06 side-B 3
女子トイレの中。かなたは洗面台の鏡に向かって呟いた。
「荊…。またお前だな…」
胸の痛みは収まらない。その痛みを誤魔化すように顔を歪ませて、鏡の中の自分を睨みつけている。
――…俺じゃねえよ……――
ばん!
洗面台を力強く叩く。
思ったより大きな音が出てしまったせいか、自分自身で驚いてしまう。だが虚勢を張ってそれを表には出さずに、かなたは大声で言った。
「嘘つくなよ!お前以外に誰があたしと父さんのことを知ってるって言うんだ!」
――…俺じゃねえよ…俺は、そんなの知らねえって……――
荊の後ろめたい気持ちが、かなたの頭に入り込んでくる。
去年のクリスマスの夜から、かなたとその父親の徹弥の関係がこじれてしまったこと。そしてそのせいで、同居しているはずの二人が毎日ろくに会話も交わしていないことを、荊は知っていた。もちろん、荊がそのことを知っているということは、心が繋がっていたかなたも気づいていたのだった。
「まったく、面倒なことを……」大きなため息をつきながら喋るかなた。「姉さんに、余計な心配をかけてしまったじゃないか…」
――…俺じゃねえ…って……――
さっきから同じ反論ばかり繰り返している荊を、かなたはもう無視することにした。
「どうすればいい……?どうやって、説明すれば……」
いまいましそうにかなたは、頭を強くかいた。
数年前、職場の後輩の女性と浮気をした徹弥。その裏切りはやがて家族に発覚し、かなたの母親は離婚を選択して、娘の励歌とかなたを連れて家を出ていこうとした。
だがかなたはその母親の申し出を断って父親の元に残ると言い、そのせいで母親を深く傷つけ、しばらくの間関係が疎遠になった時期があったのだ。
……『あの時』、母さんじゃなく父さんを選んだのに、どうして今は、父さんのことまで嫌いになっているの?
励歌の言葉が、かなたの頭に刺さる。
かなたには、どれだけ考えてもその問いに対する正しい答えを出すことが出来ない。
…別に、あたしは母さんを捨てた訳じゃない。ただ、あのときの父さんはみんなから非難されていて余りにもかわいそうだったから、それが一番いいことだと、思って……。
それに、あたしが父さんのことを嫌いになった訳じゃない。父さんがあたしのことを嫌ってるんだ。あたしのことを避けて、あたしがそばにいることを望んでないのは、父さんの方じゃないか……。あたしは、いつだって父さんの味方でいようとしていたのに……。
去年のクリスマスに起きた出来事は、かなたの心の中にあまりにも深い傷を残していたのだった。
「……仕方ないな……」
やがてかなたは思い詰めた表情をつくり、小さく頷いた。
――カナ……――
「荊、お前のせいでこんなことになったんだ。お前に責任を取ってもらう…」
――……――
荊には、かなたの考えていることが言葉がなくても通じた。そして彼は、そのかなたの考えに協力することにした。
――……ああ、それでいこう……――
「こんなこと、これきりだからな……。あたしは本当は、お前の能力なんて使いたくないんだ……」
かなたはつらそうに目をつむる。そしてしばらくそのままで動かずにいたが、やがて何事もなかったかのようにトイレを出ていった。
※
「ごめんごめん。ちょっとお腹の調子が悪くてさ。はは…」
「え、そうなの?大丈夫?季節の変わり目は気を付けないと……」
「えっとー?それで、何の話だっけ?」
さっきとはうって変わって、明るく振る舞うかなた。励歌はそれを少し不審に思ったが、タバコの火を素早く消して、続きの話を始めようとした。
「だから、カナちゃんはどうして……」
ブブブ……ブブブ……。
ちょうどそのとき、かなたのデニムパンツのポケットから携帯電話のバイブレーションの音が鳴った。かなたはポケットをおさえて、それを切ろうとする。
「出ていーよ」
励歌は笑顔でかなたに言った。
「でも……」
「気にしないで」
優しい微笑みに押され、しぶしぶという態度でかなたは電話の通話ボタンを押した。
「何?……あ?お前……ちっ……そんなどうでもいいことでいちいち電話してくるなよ……はいはい……わかったから……じゃ、もう切るけど?いいよな?……はあ!?そんなの知らないよ!自分で考えろよ!こっちはお前みたいに暇じゃないんだよ!いい加減にしろ!」
怒りをあらわにして電話を切ったかなた。その剣幕に驚いている励歌に対して、恥ずかしそうに言い訳をした。
「あはは…ごめんごめん。でも、気にしないでよ。さっきのは、高校の同級生。こいつとは漫才の掛け合いみたいな感じでさ、いつもこんな感じなんだよ」
「そ、そうなんだ…」
自分の妹の知らない一面を見てしまい、思わず苦笑いを浮かべた励歌は、気を取り直して話を続けた。
「そ、それでさ、カナちゃん…。あたし思うんだけど、カナちゃんはさ…」
「さて、と…」
呟くかなた。それと同時に、人格を荊と交代した。




