にある、昔からジャスミンに接触を図ってきていた男だった。
衛兵や侍女達の存在もあることから、そう愚かな真似はしないだろうと、話を聞くことにしたジャスミンは、男が部屋に入ることを許した。
だが、ジャスミンの想像以上に男は愚かだった。
部屋に入るやいなや、侍女達など只の家具という貴族の考えを実践し、ジャスミンに近づくと、その手をとって口付けをした。ジャスミンに、「子も生まれたのだから、望まぬ婚姻から解放されても良いでしょう?」などという戯言をほざいて。
その、ジャスミンもオウキも、そしてサルド家を侮り、馬鹿にしているような言葉に、ジャスミンが口を開こうとした。
が、それは不発に終わった。
何故なら、男が口づけを贈っているジャスミンの手に光る指輪の真っ白な石が、ジャスミンから見て、ほのかな光を放ち始めたのだ。
そうかと思えば、次の瞬間ほのかな光は消え去り、それと同時に男の手が吹き飛んで消えてしまったのだった。
最早、声も出せぬほどの絶叫を男が上げ、仕事柄荒事にも慣れている衛兵は声を失い、侍女達は悲鳴を上げていた。
確実に、オウキに渡された指輪の仕業だと理解したジャスミンは、駆け込んできた騎士達の中に笑みを浮かべるオウキを見つけ、睨みつけたのだった。
男を庇うわけではない。
何事も無ければ、ジャスミンが相応の処置をしていただろう。腕の中に赤子が眠っているとはいえ、荒事に慣れていなさそうな男一人、どうとでも出来た。
ジャスミンが怒っているのは、何も知らされていない術の存在が気に食わなかったからだった。知っていれば、それを組み込んで色々と考えを出すことが出来るのに。その言葉に、オウキからまず返って来たのは、「やっぱり面白いね、茉莉は」なんていう無邪気なものだった。
「だって、茉莉は人気者だからね。ちょっとした、虫除けだよ。僕の茉莉に不埒な想いを持って接触する存在を排除するだけだよ。」
その為に何を使ったのかは口にはしなかった。
言えば、絶対にジャスミンに怒られる、いや罵られて口を聞いてもらえなくなると分かっていた。
指輪を作る為に白い石を用意して、ほんの少し歩き辛くなったが、そんな事を他人に見破られることなどオウキのプライドに掛けて有り得ない。
オウキが従えている使獣を使えば、問題無いように行動することも可能だったからこそ、行なった事だった。
それが、後にサルドの一族全員が想い人を得た時に当主から受け取る事が習慣化する婚約指輪の始まりだった。
オウキの実子達は、白い石の意味をこの話と共に母親に教えられていた。
だが、自分の想い人に対して、堂々と虫除け、しかも過激な効果付きなどと言える訳もなく、それに宿る力の片鱗を強調して「災いを追い払う力がある」とだけ説明するようになっていた。そして、その説明こそが真実のように扱われるようになっていった。
本当の効果は、「不用意に近づく不埒なものを"拒絶"する」というもの。
それは束縛。良く言えば、愛の証。
「『破邪の力』の本質は、拒絶の力。お前には、それを使いこなしてもらわないといけないんだよ。」
だから、ちょっと練習しようか。
そう言って笑うオウキ。
突然始まった昔語りに、何だ?と思ったのはエリザだけでは無かった。周囲で様子を窺っていた一族の者達も唖然とした顔をして、オウキを見ている。
どうやら、その話は聞いていなかったらしい今代の当主テイガも、同じ顔でオウキを見ていた。
まさか自分が伴侶に与えた物が、そんな凶悪なものだったとは。
すでに伴侶や婚約者を持つ者達は、本当にお守りだと思って渡した指輪の効力に驚き、顔を引き攣らせていた。




