悪霊の仮体のこと。 後
幼い頃、定期的に王城に行くことがあった。
それは、当時はまだ存命だった皇太后の要望があったからだった。皇太后の話し相手を務める為に王城へと向かう度に、一緒に過ごす時間が設けられていた彼のことを、見間違えるわけがない。
王族に多く現れる、蜂蜜のような薄い金の髪。
髪と同じ色の、意思の強そうな瞳。
より良きものをと迎え入れる王族の中であっても、際立って整った顔立ちに部類されていた顔。
覚えている姿から変わっているとすれば、まだ子供だと思えると残っていた部分が消え、すっかりと成年にしか見えないようになっていること。
あとは、纏っている軍服が少しボロボロに破れ、そして砂埃によって元の群青色が褪せて見える程汚れていること。肩までに伸ばし、首の後ろで纏めあげている事が常だった髪が頭の形がはっきりと分かる程に、無造作に切られていること。
幼い頃には何も考えることなく「友達」だと言って遊んでいたことを、思い出そうとすれば今でもはっきりと、懐かしい光景の全てを脳裏に浮かばせることが出来る。
色々と変わってしまったことは多いけれど、目の前で笑っている彼は、確かに彼だと確信出来た。
マリアの夫となった取り巻きの一人。
シャール王国王太子シオン殿下。
「ど、」
どうして
そう言おうと開いた口から、全ての言葉を吐き出すことは出来なかった。
私が呆気に取られている間に、ゆっくりとした足取りで近づいてきていたシオン殿下。
そんな彼が両腕を大きく広げて目の前にいた。
私の視界の殆どを、シオンの体が占める。
いやだ。
ただ、そう思いました。
幼い頃、遊んでいる中で戯れに抱きしめあったりしたこともあります。
だけど…それはまだ、何も無かった頃の事。
今はただ、嫌悪だけが浮かんでくる。
あと少しで、シオンの腕に囲い込まれる。
そんな時に、腕を強い力で掴まれ、勢いよく引かれ移動させられた私の体は、シオンでは無い誰かの腕の中に包まれていました。
「何してるんですか、まったく。」
強い力で、背中に回った腕が私を支えていました。
頭上から、淡々とさせようとしている苛立ちの混ざった声が聞こえました。
「アルト先生…」
その声は、アルト先生のもので。だとすれば、この体や腕はアルト先生のもので。
知らず知らずの内に、私はホッと安堵の息をついていました。
「どうして邪魔をするのかな?可愛い曾孫に挨拶をしようとしただけじゃないか?」
シオンの声で、でもシオンが絶対にしないような、軽い口調の言葉で怒っているのだと思わせるような、ワザとらしさも滲み出る声が聞こえました。
「今の自分が一体どんな姿なのか、よく考えて下さい。」
アルト先生の言葉、そしてシオン殿下の言葉と雰囲気。
それらを全て重ねて考えれば、答えがぼんやりと見えてきました。
オウキさん。
アルト先生の胸元に埋める形になっていた顔を上げれば、アルト先生がシオンを見つめて、そう名前を呼んでいるところでした。
その名前は、考え付いた予想通りで…。
「曾、お爺様?」
「そう、僕だよ。」
今なら抱き締めてあげられるのに。
酷いなぁとアルト先生を睨みつけているが、その口元には笑みが浮かんでいる。
王都で出会った時の姿は、鼠だった。
でも、そうよね。
元は人間なのだから、人間の体に入り込んで行動していても可笑しなことではない。
だけど、どうして、その体なのかしら。
「そ、その姿、は…」
王都の城に居る筈の、王太子。
幾ら、マリアによって正常ではなくなっているとはいえ、国としての機能はまだ保っている筈。そうでなければ、とうの昔に国としての形を失ってしまっていたと思う。王都の様子は分からないけれど、私達が住んでいた街ではまだ、領主や役人達もそれまでと変わらない行政を続けていた。
ならば、国の全てを司る王城の中に、指示を出すべき国王や王太子がいないなんて…。
いえ、未だに教えられた常識に捕らわれてしまっている、私が愚かね。
そんなもの、マリアが望めばどうにでもなる。国王や王太子しか扱えない印章だって、マリアが言えば平民でさえ簡単に手にして、永遠に書類へ押し付け続けることも出来る。
でも、それでも彼が此処に居ることが信じられない。
マリアが取り巻きの一人を、傍には置かずにいるなんてあり得るのか。すぐに呼び出せない場所に居ることを許すのか。
バッカスの屋敷に居た時でも、マリアはマークを呼び出していたし、マークの姿が見えないと自分から屋敷に乗り込んできていた。
そんな彼女が、何時からかは分からないけれど、姿の見えないシオン殿下のことを放っておいておけるのか?
「あぁ、この体?これはね、この国で何かゴソゴソしようとしていたから、悪さをしないようにって事で借りているんだ。他にも、色々と使えそうな体はあったけど、僕の血を引いているだけあって他よりも使いやすくてね。」
いい感じに馴染んで、動きやすいよ。
鼠や鳥の中に入っている時との違いを、曾お爺様がニコニコと語る。本人ならば浮かべないような表情に、大きな違和感を感じる。けれど、それは曾お爺様、オウキ・サルドなのだと自分に言い聞かせる。
その言葉に思い出すのは、幼い私が王城に出向く理由だった、亡き皇太后の事。
望まれて先王に嫁いだ皇太后は、サルド騎士候家の出。曾お爺様の末の娘、私にとっては大叔母に当たる人だった。「父に似ている」そう言って、私のことを可愛がってくれていた大叔母は、一日の殆どを寝台で過ごすことが多く、そんな大叔母の無為を慰める為にと息子である王が父に頼み、幼い私の予定にそれは加わっていた。その大叔母の孫であるシオンは、確かにオウキ・サルドの血を引いている。彼もまた、曾お爺様の曾孫だ。
「この前まで居た帝国にも、同じようなコソコソした子達が居たよ。どうやら、世界を手に入れる為に、彼女も頑張っているようだね。まぁ、成功したのは、皇国だけだけど。」
「皇国。」
「オリヴィア。マリアは皇国に移動するようだよ。」
曾お爺様の目が、私の斜め前に立っているオリヴィアに向かう。
「そうですか。…まぁ、妥当な頃合でしょう。」
テイガ兄様達が戦場から撤退した日から経過した時間、そして国民全員がマリアの願いの為に命を削る事さえも厭わないという状況を考えれば納得のいく頃合だと、頷くオリヴィアは冷たい目を光らせて笑いました。
「それでね、一つ皆に聞きたいことがあるんだよ。」
首を傾げて見せる曾お爺様。
意気揚々と移動する最中が一番やりやすいから早く決めてしまいたい。
その言葉は一体何を意味するのか。
分からなかったのは私だけでは無かったようで、アルト先生からは「は?」と疑問を投げる声が漏れていたし、視線を廻らせた先にいる唯一この場で無傷に近いテイガ兄様や、シギを始めとする一族の者達も薄汚れている顔を上げて、曾お爺様の言葉を待っている。
「マリアが"神"から御褒美に貰った道具があるんだ。正確に言えば、道具にされてしまった哀れな子供。それを助けるか否か。生者であるお前達が決めるべきだと僕は考えるんだよ。」
助かるかどうかも分からない。
何が起こるか判別出来ないから、まだその中に入ってみてはいないから。
でも、見た限り憔悴し、やせ細っているから多分、完全な人形にはなってはいないと思う。
人形となって逆らう力さえ失われているのなら、憔悴もしないし、整備もきちんとされている筈だから、見て分かる程にやせ細る事も無かっただろう。
曾お爺様の目は、哀れなものだと語っている。
それまで消えることのなかった笑みが消え、真っ直ぐにオリヴィアや私を見つめ、その目を広場に点々といる皆へと、ゆっくりと廻らせる。一人一人、しっかりと目を会わせるように向けられた目は、全員の意見を求めている。
全員を巡った目が戻ってくる。
曾お爺様の目が、私達に向けられ止まった。
テイガ兄様、シギ、カーズさんにバーグさん、アリス義姉様、…。
全員の目も、曾お爺様と同じものを含んで、こちらを見ている。
その目は、決めろと言っている。
「マリアにそっくりな顔をした少年だったよ。あれは、多分マリア・テレースの近しい親族になるのかな?」
「フェルン・テレース」
オリヴィアの口から、一人の名前が零れ落ちた。
テレースという家名に、マリアの親族であることは分かる。オリヴィアには、道具にされた子供が誰なのか分かってしまったようで、その手が硬く握られ震えているようにも見えた。
「それは、マリア・テレースの弟だと思います。」
何処か、関わることの無い場所にいてくれたら。そう思っていた、名も、姿形も知らず、存在だけを知っていたマリアの弟。オリヴィアの考えが本当なら、心が痛みます。
「…どちらにしろ、マリアの傍に道具をそのままにしておくわけにもいきません。」
いいか、とオリヴィアは私に聞いてきた。
道具。それが、どういう状態になっているかは分からない。でも、私かオリヴィアのどちらかが対応することになる。
オリヴィアが私に聞いてきたということは、彼女は受け入れようと考えているということ。
マリアの妹だった彼女にとって、マリアの弟を助けたいと思うのは当たり前のことでしょう。
私も、弟を助けて欲しいとオリヴィアに頼んでいるのですから。
「曾お爺様、お願い出来ますか?」
「良い子達だね、本当に。分かったよ。フェルン君だっけ、連れ出してくるよ。」
良い子、良い子。と曾お爺様が私とオリヴィアの頭を撫でました。
きっと、曾お爺様には私達がこう判断すると分かっていたのでしょう。
「人里から離れた山小屋が一つあります。オウキ殿、そこに運んで頂いても?」
頭を撫でてくる曾お爺様の手をそれとなく遠ざけたオリヴィアが、近くにいた侍従へと指示を出しながら頼んでいた。
道具となって、どんな影響があるか分からない為、王都に連れてくることは出来ない。それ故のことでしょう。
「あぁ、じゃあ。例のアレの実験も兼ねてってことにしよう。」
「えぇ。運ぶように手筈を…」
「イーズ。お仕事が出来たよ。」
もう一度、侍従を呼んで指示を出そうとしたオリヴィアを手で留め、曾お爺様がテイガ兄様達が立つ方へと振り返りました。
その言葉に、隣に立つカーズに蹴られたのは、全身をボロボロにさせて顔を上げるだけで、ほとんど地面に倒れ伏している体勢だった、イーズ。
私より2、3歳年上だった筈の、カーズの弟です。
「…はい、曾お爺様…」
嫌そうな顔を隠そうともせず、イーズが立ち上がる。
「やぁ、エリザ…。久しぶり。…頑張ってね?」
俺も頑張るから。
そう言う彼は背中を向けました。
会わない内に何があったのか。何とも覇気のない、疲れきった背中でした。




