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あの娘は二面性ガール  作者: 紙月三角
10章 夏のイレギュラー(前編)
98/152

04

 バシャッ、バシャッ、バシャッ、はあっ、バシャッ、バシャッ、……。

 水をかく音と、その音の何回に一回と同時に力強く呼吸をする音。

 バシャッ、バシャッ、バシャッ、ぷはあっ、バシャッ、バシャッ、……。

 それ以外には、波のたゆたう音や遠くで鳥の鳴き声が、BGMのようにかすかに流れているだけ。まるで、本当に海を独り占めしてしているのではないかと思えるほど、そのときのかなたを邪魔するものは何もなかった。


 ビーチにいるのにうんざりになった彼女は今、エメラルドグリーンの海を沖に向かってひたすらに泳いでいた。そうしている限り、ビキニ姿で露出された自分の体を誰かに見られる心配はないと思ったし、何よりも体を動かしていればはなからそういった余計なことを考えなくても済むと思ったからだ。

 それは、プロの水泳選手のように無駄のない、美しいクロールだった。


 元々スポーツはある程度何でもそれなりに出来てしまうかなただったが、その中でも一番得意なのは水泳で、更に一番好きな泳法がクロールだった。

 中学一年のときには水泳部の期待のエースとして、学校を代表して大会に参加した経験もある。

 父親の件があって学校で孤立してしまってからは、部にも居場所がなくなってしまい、練習中も他の部員から相手にされなくなってしまった。それでもかなたは卒業するまで部活をやめたりせず、放課後は毎日一人で泳ぎつづけた。泳ぐことは、趣味の少ないそのころのかなたにとっての数少ないストレス発散の手段だったのだ。



「ぷはっ!……はあ、はあ、はあ……」

 それまで一心不乱にクロールを続けていた彼女だったが、やっと体を休めて、脚だけをゆっくりと動かして立ち泳ぎでその場に静止する。

 振り替えると、ビーチからは既に数百メートル近く離れていた。

 かなたがこんなところまで来ていることなど気付かず、いまだに夢中でビーチバレーに興じているらしい澪湖たちも、米粒程に小さくなってしまって、ここからでは誰が誰だかも分からない。


 身体中に感じる、心地よい、適度な疲労感。

 勿論、ちゃんと帰るための体力は残してあるのだが、それにしてもその場の勢いに任せてずいぶんと遠くまで来てしまったものだと、かなたは少し反省した。


「はあ……、はあ……、そう……いえばさっ……」

 久しぶりに思いっきり体を動かせたことによる高揚感に包まれていて、テンションが高くなっているかなた。いつもよりずっとボリュームの大きな声で、荊に話しかける。

「お前は、泳いだりする動物なのかなっ、荊?あたしは、あんまりお前のことを知らないけどさ…、確か、何かの動物なんだよな、お前はっ!?」

――……――

 荊からの返事はない。

 脚を動かして体を一回転させて周囲を見渡しながら、かなたは話し続ける。ビーチ以外に見えるのは、果てしない水平線だけ。海の真ん中に、かなただけがポツンと取り残されているようだ。

「ほらっ!犬なら犬かきとかで泳ぐし、カバとかワニとか、水辺の動物も泳ぐよなっ!?今まで一応…お前に遠慮して聞いてこなかったけどさ!そろそろ聞いちゃってもいいかな!?いったいお前、何の動物なわけっ!?」

 少し息があがっているので語気が強くなっているが、もちろん怒っているわけではない。そのことは、心が繋がっている荊なら言わなくとも分かっているはずなので、かなたはとくに説明や弁明などもしなかった。

「ってかさ!そもそも魚とかだったりしたら、泳ぐのすごい得意だよなっ!?あ!てか、怠け者なお前のことだから、もしかしてナマコとかだったりしてなっ!だったらウケるわっ。はははは……はあ…はあ…おい?荊?」

 しかしどれだけかなたが話しかけても、何故か荊は返事を返してこなかった。頭の中に彼の気配は感じるので、けして彼が眠ってしまっているという訳ではない。

 だからこそ、かなたはそれを不思議に思った。

「どうした?いつもなら、余計なことをべらべらと話しかけてくるくせに、いきなり黙って……」

――…わい…のさ…――

 微かに聞こえる、呟きのような声。

「は?何だってっ?もう一度…」

――こ、怖いのさ…――

「ははっ、どうしたんだよ!?お前らしくないじゃないかっ。いったい、何がこわ……い……って……」

 それ以上、かなたは続けることが出来なかった。

 なぜならば、突然自分の頭の中に洪水のように強い感情が溢れだしてきて、まともに頭が働かなくなってしまったからだ。


 怖い……。

 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……。


「え…え……こ、怖い?な、何これ…?あ、あたし、何思って……ち、違う。これって、お前の気持ちが……っ!」

 かなたは混乱してしまう。


 かなたと荊は、一つの体を共有していて、二人の意識は頭の中では繋がっている。だから、相手が今どんなことを考えているのかということが、自分の気持ちのように感じとることが出来るし、それどころかときとしてそれは、自分の気持ちと区別がつかなくなることさえあった。つまり相手の感情が、自分の感情のように思えてしまうのだ。

 例えばかなたに何か嬉しいことがあったとき、頭の中の荊にもそれが伝播して、彼の機嫌もよくなるというように。

 だがその現象は、「嬉しい」というポジティブな気持ちだけに起こるものではない。そのことは、今まさに頭の中の荊が感じている激しい恐怖が、かなたの感情を押し潰すようになだれこんできていることで証明されていた。


「ちょっ、け、荊、お前、ま、まさか…っ!お、落ち着けって!じゃ、じゃないと、あたしまでっ…」

――怖い怖い怖い…怖くて……――

 頭の中が、押し寄せてくる恐怖でいっぱいになるかなた。恐怖以外の感情が全て消え去り、完全にパニック状態に陥る。しかも、そんな負の気持ちは脳内だけでなく肉体にまで影響を与える。かなたの筋肉は萎縮してしまって、体が自由に動かせなくなっていった。

「ちょっ!がぱぁっ!ま、待てってっ…!っぶはぁ!」

 さっきまでは自由に動かせていた両脚は痙攣をはじめ、完全に感覚が失われてしまう。かなたは水上で立ち泳ぎを続けることが出来ずに、ゆっくりと海の中に沈み始める。

 なんとかまだ動く上半身で必死に抵抗しようとするが、両腕が水面を叩いて波立たせるだけ。そんな風にどれだけ激しくもがいたところで、体が水面に浮かびあがることはない。

 しかも水に浸かる部分が増えれば増えるほど、荊の恐怖心はどんどん加速していくのだ。

――怖い!怖い!怖い!死ぬっ!お、俺は、水が苦手で!し、沈む!沈んじまうからっ!!――

 頭の中に聞こえる荊の情けない声と、彼が際限なく作り出す強い恐怖は、かなたにはもう自分のものと区別がつかなくなってしまっていた。幼いころからずっと泳ぎが得意で、ついさっきまでちゃんと泳げていたはずのかなたなのに、今は、『恐怖を感じるほど水が苦手』であるという感覚に完全に支配されていたのだ。

 泳げなかったときのことなどもう記憶にないかなたにとって、それは全くの未知の恐怖だった。

「だ、誰かっ!がばぁっ!お、溺れっ!はぶぁっ!」

 かなたは必死に声をあげて助けを呼ぶ。だが、沖合いからビーチまでの数百メートルもの距離は、彼女の声を十二分に減衰してしまう。ビーチに届くころにはもはや蚊の飛ぶ音よりもか細くなってしまったかなたの声が、普通の人間の耳に届くはずもなかった。

「ばぶぁっ!……ぶはぁ………はぶっ………ぶは……」

 最初はバシャバシャと激しく音を立てて荒ぶっていたその場所も、段々と何事もなかったかのように落ち着いていく。


 ブクブクブクブク……。

 小さな泡がいくつもはじける。だが、徐々にその数も消えていき、最後にはそこは、完全に凪いだ穏やかな水面になった。


 深い水の中へと、かなたはなすすべなく沈んでいってしまったのだった。


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