婚約指輪のこと。
様々なご感想を頂き、大変嬉しく思っています。ありがとうございます。
頷いた私に、アルト先生はホッと息を吐いた。
私の耳のすぐ傍で吐かれた息で、くすぐったくて体が強張る。けれど、本当に小さく、聞こえるか聞こえないかという声で「ありがとう」と呟くアルト先生の様子に、体から力が抜けていきました。
「さぁ、行こうか。リアちゃんとイザークも待ってる。」
"ママを助けて"
そう言って、リアちゃんが庭に進入した俺の所に泣きながら出て来たんだよ。
アルト先生の言葉で、どれだけ此処に居たのだろうかと頭の隅に追いやっていた疑問が浮かんできました。リアもイザークも、そしてユリアも心配している。
リアを泣かしてしまった。
イザークは大丈夫だろうか。
私は慌てて、立ち上がろうとしました。すっかり、アルト先生に抱き締められていることを忘れていました。立ち上がろうとする動きはアルト先生の腕によって押さえ込まれました。
そして戸惑い、どうしようと悩む私の体を抱きかかえたまま、アルト先生が立ち上がりました。
私は、そんなアルト先生の腕の中で、横抱きになっている。
何の抵抗も出来ず、驚いている中で簡単に抱きなおされ、気づいた時にはアルト先生の顔を見上げる形で横抱きの体勢になっていました。
顔に熱が集まっていく。
こ、こんなこと今までされたありませんでした。
恥ずかしい。
変な汗が流れ、顔はきっと真っ赤になっているでしょう。
「あ、アルト先生。私、重い、下ろして下さい」
どもっていますが、ようやく言えたお願いも、アルト先生は歩き始める事で拒否しました。そして笑みを浮かべました。
やっぱり重いのでしょう?
「重い?何処が?前に体調を調べた時よりも減ったんじゃないかな?駄目だよ、体に悪い。」
逃げる為にも体が資本と分かっていたので、用意される食事は用心しながらも、ちゃんと手をつけていました。だから、アルト先生が言うように体重が減ったなんて思えません。
というより、抱き上げただけで体重って分かるものなのでしょうか?
「顔が赤いね。やっぱり無理して…」
両腕で支えられ、横抱きにしていた私を片腕で支えるように持ち直したアルト先生。
空いた左手を、私の額に伸ばしてきました。
額に置かれた手で熱を確かめる。
やっぱり、顔が赤くなっていたのですね。
「うん。熱は無い様だけど、こういう心理的なものは後から来るから。しばらくの間は無理をしないように、俺に何でも頼っていいからね。」
「ど、どうして、どうやって王都に?危険過ぎるのに…」
何を言っていいのか分からず、話を逸らしたい。そう思って、アルト先生が何故王都に来る事が出来たのかを尋ねました。これもまた、大切な事ですから。
「…リアちゃんが呼んでくれたんだ。」
リアが?
どうやって…いえ、あのテッドに送ると言っていた伝令術の鳥だわ。
こんな危険な事にアルト先生を巻き込むなんて。
ちょんと叱らないと。
でも、どうしてアルト先生を…
「リアちゃんを怒らないでやってくれないかな。俺が頼んでいたんだ。エリザちゃんに、ママに何かあったら知らせてくれって。だから、悪いのは俺だから。それに、これがあったから、危険では無かったよ。」
だから、気にしないで。
アルト先生は詰襟を広げ、服の中から長い紐を首に通し、提げている指輪を出した。
そして首から紐を抜き取ると、その指輪を私の前に見せてくれました。
「これ?」
それは、よく見慣れたものでした。
私の知るものとは意匠が違いますが、この指輪も描かれた意匠の中心にはめ込まれているのは、真っ白な丸石。
あの日、この王都に連れて来られる要因となったものが脳裏を走ります。
仕舞い込まれた荷物の奥深くに放り出されていたのを見つけ、街にあった古物商でお金に変えた指輪。白い石が嵌めこまれていたのはそれではなく、それの対となる王都に残っていたものだった。
マークではなくユリアが持ち、今は何処かにいるマークが持っている、婚約指輪。
それをアルト先生が持っているということは…
「えっ…こ、婚約おめでとう、ございます?」
「はっ?」
アルト先生の目が大きくなって、動きを止めました。
まだ、誰にも知らせてなかったのでしょうか。
相手は誰なのか。
一族の従姉妹や又従姉妹のお姉様達の顔が流れていきました。
考え事の中、アルト先生の表情は驚いたまま固まっています。
「こ、婚約なんてしてないからね。」
ようやく搾り出されたといったようなアルト先生の声。
けれど、
「でも、その白い石がついた指輪は、サルドの人間が婚約した相手に送る指輪で…」
そう婚約指輪。しかも、伴侶を守る為の破邪の力が宿る大切な指輪が他人の手に渡るなんて許されることじゃない。結婚相手に破邪の効果を持つ指輪を送れというのは、曽祖父が定めた事でした。曽祖父の世代以降のサルドの一族は全員、結婚相手を見つけたと本家の当主に報告すると、相手に贈る指輪に嵌める為の白い石を渡される。その石が何か、何処で手に入れるかは当主しか知らない事とされている。破邪の効果を持つ同じような石を他で見かけた事は無く、とても貴重なものなのだろうと言われています。そんな貴重なものを、世界が危険な状態に陥っている時に大切な人から離すことなどしない筈ですし。
「うん、それは分かってる。でも、これは、借りてきたんだ。俺の物じゃないから、ね。」
「借りた?」
「そう。ここを見てごらん。」
アルト先生が指輪を、より私の目の前に近づけた。
指輪の内側が見やすいようにと差し出され、その内側に字が掘られていることが見てとれた。指輪に手を伸ばし、小さく掘られた見難い字を目を細めて読み解く。
「愛するオリヴィアへ ジェイド?」
「ジェイド兄様?」
指輪の内側には、あの戦争で亡くなり遺体も見つからなかった下の兄の名前。
戦場の時間を一時停止させる程だった、周囲一帯の地面を抉る大きな爆発の中にいたという、信頼出来る筋の目撃談。そして、母や親族によって戦場から見つけられた見覚えのある遺品の数々の損傷から読み取った状況によって、下の兄は亡くなったのだと判断された。呑みこむことが出来なかったが、何時まで経っても帰ってこない事でそれを受け入れるしか出来なかった。
ジェイド兄様は、文官だと言っても通用するような細身の優男だった。それでいて、上司達に認められ、多くの部下に慕われていた人だった。社交界でも人気で、私もよく話を聞かれることがあったくらい。
でも、浮いた話は一つも聞こえてこなかった。婚約者どころか、交際の噂さえも聞いたことが無かった。そんなジェイド兄様の婚約指輪。
オリヴィア。
何処かで聞いたことがある名前。何処の誰だったかしら…。
「あの戦争が始まる直前に、いきなり来て指輪を押し付けて返事も聞かずに帰って行ったんだって、怒ってたよ。ジェイドが長年掛けて口説いている途中だったんだ。俺やテイガは知ってたんだけど、エリザちゃん達には"ものに出来たら紹介する"って言っていた。」
「ジェイド兄様が…」
妖艶な美女から、高位貴族の令嬢である美少女まで、色々な女性から恋文を送られ、多くの縁談が舞い込んでいた。それでも顔色一つ変えなかったジェイド兄様が年単位の時間を掛けて口説き落とそうとしていたオリヴィアという女性とは、どんな人なのか。
「…イザークの事、その人ならどうにか出来るかも知れない。」
ジェイド兄様から直接、紹介してもらいたかった。
そう考えていて、アルト先生の言葉を少し聞き逃してしまいました。
けれど、先程泣きながら、アルト先生を幻影と思い込んで吐き出してしまったイザークの名前だけは聞き取れ、私は考え込んでいた顔を上げてアルト先生を見た。
「えっ?」
「イザークが心を壊しているのなら、彼女なら治す事が出来るかも知れないんだ。心に干渉するっている珍しい力を持っているんだ。俺達も仕事の関係で何回か助けて貰ったから、実力は保証できる。壊れた心についてはどうなるか分からないけど。でも、試すだけでも、ね。」
次期当主として一族の全てを把握しているテイガ兄様が頼るのならば、それだけでどれだけの力を持った人なのか分かります。多くの血を取り込んできたサルドの一族には、親子兄弟関係なく、それぞれが様々な力を持って生まれる。それらを全て把握して采配する事が当主として最低限の役割、テイガ兄様は一族全員の名前と顔、その能力を把握しています。そんな人が一族以外の人を頼るということは、それだけ貴重な力、強い力という事になるのでしょう。
「お願いしたい、です。」
テイガ兄様が認めるような方ならば、イザークを元に戻すことも出来るかも。僅かですが、そんな期待が胸に溢れてくる。
あの子に何があったのか。
あの子を壊したのが、マリアの言う"神様"ならば何か情報を得る事が出来るかも知れない。
何より、元に戻ったのなら思いっきり殴ることも罵ることも出来る。
今のあの子では、涙が溢れてきてしまう。昔のように戻ったら、子供の頃から我慢してきた事も全部、全部ぶちまけてしまおう。
「今、俺達が拠点にしている所に、彼女は居る。早く王都を出て向かおう。」
「はい。あっ…でも、まずはシギを待たないと…」
アルト先生が来てくれた事ですっかり忘れていた。
この首にある、この魔術道具を解除しないことには私は屋敷から出る事だ出来ない。
イザークに解かせようとしたけれど、出来ないのだと泣くばかり。根気良く理由を聞き出せば、どうやればいいのか分からないという。心が壊れたせいなのか、私を逃がさないようにしているのか。今日まで毎日話をしたけれど、一向に解除出来なかった。
こうなっては、シギに頼むしか…
「大丈夫。シギなら、リアちゃんやイザークの所で待ってる。すぐに脱出できるよ。」
ホッ。
シギなら、これを解くことも簡単だもの。
良かった。
本当に良かった。
安心した私は忘れていた。
イザーク。
心が壊れているあの子が、苦手としているシギに会ったら…。




