05
「う…うう…頭いたい……」
澪湖、いや、澪湖の中のもう一人の人格は、テーブルに打ち付けた頭を抑えながら、体を起こした。
「あ、あれ……さっきの…人…じゃない…?雰囲気が…全然、………!」
起き上がって、荊の姿を見つけた彼女は、その様子がさっき見かけたかなたのそれとかけ離れていることに驚いていた。だが、すぐにそれは別の感情によって上書きされた。
「貴女……なにしたの…!?」
自分の頬に触れ、自分が涙を流していることを知った彼女。そこから、さっきまで澪湖が泣いていたこと、そして、目の前の人物がそれを引き起こした可能性が高いことにすぐに気づいた。
「澪湖を…泣かせるなんて……許せない…!」
荊をにらみつけるその目は、先ほどまでの、かなたが心配していたか弱そうな少女ではなかった。まるでハンターに捕らえられた手負いの肉食獣が、一瞬の隙をついて反撃を繰り出そうと虎視眈々と狙っているような目。そこには明らかな殺意がこもっていた。
――おい!は、早く代われ…――
かなたは荊が余計なことを言うのを抑えようとしたが、それよりもずっと早く、彼は動物的な本能で危険を察知していた。
「か、勘違いすんなよな、伊美澪湖!?俺らは仲良くここで一緒にお茶して…」
「…よお子」
彼女は荊ににらみを聞かせたまま、つぶやくように言った。
「私…伊美よお子………ちゃんと、説明して……」
――どうして、こんなことに……――
五分後。
喫茶店の床に正座をさせられている荊。ぶすっとした顔をして不満をあらわにしているが、同時に、落ち着きなく体を揺らしているのが彼の余裕のなさを表していた。
「…もとはといえば、カナがお前のことを心配して、謝罪しようとして……つまり俺は関係ない。もちろん敵意なんてあるはずがない」
「………もう、いいです……わ、分かりました………ちょっと……信じ、られないけど……」
席に座って、メロンソーダをストローでブクブクと泡立てているよお子。澪湖が注文したアイスクリーム山盛りのパフェはキャンセルしてしまっていた。
喫茶店にくるまでの経緯、澪湖が自分たちのことをかなたに話したこと、そして、『かなたたちの事情』を聞いて、やっと少しは殺意が和らいできたようだった。
荊を正座させたまま、よお子はトイレに向かう。しばらくして戻ってくると、ぼさぼさの髪と、顔の涙のあとをきれいに整え、真新しい真っ白なワイシャツに着替えていた。
「……か、……かなたさん…は…悪霊…?……にとり憑かれて、…いる、ってこと……ですよね…?」
さっきから、「いい加減代わってくれ…」とかなたに懇願している荊だったが、かなたはそれを完全に無視していた。
――着替えを持ってきていたのか…?もう一人の人格が汚したときのために?本当に…別人だな――
「悪霊じゃない。むしろ守護霊って言ってほしいね……、入れ替わりの決定権も、カナのほうにあるしな…。俺はこいつに利用されてんのさ」
澪湖はこっちの人格の人を好きになったのかな。かなた、って人格の方は女の子だし。…だとしても、趣味悪いな。
よお子は自分自身はなんとも思っていない荊を見下しながら、小さく笑った。
「……かなたさん…は、…澪湖のこと……何か、言ってた……?」
その台詞を聞いて、荊は目を輝かせる。
「おう!俺はもういいから、カナと話してやってくれ。あいつはお前に何か言うつもりで、お前のことを追っかけてさ…」
やっとよお子の恐怖から解放されると知って、心底嬉しそうな荊。
「じゃあカナ、そういうわけなんで…」
――随分人間様に忠実じゃないか。しかも、こんな可愛らしい女の子に――
荊はあきれ顔になる。
「妬くんじゃねえよ。俺がどいつになつこうと、俺の勝手じゃねえか」よお子に聞こえないように小声になる。「それに、知ってるよな…俺のこと。言葉を使って相手を惑わす、それが俺のやり口」
――相手を油断させるためには道化も演じる、と?あたしには、お前があの娘を本気で怖がっているように伝わってきたがな――
「ちっ、そんなの、気のせいさ…」
かなたと荊の二人の間で、隠し事をすることは困難だった。自分が感じたことはどんなことでも、相手には筒抜けになってしまうのだから。
「それじゃ、『力』を使ってもいいのかよ?あいつはなんか危険な気がする…。自分の事、いや、自分のもう一人の人格が守れるならなんでもやるって感じ。敵に回すと厄介なやつ。俺しかいないなら、さっき『力』を使って無効化してる。カナがあいつのことを…」
――そうか…、あたしのために気を使ってくれたのだな。それには礼を言うよ。荊、ありがとう――
一瞬にして、荊はかなたと入れ替わる。髪は元通りの黒髪、瞳もきれいな白と黒に戻った。よお子は、少し驚いた様子だったが、取り乱すこともなくその変化を眺めていた。
「あたしの片割れが失礼したね。あいつは所詮、畜生か何かの霊魂。知能も獣並みでね。人間の心の機微には疎いところがあるんだ」
――ちょっとひどくねえか…――
かなたは爽やかに髪をかきあげると、よお子に笑顔を向ける。
「……あれは…結局…、なん、なの…?」
「実を言うと、あたしも荊、あ、いや、さっきまで君と話していたあいつのことはよくは知らないんだ。まあ、君が言ったように悪霊、霊体にはちがいないがな。なんでも昔、何か悪事を働いたせいで、死んでも死にきれなくなって、魂だけが現世に残って罰を受けているんだそうだ。荊は呪いと言っているがな。『自分のことを理解してくれて』、『許してくれる』人間を探しださなければいけない、そうしないと、呪縛霊のように霊体のままずっとこの世をさ迷い続けなければならない。あたしが知っているのはそれくらいだ。体がないと何かと都合が悪いというから、ときどき貸してやっているのさ」
「……男らしい……あ、ご、ごめんなさ…」
よお子は、思わずこぼした言葉が失礼に当たると気づき、すぐに訂正しようとした。
「まああいつの事はどうでもいいさ。それより、あたしはどうも、君に言わなければならないことがあるらしいんだ」
「…?」
「さっきは本当に失礼した。それから君のもう一人の人格、澪湖に対しても、騙すようなことをしてしまって、彼女の恋心を踏みにじってしまったこと。心から反省している」
「……そ、それなら…もう……」
「そんなあたしが、こんなことを言う資格なんてないのだが、本当に恥知らずで侮辱的な行為だと思うのだが…」
「……?」
テーブルのよお子の右手を、かなたは両手で包み込む。
「どうもあたしは恋をしてしまったらしい。君に初めてあったときから、君のことが頭から離れないんだ」
「………!」
よお子は絶句する。
「君は、一目惚れというものを信じるだろうか?」