イーズ・サルドという男。
「セイレン。また一仕事頼むよ。」
石畳の上に寝そべっているドラゴンの長く伸びた口に額を寄せ、その鼻を撫でて頼みごとをする。
《なんだい、イーズ。また、オウキに無茶を押し付けられたのかい?》
小さな石ころなら吹き飛ばしてしまえるような息が、そんな言葉と共にドラゴンの口から放たれる。のっそりと瞼を開けた目を、頭を石畳から持ち上げてたドラゴン、セイレンは俺を一瞥した後にある方向に向けた。それは、俺からはそびえ立つ建物しか見えない、さっきまで俺が居た、エリザ達がまだ居るであろう訓練場がある場所。頭を持ち上げたセイレンには、建物の上を通り越して様子を窺うことが出来ているのかも知れない。
《あれも変わらないね。まぁ、昔から"かろうじて"人間だったって感じだからね。化け物になったからと言って変わることも無いわね。》
セイレンの言いように噴出しそうになったが、彼女の言うように"人"では無くなってしまっている曾爺様の耳が何処にあるかも分からない。下手なことは出来ないと何とか我慢した。
「無茶って訳でもないよ。俺達がやるのが適任だからこそ、曾爺様は俺に指示を出しているだけなんだし。」
無茶というのなら、エリザの方が何十倍も大変なことを任されようとしている。彼女以外に適任が居ないと言ってしまえばそれまでだが、酷な事であるのは確かだろう。
それを思えば、それがどんな物であろうと荷物を運ぶ事の方がどれだけマシか。
幾ら本人が了承していることとはいえ、これから待っている大仕事を考えれば三つ下の再従妹が心配になる。その指示を出すオウキは、家族であろうと妥協を許さない。詳しくはまだ教えては貰ってはいないが、耳に挟んだ話によれば、正気を失っているイザークにさえ役目が用意されているのだから、俺は運搬係で良かったと本当に思っている。
こわい こわい
ある日、突然そんな悲鳴にも近い言葉を囁くようになった魔獣達。
今思えば、囁き始めてのは、本家の末っ子、イザークが王都に入った日だった。学園に入学する為に、領地にある本邸を離れて王都にある屋敷に引越していった日。俺が使役する魔獣の中から、空を飛んで、比較的王都の住人達が恐怖を覚えない風体のモノを選んで、俺も荷物を運ぶ手伝いをした。そんな声が聞こえ出したのは、荷物を運ぶ途中の空の上だった。
始めは、引越しを手伝った魔獣達だけが発する言葉だった。でも、その言葉は本邸に帰った後も続き、俺が使役している魔獣達全てが言うようになっていた。
生まれてからずっと一緒だった彼らの、そんな声を聞くのは初めてのことで、俺はどうしたらいいか、必死になって本邸に遺されいた曾爺様、オウキ・サルドの蔵書を漁った。
俺が使役している魔獣達の中で、古株にあたる、力が強く長く生きているモノ達は全て、元は曾爺様が若い頃から使役していたモノ達だった。力が強く、賢く、何より使役者に忠実で、時には使役者の意図を汲んで勝手に事を成してくれる。オウキ・サルドの知る人ぞ知る伝説の中に描かれた彼らの存在は、世の中の魔獣を使役する術を学び生業としている者達が聞けば、喉から手が出るくらいの価値がある。そんな彼らを、俺は生まれた時から使役して、家族のような関係を築いていた。
曾爺様が曾孫可愛さに譲った。とか、そういう事ではない。
俺が生まれた時、顔を見に来た曾爺様が使役していた魔獣達が一斉に、俺を主にしたいと言い出したのだそうだ。曾爺様よりも、俺がいい。
あの曾爺様にそれを告げられることが凄い。その話を聞いた時に、思ったことはそんな事だった。
曾爺様は好かれてはいるものの、怖いと倦厭される人だった。
子供に孫、曾孫をそれとなく使って遊ぶのが好きで、少しでも曾爺様の期待に添えなかったら段々と、その意識の中から除外されていくのだと話を聞かされた。その多くが、身内といっても端くれに位置するような者達か、サルドの名前に擦り寄ってくる他人だったから、まだ見ていられたけど。これが本当の身内といえる者達でも、きっと曾爺様は冷たい表情で淡々と対応するんだろうなと思ったのだと兄や一族の大人達が、引き攣った笑いを浮かべながら話をしていた姿が頭に残っている。
死ぬ筈が無いとばかり、一族から思われていた曾爺様はやはり人間で、俺が4歳の時に死んだ。その当時のことを朧気に覚えている。皆が皆、俺の事を構い倒していた魔獣達でさえも大騒ぎしていたその中で、暢気に誰も遊んでくれないと拗ねていた記憶がある。
そんな、死んだ筈の曾爺様が俺の前に現れたのは、半年程前のことだった。
感じ取った恐怖が本能を上回った魔獣達に連れ去られるような形で、国から遠く離れた場所にある、滅多に人が踏み入れない秘境のような場所に俺は居た。帰るにも帰れず頭を抱える日々を送っていた俺の前に、まさか人が現れるとは思ってもいなかった。しかも、それは無精ひげにボサボサの髪、不潔極まりない姿の中年の男。そんな姿だというのに、その動きは何処か高貴さというか、優美さが滲み出る貴族のようなものだった。奇妙奇天烈、そんな言葉が似合う男は、その風貌に似合いもしない優しそうな笑みを浮かべて「大きくなったね」と親しげに話しかけてきた。
誰だ、これは?
警戒を露にして男を睨みつけた俺だった。だが、その男の存在以上に驚いて呆然と見てしまったのは、魔獣達が何の警戒も抱かずに、むしろビクビクと怯えて様子を窺っていたことだった。
怖いものから守る為に。そう言って、五年前に俺を此の場所に連れ去ってきた魔獣達。後から連絡を入れた兄からは、過保護と笑われているそんな魔獣達が俺を守ろうともせずにいる姿に、本当に驚いた。
《やっぱり人間じゃなかった》
《どうすんだ、怖いものが増えたぞ》
ようやく絞り出したような魔獣達の声で、ニコニコと笑ってみている男と戸惑う俺、そして呆然としているという言葉が合うだろう魔獣達の時間を忘れた均衡が綻んでくれた。
「誰?」
そう聞いた俺に答えたのは、男。
「酷いなぁ。小さなお前を可愛がってあげた曾お祖父ちゃんじゃないか。使獣達だって、反対もせずに渡してあげただろう?」
「…お、オウキ・サルド……曾爺様?」
うっすらと覚えている顔では無かった。年齢も性別も、見た目なんて全然当てにもならない姿形だったという事を覚えている。それでも勘違いしようの無い程、まったく違う男の姿。何より、とっくの昔に死んでいるし。
だけど、その言動や人にはない感覚で人を見る魔獣達の肯定を受けて、目の前の男が曾爺様だと受け入れることが出来た。
出来るだけ兄達との連絡は取るようにしていた。
だから、世界に何が起こっているかは分かっているつもりだった。
でも、曾爺様が悪霊になって復活していたなんて聞いていない!そう、あの時は心の中で兄達を本気で罵っていた。
そんな曾爺様が俺の下に来たのには理由があった。
曾爺様の故郷である東の果ての島国に行って、ある物を取って来て欲しいんだ。
そう言って笑った曾爺様の顔には変わらない笑顔、その中には逆らう事を許さない色が含まれていた。
「僕がお前にあげた使獣達なら、あの国まで簡単に飛んでいけるし。僕が国を出て来た時に作って隠しておいた結界の抜け穴も、色々な抜け道も覚えていて、使えるだろうね。何、大丈夫。百年経とうと、そうそうに見つけ出されて消されてしまっているようなモノは作っていないから。だから、サクッと行って、サクッと取っておいで。あぁ、ちゃんと所有者には了承を取ってくるんだよ。じゃないと、使い物にならないからね。」
あっ良かった。盗み出して来いって話ではないんだ。
そう思って安堵した俺も少し可笑しかったと、東の果ての島国に足を下ろした時には冷静になった頃には考えることが出来るようになっていた。
その判断が間違っていたということを知るのも、東の果ての島国での事。
闇夜に紛れて、あちらの国では妖と呼ばれている魔獣達の鬱陶しい視線に晒されながら、曾爺様が国を出る前から使役していた狐や虎などの、俺の使役する魔獣達の中でも一・二を争う知恵持ちで力も強いモノ達の指示に従いながら忍び込むことになったのは、東の果ての島国で最も重要とされている聖域。曾爺様の言葉通りに、警邏している戦士達の目をあっさりと掻い潜れる抜け道を使い、入り込むことは簡単だった。でも、当たり前ではあるが、やっぱり所有者の説得に時間を取られた。
毎晩、毎晩と通い詰めて、別の場所にいる所有者にも話を通し、結局見つかってしまった王や、当代の『破邪の巫女』とのお話し合いなどもあった。ようやく説得に成功して国を後にすることが出来たのは、半年近くの時間が経った後だった。
「あれを移動するんだ。」
セイレイが護るように寝そべる体と長く丸めた尻尾の間に隠していた、足場が無ければ中を覗くことも出来ない大きな二つの袋に目を向ける。
それが、東の果ての国から、曾爺様の指示通りに持ち帰ってきたもの。
袋の中には、荒く砕かれて出来た白い粉が詰め込まれている。
サルド家の婚約指環に使われている石の正体を、今回の事で否応が無しに知ってしまった俺がどれだけドン引きしたことか。
まぁ、それでも効果を知っているからこそ、その時には迷わず当主であるテイガ様に申し出ることだろうけど。
《分かったよ。それで、何処に運べばいいんだい?》
「ありがとう。」
此処に来る途中で渡されたメモに書かれた簡単な地図を手に、セイレンに指示を出す。
そして、大きな翼をはためかせて飛び発とうとするドラゴンの背中に乗せてもらうと、俺は大人しく座り込んだ。体を宙に浮かせたセイレンが、白い粉の詰まった袋を前足で掴み上げる。
その後、ティグ王国王都の上空をドラゴンが山に向けて飛び立っていく光景が目撃された。だが、それが飛び上がった場所が、オリヴィア姫の管理下にあると民にまで知られている屋敷からであった事から、誰一人騒ぐようなものは居なかった。




