先生のこと。
どれくらいの時間が経っているのだろうか。
私は、応接間を覗き込む隠し通路の中で埃に塗れながら、ただ呆然と座り込んでいるしか出来なかった。マリアは当の昔に機嫌よく帰っていった。
私も早くリアたちの元に戻り、心配しているであろうリアやイザークを安心させてあげなくては。
その思いは頭の端にちゃんとある。だというのに、頭の多くを「どうして」「なんで」という言葉ばかりがグルグルと回り、目の前が真っ暗で、立ち上がる気力さえも湧いてこない。
あんな、あんなくだらない、あんな身勝手なだけの理由で、私達は家も家族も、自分の心さえも奪われなければならないと言うのか。彼女の思うとおりにならない、命令を聞かなかった、ただそれだけで、死ななければいけないなんて。
彼女は一体、何なのか。
彼女が使う力、彼女が口にした言葉。色々なものが普通ではありえない。
それに、神様とは何なのか。
こんな、国を、いえ彼女の言葉を信じるのならば、この大陸にある全てを彼女は望んでいる。世界全てを巻き込んで、神様という存在はマリアと一緒に何をしようとしているのだろうか。
どうして、こんなことになったのだろうか。
どうして、私達だったのか。この国だったのか。
色々な事が頭の中を駆け巡る。
そのどれもが答えを見出せないまま流されていく。
フッと、真っ暗だった目の前に色が戻りました。
突然の事に驚き、頭の中を巡っていた考えが片隅へと追いやられていく。
そして、肩に人の手の形のような暖かさを感じられることに気がつきました。
「あ、あると、せんせい?」
アルト先生?
顔を上げて、目の前にいる人に驚きました。
思わず声を出した。自分の声が擦れ、喉に僅かですが痛みを感じた。
どうして、ここに…
こんな所にどうして、アルト先生が?
先程とは違う疑問が頭の中を満たした。けれど、それ以上に頬が冷たくなっていく事に気を取られました。人の前では泣かないと、私がしっかりしなくてはと思っていたのに、ここに来てからは涙を耐えることが出来ないことばかりです。
「アルト先生。」
もう一度、目の前にいるアルト先生を見つめました。それは確かに、街に居た最後の日に、会ったアルト先生で。
いえ、いいえ。違う。ここにアルト先生がいるわけがない。
このアルト先生は、ただの幻覚だ。本物である筈がない。
私が都合良く見ているだけの幻…
だって、アルト先生がこんな所に来るわけがないもの。
先生に破邪の力は無い。マリアの力で満たされている王都にいるなんて危険過ぎる。
アルト先生がマリアに操られる事なんて考えたくもない。
だから、これは幻。
そうに決まっている。
今思えば、アルト先生に出会った頃が一番楽しかった、幸せだったのではと思う。
テイガ兄様が学園に入学されて王都に住み、両親は職務の為に王都で暮らしていた。領地の本邸には、ジェイド兄様とセイラ姉様、そして私とイザークが残っていた。
少し寂しかった。けれど、学園の長い休みになるとテイガ兄様が、同じように学園に通う従兄や親族たちを、そしてアルト先生を連れて帰って来ていた。いつも以上に賑やかで、時には両親たちも休みを取って帰って来てくれた。
長い休みの間、地方にある家に帰ることなく王都で静かに過ごそうと考えていたアルト先生は始めは驚いている様子だった。それでも、私やイザークを可愛がってくれた。遊びに行くテイガ兄様たちに、足手纏いだからと置いて行かれた私達の面倒を見て連れて行ってくれた。一緒に遊んだりしてくれた。一年に三度あった長期休暇を全て、テイガ兄様の強引な誘いでサルドの領地に来ていた。申し訳なく思っていたけれど、それでも私は楽しみにしていた。
あの頃はマークも只の幼馴染で。
彼と婚約することになるなんて思っても見なかった。
あの頃は良かった。
そんな思いが、今の私にアルト先生の姿を見せている。こんな幻を見せているに違いない。
分かっている。
これは幻なのだと。
でも、それでも、私は誰かに胸の内を明かしたかった。
誰かに助けて欲しいのだと吐き出してしまいたかった。
「先生…アルト先生…」
アルト先生の幻に、私は全てを吐き出しました。
アルト先生に会ったあの日、その後にマークが訪ねてきた事から、全てを。
イザークがマリアが神様という存在によって壊されてしまっていた事。それに気づいてあげられなかった事。セイラ姉様が死んでしまったのはマリアの仕業だった事。義兄様もまたマリアに操られていた事。
それは懺悔でした。
私が気づいていたらと改めて後悔ばかりが湧き上がってきました。
また涙が溢れ、目の前にいるアルト先生の姿も霞んで見えなくなります。
幻なら、何時までも見えていてくれればいいのに。
「家に帰りたい」
吐き出して、懺悔して、そして最後に浮かんできたのは、サルドが代々治めてきた小さな領地の、生まれ育った本邸で。
両親が居て、兄弟達が居て、事ある毎に顔を見せる親戚達、三つあった村に住んでいた村人達、そしてアルト先生が遊びに来てくれていた、6年も前に失ってしまった思い出の溢れる家で。
あの家に、あの頃に帰りたい。
ただ、それだけしか考えられなかった。
「ごめん。」
アルト先生の肩が目の前に迫りまってきた。
先生の腕が私の背中に回り、その腕の感触に私は「あぁ、やっぱりアルト先生も戦う人の体をしているんだ」と見当違いな事を思ってしまった。テイガ兄様の半分も無いような体で優男と言われて街に住む女の人たちに人気なアルト先生。でも、その体はしっかりと固い筋肉を纏っています。そんな、馬鹿らしいことをこんな時に考えてしまうなんて、余程慌てていたのだろうと後から思う事になるのでしょう。
幻覚だというのに、そんな感触があるなんて。
そう思い至ったのは、しばらく経ってからでした。
本当は数秒だけの事だったと思います。
けれど、私には本当に長い時間に感じられた。
「先生、どうして…」
どうして、先生がいるんだろう。
アルト先生に抱き締められた所に感じる、優しい温もり。
それで、アルト先生が幻覚などではなく、実際に目の前にいるのだと知れました。
アルト先生が此処に居る理由。此処に来れた理由を尋ねようと出した声は、アルト先生には違う意味に聞こえたようでした。
「ごめん。もう、あの家には帰してあげれないんだ。あそこも、もう危険だから。」
謝った事に対しての疑問だったのだと思ったアルト先生。
私が「帰りたい」と言った家を、あの街の家に帰りたいと言っているのだと思ったようですね。
あの家も、確かに大切な私達の家です。ほんの僅かな時間でしたが、家族で過ごした大切な思い出の詰まった我が家です。でも、本当に帰れるというのなら、私が帰りたいのは…
「今度は絶対に守る。君も、リアちゃんも、絶対に守るから。」
でも、アルト先生の力強い腕の中に包まれて、そんな思いも薄らいでしまいました。
このまま、何処かマリアに関わらずに済む遠い場所に連れて行って貰えたらと思いました。そんな事が無理なのだと、ちゃんと理解しているというのに。
だから、ついてきて欲しい。
テイガ達も待ってる。
それまで以上に抱き締められ耳元で小さく言われた言葉に、様々な疑問を忘れ、私は頷いていました。
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「おかえりなさい、アズル。」
「ただいま帰りました。私の麗しき女神。貴女の下に帰って来る事が出来る日を、どれだけ待った事でしょうか。」
早く、早く。と従者を急かせ、笑いながらマリアの乗る馬車に陶酔の視線を送る道行く人々など蹴散らせながら王城に帰ったマリア。
そして小走りに自分の部屋に帰ると、マリアは中で待っていた青年に勢い良く抱きついた。
青年の腕は飛びついてきたマリアの腰をきつく抱きとめ、抱き締められたマリアは青年の額に口付けを贈る。その口づけを青年はうっとりとした面持ちで頬を赤く染め受け止めると、マリアの頬へ口付けを返した。
青年は、マリアの『お願い』によって皇国に出向いていた、アズル・ドュ・ベルデ公爵。学園からのマリアの取り巻きの一人だった。マリアが皇太子妃となった頃、私の傍に置いておくのなら公爵の跡継ぎよりも、公爵の方が気分が良いと『お願い』され、父親を排除し、若くして公爵の位に就いていた。
皇太子妃と公爵。人目も憚らずに抱きつき、口付けを交わし合うなど本来は合ってはならない事だ。けれど、この王城にマリアの行動を咎める者はいない。
「それで、私のお願いはちゃんと叶えてくれたのよね。」
答えなど分かっているのに、マリアは可愛らしく首を傾げて心配そうに目を潤ませる。
そんな自分が可愛いらしく、人々を魅了する事を分かっていて。
その考えの通り、アズルは恍惚の表情を浮かべマリアの体をきつく、けれど優しく抱き締めた。
「えぇ、もちろんですよ。私の女神。皇国は貴女のものです。」
「ふふふ。嬉しい。」
マリアは、自分に従順な下僕に再び口付けを贈った。
「あら、でも違うわ。そうよ。だって、この世界は元々私の物だもの。神様がプレゼントしてくれた私の世界。私は、私の物を取り戻しただけよ。女神である私に逆らう悪い子達に天罰を与えてあげただけ。」
世界はマリアの為に用意されたものなのだから。




