オリヴィア・ティグのこと。 中
お待たせして申し訳ありません。
まだ眠り足り無い、そんなすっきりとしない重たい頭を振り、なんとか眠りを覚ます。
今思えば、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来たように感じます。
バッカスの屋敷で完全に眠ることなんて出来なかった。物音一つでもあれば起きることが出来るように。そう教えられた通りの眠り方を実践しました。
王都を脱出してティグ王国へ向かう道中も、テイガ兄様達がいるという安心感があったとはいえ、野宿であることでゆっくりと休むなんて事は出来るはずもなく。
初めて訪れた、しかも来たばかりだと言うのに、侍女が起こしに来るまで起きることもなく眠り続けていた己に少し呆れて笑いが漏れてしまいました。
部屋に用意されていた着替えは、簡素な、それでも庶民などからすればしっかりとした造りと生地の日常着のドレスで、侍女の助けを借りながら身につけ、簡単に髪も纏めてもらいました。
サルド騎士候家の娘であった時ならば普通に受けていた事なのに、むず痒く感じてしまう。バッカスの屋敷では信用する事が最低でも出来る相手がユリアであった事もあり、身の回りのことは自分でしていました。誰かが見ていたのなら、ユリアを信じていないのだと言われるでしょう。確かに、あれだけの事をされたという記憶があるのです。同じようにマリアの被害者であったのだと分かり、ユリアを哀れに思う事はあっても本心から信用してはいないのだろうとは私も思います。けれど、着替えや身支度などを任せなかったのはそれが理由ではないと主張出来ます。気まずい。それが理由でした。ユリアは学園での、顔見知りの後輩です。社交界でも何度も顔を合わせている、姉様の結婚式の関係で彼女の家族の顔までよく知っています。そんな彼女を侍女として扱い、身支度を手伝わせるなんて、気まずくて仕方がありませんでした。それに、私は自分で自分の事は一通り出来ました。一人で着る事が困難なパーティー用のドレスを着る訳では無いのですから、貴族の義務を果たさなければならない訳でもないのなら、自分で行なうことが普通です。
そんな理由でむず痒く感じる手助けを受けながら身支度を整えた私は、そのまま手助けをしてくれた侍女によって離宮の中庭に作られた『温室』へと案内されました。
天井、壁、全てが透明で、室内で育てられている木や花といった多くの植物が無ければ、外からも中からも自由に覗き合える、『温室』はそんな場所でした。
侍女の説明によれば、これもまたオリヴィア姫の提案で造られたのだそうです。オリヴィア姫の願いによって試行錯誤を繰り返して腕を振った職人が薄く強いガラスを作り出し、それを壁や天井に嵌め込むことで『温室』は造られた。この温室の中で生育している植物は全て、大陸の北に位置するティグ王国の気候では育たない南国の植物達。これらによってしか作り出すことが出来ない薬効があり、惜しみなく薬師達に提供しているオリヴィア姫に感謝する、病を完治させた民が多い事も侍女は教えてくれました。
彼女が本当にそうだというのなら、何故こうも違うのか。
傍や国を、全てを破滅へと向かわせ、全てを支配しようとしている。
傍や国の為に惜しみなく行動を起こして、国民達に思慕を向けられている。
『神』という存在は、一体何を考えているのか。
オリヴィア姫の話を聞けば、私が抱いている疑問が全て晴れてくれるのだろうか。
温室の奥へ奥へと進んで行く侍女の後に続きながら、私は早く早くと疑問から解き放たれる瞬間を急く心を必死に抑え、事無げな表情を作ることに苦心していました。
「お連れ致しました。」
不思議な形をした葉を湛え、私の背の倍程の背がある植物。
私の顔よりも大きな鈴の形をした花?を連ならせた植物。
奥に進むにつれて、見たことも無い不思議な植物が多くなり、考え事をしていた私でさえも周囲を見回して植物を観察することに夢中になっていました。
そうして辿り着いた場所で、オリヴィア姫が笑顔を湛えて待ち構えていました。
蔓を模した意匠が細く伸ばされた鉄で編まれた脚が美しい、白いガーデンテーブルの上にはサンドイッチなどの簡単な食事とティーポット、二客が用意されている。
促されるままに侍女が引いた、オリヴィア姫の正面の椅子に腰を下ろしました。
「おはようございます。お待たせしました事をお詫び致します。」
「おはようございます。私も今来た所ですから、お気になさらずに。あぁ、本当の事ですから。貴女が部屋を出たことを聞いて来たのですから。」
朝の挨拶を口にして、待たせてしまった事を謝罪しました。けれど、その謝罪は朝の挨拶をにこやかに返して下さったオリヴィア姫によって否定されました。
それもまた、定例的な返しであるのだと分かっているつもりだった私に、オリヴィア姫は言葉を重ねてきました。
それでも、こうして私一人に対して食事が用意されているという事は、出来るだけ家族揃って食事をすることを好むテイガ兄様達の姿を見ないことを考えると、私が寝過ごしてしまったのだと思えてなりませんでした。
イザークやリア、ユリアの姿を見ないことも、私の不安を増長させているのだと分かっています。
今まで、ずっと近くにいたせいでしょうね。
「仕方ありません。貴女は、護りたい、護らなければと必死に目を光らせていたのですもの。知らず知らずの内に疲れが溜まっていたのでしょう。それに、まだ寝過ごしたなどという時間でもありませんよ?」
思わず口に手を当てていました。
オリヴィア姫のその言葉は、今まさに私が考えていた事への返答のようで…。
「何時も通りに早朝から体を動かしていたテイガ殿達にアルト殿とイザーク君は連れられていきました。帝国から帰ってきたオウキ殿も交えて、訓練場で日課の訓練を行なっていると聞いています。イザーク君の事を軽く扱いてくるとか何とか。仕置きの前置きだと笑っていましたね。」
私は声を失ったまま、オリヴィア姫の話を聞いていました。
「オウキ殿が貴女に挨拶がしたいのだと駄々を捏ねていましたが、まだ夜の明けてもいない時間でしたのでシギ殿にお願いして引き摺っていってもらいました。それで、よろしかったでしょう?」
「そ、それは、本物?の曾お爺様ということでしょうか。」
初めて見たのは、ネズミの姿で話をする曾お爺様。今度は本当に人の姿をしている曾お爺様なのかと聞きたいのに、どう言って言えばいいのか。思わず口から出たのは、本物なのかという言葉。よく考えてみれば、曾お爺様の魂を切り分けて宿しているのだから、一応は何に宿っていようが本物です。思ったままに、人の、などと聞けば良かったのだと後になって思い至りました。それだけ、困惑しているのでしょうか。
「えぇ、人の体を借りてはいますが、ちゃんと人の姿をしていますから、人前で話をしても大丈夫なようになっています。まぁ、少しエリザ嬢が驚く事もあるかも知れませんが。その時はどうぞ、オウキ殿を殴ってしまえばいいと思いますよ?」
一国の王女である筈のオリヴィア姫の口から、そんな率直な暴力を肯定する言葉が出たことに、また驚きました。それが謎に包まれているティグ王国では当たり前のことかも知れませんが、オリヴィア姫に対して変に気負ったりしなくていいのだと感じました。
「曾お爺様は何も詳しく教えてはくれませんでした。一緒にいた場所がまだマリアの支配下にあったからだと思います。けれど、こっそりと一つだけ教えて下さいました。」
そう、一つだけ。肩に乗って耳元で声を潜めた教えてくれた事があった。
"彼女は信頼出来るよ。自分を犠牲することを厭わず、本当に自分の身を損ねた。マリアを殺す事を誰よりも渇望しているのだから。"
ティグ王国に降り立ち、その意味に私は辿り着きました。
そして、確信を持ったのは今。
「貴女が、イザークの心を元に戻してくれるかも知れない『心に干渉する能力を持った』、ジェイド兄様の『婚約者』。そして、マリアの事を殺す事を望んでいる『マリアの妹』なのですね。オリヴィア姫。」
自分の身を損ねた。それは、オリヴィア姫の左手から失われている小指を差しているのではないかと見た瞬間から思っていました。
アルト先生が返したジェイド兄様の婚約指輪は、オリヴィア姫の指にピッタリと治まっている。
「そう。この世界では『マリア・テレーズ』と名乗っているあの女の、私は妹でした。あの女に殺され、私はこの世界へ『神』によって送り込まれたの。『心に干渉する』という能力を与えられて、ね。貴女は全てを知る権利がある。そして勝手に押し付けられただけではあるけれど、義務もある。説明させて貰うわ、この世界で起こっている馬鹿げた話を。」
表情を失くした、オリヴィア姫の顔と真っ直ぐに見つめ合うことになった。
その目から、顔を逸らすことは出来なかった。いえ、してはいけないように感じていました。
「でも、その前に一つ否定させて貰いますね。」
息を呑んでオリヴィア姫の言葉を待っていた私に対し、オリヴィア姫は一変して苦笑を浮かべていました。
「えっ?」
「私、ジェイド殿の婚約者ではありません。エリザ嬢と姉妹となれないのは残念でならないのですけど、ね。」
テイガ殿のようなお兄様も楽しそうですね。
そう軽い声音で言ったオリヴィア姫の目は、その口調や言葉とは異なり、寂しそうな影を宿しているように思えるものでした。
「でも、指輪には…」
「えぇ、突然に転移の術でやってきたかと思ったら、指輪だけを押し付けて帰って行かれたのです。ただ「持っててくれ」って、それだけでした。だから、これは預かっているだけなんです。」
オリヴィア姫が撫でた、左手の薬指にピッタリと嵌まった指輪。その内側にジェイド兄様の思いが刻まれていることを知っています。
「返事もさせてくれなかった。だから、婚約なんてしていないんです。」
無理だと分かっています。
僅かな可能性もあるかも知れない。そんなのは絵空事だと分かっています。
それでも、ジェイド兄様が姿をこの場に現してくれれば。そう思う事しか、私には出来ませんでした。




