アルト・クーゲルという男。 後
「勇敢と無謀は違うよ。」
オリヴィア姫の指に嵌まっていた指輪だったと思い至って驚いた俺の耳に、若い男の声が入ってきた。その声の持ち主は、左肩に乗った鼠だった。
ゾワッ
鼠が人間のようにニタァッと笑う。
それと同時に、全身を振るえが走り、ねっとりとした汗が流れる。肺を押し潰されるような緊張が全身を包み込んだ。きっと、鼠が触れている左肩には鳥肌が立っているだろう。
「お、オウキさん。」
「おじいちゃんって読んでも構わないよ。君はテイガの大切なお友達だからね。それに、エリザとリアが世話になっている。」
好々爺のように明るい声が鼠の口から出てくる。それをしているのは、テイガが爺様と呼ぶ人。意識を分割して動物や魔獣に宿す事が出来るらしく、本体は帝国にあるまま何度も動物の姿でティグ王国に現れている。数ヶ月前に一度だけ、人の姿でテイガと話をしている所を遠目にしたことがあったのだが、偶然目があっただけで恐怖に全身を凍りつかせてしまった。人の形をした化け物だと直感し、どんな攻撃をされようと逃げられる距離だったというのに、全速力で逃げ出したい気分に襲われた。
「何の対策もなく王都に行ってどうするつもりだったんだい?君もあちらの手の内に取り込まれて、エリザやリア、テイガを悲しませる事になっていただろうね。」
そうだった。
マリア・テレースがいる王都は、サルドの人間と言えども危ない状態だった。
いや、今のシャール王国はエリザちゃん達の住む街一帯以外はもう駄目だ。
あそこは、テイガやエリザちゃんの両親とジェイドによる守りがある。そして、帝国側の辺境ということでマリア・テレースの目がまだ届いてはいない。だからこそ、あの力から今まで守りきることが出来ていた。
テイガ達と違って破邪の力を持たない俺では王国に入ることも出来ないだろう。
「ッ」
それでも、足は止まらなかった。
走りながら、方法を考える。
「うん。良い子だ。無理だからと諦めない子は好きだよ。可愛い。」
その声に、ほんの少しだけ感じていた恐怖が和らいだ。
「だからこそ、この指輪をお姫様は君に渡したんだ。これは破邪の力を持つ指輪。持っていれば王都に入ることくらいは出来るよ。保険として、僕も一緒に行ってあげる。これに宿しているのは意識の欠片のようなものだけど、少しくらいなら破邪の力を発揮出来るから役に立てるよ。」
「…あ、ありがとうございます。」
「いいや。これも、可愛いエリザとリアに早く会う為さ。エリザとは久しぶりだし、リアは会った事がまだ無いんだ。きっと、愛らしい子に育っているんだろうね。」
チウチウと鼠本来の鳴き声を発して、鼠が上機嫌に体を揺らしている。
「山を下り終わったら、足を用意してあるよ。」
「何時の間に?」
あと少しで平坦な道に入る。
そんな所でオウキさんが言った。
「止まらずに走り続けなよ。止まっている時間も惜しいだろ?」
オウキさんの言う通り、走り続ける。
山が終わり、森を貫く平坦な道を駆け抜けていく。
「来る。上手く飛び乗るんだよ。」
右方向からガサガサと大きな音が聞こえ、それが段々と大きくなっていく。
そして、右側の森の中から一頭の黒い猫が現れた。
大きな、俺の目線に背中がある猫だ。
「これは。」
「ほら、乗って。」
オウキさんの指示に従い、併走する黒い猫の体にしがみ付き、何とか飛び乗ってみせる。走る猫の背中の毛を掴み、振り落とされないように手に力を込めた。
猫の速さにも慣れた頃には背中の上でバランスを取ることも出来るようになり、上半身を起こす事ができた。
「魔獣、ですよね。まだ、この辺りにいたんですね。」
「この子は力が強い方だからね。でも、王都に着く前に解放しないと、ね。」
魔力を持ち、魔法を使う動植物を魔獣という。
あちらこちらに生息し、時折人里に被害を及ぼす魔獣を退治する事は国軍の任務の一つだ。7年前、その魔獣の姿が王国から消えた。後から考えれば、王都にマリア・テレースが現れた時期だった。そして、5年程前には近隣諸国から、魔獣が姿を消した。
魔獣達は、マリア・テレースの存在の危険性を感じ取り、その力の及ばない遠くへと逃げていったのだろう。カーズの弟であるイーズが魔獣を操る術の使い手だが、その魔獣たちも数ヶ月前に我慢が出来なくなったらしくイーズを無理矢理連れ去り逃げていった。無事を知らせるイーズの手紙には、馬を走らせて数ヶ月程かかる場所には、魔獣達が溢れかえっているとあった。
王都まで後数時間の所で、黒猫は足を止め首を振って拒絶を示した。
指輪を嵌めた俺には、頭が痛くなる甘ったるい匂いが感じられた。
俺達が黒猫から飛び降りれば、黒猫は一刻も早くといった感じに王都とは反対方向へと走っていく。その後ろ姿に、王都がどんなに危険な場所なのかを改めて思い知らされた。
王都に近づけば近づく程、甘い匂いはきつくなる。
頭が痛い。
「どうやら、随分と力を増したようだね。」
そう言って、オウキさんは不機嫌そうにチッチッと鳴いている。
王都の中に入ると、ニコニコと笑う住人たちの姿が見える。しかも、道行く人々は若い者たちばかりで、
30代以上の人間の姿は一切確認出来なかった。
マーク・バッカスの屋敷を見つけ、人の目の無い場所を探し出し壁を乗り越えて敷地内に入り込んだ。すると、それまで感じていた甘い匂いが消え、ようやくまともな呼吸が出来るとホッと肩を撫で下ろした。指輪のおかげで無事であることは出来たが、匂いのせいで起こった頭の痛みは限界だった。
さて、どうやって屋敷の中に入ろうか。
敷地内に入るよりも、建物の中に入る方が使用人の目が多くある分困難を極める。
庭の植木の物陰に隠れて思案していると、オウキさんが口を開いた。
「可愛い子が来たようだよ。」
「えっ?」
「アルト先生!!」
庭に通じている窓から飛び出てきたリアが、真っ直ぐに俺の所に走ってきた。
あまり激しい運動は体調に関わるのに。人目の無い事を確認し物陰から出た俺はリアに走りより抱きとめてやる。
「大丈夫だったのか、リアちゃん?エリザちゃんは?」
「ママが。ママが!!」
抱き締めたリアは涙を流していた。
「エリザちゃんがどうしたんだ!?」
「ママが帰ってこないの。」
涙を流すリアの背中を叩いて、説明して欲しいと促した。
マーク・バッカスによって連れて来られた事。
外に出られないようにされた事。
壊れていたイザークの事。
そして、王太子妃がやってきて、その様子を探る為にエリザちゃんが隠し通路に潜り戻ってこない事。
まさか、という思いになる。
けれど、それはオウキさんによって直ぐに否定された。
「あの子は『破邪の巫女』になれる子だよ。他の誰が駄目でも、あの子は大丈夫。リアも資質があるみたいだね。」
「ネズミさん?」
「初めまして、リア。僕の事はおじいちゃんって呼んでね。」
俺の肩から、リアの手の中に移動した鼠。
優しい声でリアに話掛けているその背中で、尻尾を動かして「行け」と屋敷を示していた。
「リアちゃん。ママは俺が探してくるから。」
「…うん。お願いします。」
「じゃあ、僕はイザークに会いに行こうかな。」
「あっ、じゃあ俺も。」
リアちゃんの事をオウキさんに任せよう。
そう思い、リアに隠し通路の入り口を教えて貰い、リアが出てきた窓に向かう。背中を向けた後に、リアとオウキさん以外の、聞き覚えのある声が聞こえた。
「シギ。」
顔だけを振り向ければ、リアの肩に手を置いているシギの姿があった。何時の間に来たのか。いたのなら最初から姿を見せればいいものを。
「シギって、ママが手紙を書いた人?」
何時の間にか背後に知らない人間がいて、肩に手を置かれたことで驚いていたリアだったが、どうやら調子を悪くした様子は無い。それにホッと息を吐き、そして俺が呼んだ名前に覚えがあったようで、リアもシギに対する警戒を解いたようだった。
「いいから早く行きなよ、アルト君。こっちは僕に任せて、さ。」
シギのその言葉に一抹の不安を感じないこともないのだが、オウキさんの手前リアには何もしないだろう。イザークの事は仕置きの一つとして放っておいてもいいだろう。
俺はエリザちゃんの元に急いだ。
薄暗い隠し通路の中を、埃に残った人が歩いて様子を追っていく。
長年、使っていなかったようで積もった埃が確かな証拠を残してくれていた。
そして、辿り着いた先にエリザちゃんはいた。
埃で汚れている床に座り込み、肩を下げ、俯いたままピクリッとも動かない。
エリザちゃんの姿を見た時から足音を消すのを止め、気配も消していないから、彼女が俺に気づいていないということは無いはずだ。
何があったのか。もしや、気を失っているのか。
慌てて駆け寄り、エリザちゃんの肩に手を置いて顔を覗き込む。
空ろな目を開けて、呆然とした顔のまま固まっているエリザちゃん。
その様子は、痛々しくて見ているだけで胸が痛む。
これなら、まだ気を失っていてくれた方が良かった。
「あ、あると、せんせい?」
ほんの少しだけ焦点があい、エリザちゃんは俺を認識してくれたようだった。
「アルト先生。」
ボロボロと、エリザちゃんの目から涙が流れ落ちていく。
エリザちゃんの涙を見るなんて何時ぶりか。家族に守られていたあの頃でさえ、些細な事で涙を見せるような子ではなかった。
3年前の母親の葬儀の時にも、これからは自分がしっかりしなくてはと涙を堪えていたというのに。そんな彼女が泣くなんて。
一体、マリア・テレースは何を言ったのか。
色々と話を聞いてあげたいと思う。
一人で悩まなくてもいいと伝えたい。
一人で苦しまないでいいのだと教えたい。
でも、今はただ、エリザちゃんを抱き締めてあげる事だけが俺に出来る事だった。




