08
ありえないはずのことに直面して、音遠は完全に取り乱していた。
えっ…!?えっ!?えーっ!
自分しかいないはずの部屋に聞こえたその『声』。聞こえるはずのないその声の主を探して、キョロキョロと自室を見回す。
ちょ、ちょっ、ちょおっとおおっ!
カーテンの裏、押し入れの中、テレビの後ろ…、部屋をひっくり返すかのように探し回るが、そんなところには誰もいない。そして、そんな音遠のことをあざ笑うかのように、その『声』はもう一度音遠に同じ台詞を言った。
「その言葉を待ってたー、って言ったんすよー?音遠ー」
二度目にして、やっとその声のした方向を突き止めた音遠。その方向、さっきまで自分がいたベッドの下を、震えながらにらんでいると……。
日焼けした傷だらけの腕、ぼさぼさの髪……。もぞもぞと体をくねらせながら、ベッドの下の二十センチほどの空間から、二十六木ヨツハが匍匐前進で這い出して来た。
「よ、よ、よ、ヨツハちゃああん!なななんでそんなとこにいるのおお!?」
いつかイクと百梨が教室の机の下から出てきたように、ベッドの下から現れたヨツハ。全然悪びれる様子もなくぴょこんと立ち上がると、その場で元気よく一回転する。なぜか彼女は、以前音遠がプレゼントしたウサギ耳のついたもこもこパジャマ姿だった。
「やーっと本音を聞かせてくれましたっすねー?自分ってばずっとー、そーの言葉を待っていたんすよー」
にぃーっと笑いかけるヨツハ。音遠は赤くなった目を誤魔化すようにこすりながら、頬を膨らませて怒る。
「な、な、なあに言ってるのお!勝手に人の家に入ってきてえ!盗み聞きするなんてひどおいいー!出てってよおー!何なのよおー!て、てゆうか、わたし何にも言ってないしい!」
支離滅裂なことを叫びながら、ヨツハの手をつかんで引っ張って部屋から追い出そうとする。だが、か弱い音遠の力ではヨツハを一ミリたりとも動かすことが出来ない。
完全に混乱している音遠に対し、いたって平常心のヨツハは飄々とした様子で語り始めた。
「……あー、肩こったー。去年からずーっとベッドの下にいたんすよー。えーっと…、正味何日になるんすかねー?さすがにベッドの下で年を越したのは今年が初めてっすよー……」
だ、だってヨツハちゃんたちは、冬休み中はずっと百梨ちゃんたちと一緒に海外旅行に…。
「……ああ、行きの飛行機だけは一緒に行きましたっすけどー、向こうの空港についたらそのまま日本にとんぼ返りっす!現地にいる自分の片割れちゃんが今頃交互にイク役とヨツハ役をやってくれてるっすから、バカなお嬢様くらいだったら余裕でだませてるはずっすよー……」
い、いや、むしろどうしてそのまま旅行に行かなかったのかが疑問なんですけど…。
「……まあ年の終わりと年の初めを、誰よりも音遠の近くで過ごすことが出来たわけっすから、不満は全然なかったっすねー。ある意味同棲みたいなもんっすよねー……」
その発想はもうストーカーだよお…
「えっ?そもそもどうやって部屋に入ったかってー?あー、もしかして自分が不法侵入したとか思ってるんすかー!?ひっどいっすねー、そんなことするわけないじゃないっすかー。失礼しちゃうっすわー」
ヨツハは、ぷんすか、と口で言って、とわざとらしく怒ったような態度を作る。
「自分、帰国して真っ先にここに来たんすけど、その時たまたま音遠がちょっと外に出てたもんっすから、どうしようかなー、って困ってたんすよー。そしたらそれを見た音遠の弟君が、『せっかく来たんだから部屋で待ってて下さい!』って言ってくれてー、速攻で入れてくれたんすよー」オーバーな身振り手振りで、音遠の弟、火刈のマネをする。「まーその後、音遠が帰ってきたときにベッドの下に隠れたのは自分のアドリブっすけどねー。いやーなんにせよ弟君さまさまっすよー」
「あのエロガキ、後でぶっ殺す…」
音遠は物騒なことを口走りながら、こぶしを握り締めた。
いまだ驚きと怒りと恥ずかしさの入り混じる興奮状態の音遠をしりめに、へらへらと笑っているヨツハ。だが突然、思い立ったかのようにまっすぐ音遠の方を向いて、彼女はうるうると目を潤ませた。
「……音遠、貴女……やっと自分の気持ちに正直になれたんすね…。おめでとう…」
音遠は忌々しそうに下唇を噛む。そして、ヨツハとは目を合わせずにぶっきらぼうに言った。
「……ああ、さっきの聞いてたんだっけ………で?…だから何?」
ヨツハはそれには答えずに懐から携帯を取り出す。そして、なれない手つきでそのタッチパネルを操作した。
「…ええっとー、今は二時……ってことはー、第一部はもう始まっちゃってるっすねー……。あー、でもでも第二部があるっすからー、まだまだ間に合うと思うっすー。ってことでー……」ヨツハは携帯の画面を音遠に見せる。その画面には、全面に引き延ばした地図アプリが表示されており、その地図上のある一点に矢印のようなアイコンが表示されていた。「澪湖ちんとかなたちんは、今はこのショッピングモールにいるっすー!だから、音遠……」
ヨツハが台詞を言い終わる前に、音遠は携帯の画面を視界の外にどけてしまう。
「そんなの今更、わたしに関係ないし」ヨツハは苦い表情になる。音遠は続ける。「だってミオちゃんは、かなたちゃんのことが……」
「……んんー……、まだ『そこ』っすかー」大きなため息をつくヨツハ。「自分てっきり、音遠はとっくに覚悟を決めたのかとー……」
困ったように顔をしかめて、ヨツハは頭をかいた。音遠とは目を合わせずに、無言で自分の髪をくるくるともてあそんで、居心地の悪さをアピールする。
二人の間に微妙な空気が流れた。
そんな空気に耐えかねたのか、しばらくして、まるで悪いことをして怒られている子供がいいわけをするように音遠がぼそぼそとつぶやき始めた。
「……ミオちゃんがわたしを頼ってきてくれたんだもん…。かなたちゃんを励ましたいから手伝ってくれって……わたしに頼ってくれたんだもん…………そんなの、初めてだったんだもん………ミオちゃんのお手伝いができるなら………わたしは別に……」
「本音は?」
首を傾げて聞くヨツハを、音遠は無視する。
「……ミオちゃんはかなたちゃんのことが好きで……わたしの気持ちにはまだ気づいてなくて……だったらわたしが手を引けば、全部がちゃんと……綺麗に…」
「で、音遠の本音は?」
ヨツハは追及を続ける。音遠はぎゅうっと目を瞑って、右手で痛いくらいにがっしりと自分の左腕を握りしめた。
「…わたしの本音なんて、全然意味なくて、関係ないのっ!だってわたしはっ!」
目を見開いて、ギンっ、と音遠はヨツハをにらみつけ……。
……ようとしたが、それはかなわなかった。開けた目の前には、くちびるを突き出した、近すぎるヨツハの顔があったからだ。
「のわぁぁあーっ!」
驚いてベッドの上まで退く音遠。ヨツハは悔しそうに、突き出したくちびるを小さく鳴らした。
「な、な、なあんなのおー!?」
「えっ?だって、音遠は澪湖ちんのことあきらめるんすよね?だったら自分がもらってもいいんすよね?自分実は音遠のことずっと狙ってたんすよー……」
音遠はぎりぎり接触していなかったくちびるを右手でガードしながら、左手を振り回して叫んだ。
「う、うそつくなあー!だ、だって、ヨツハちゃんは百梨ちゃんでしょおー!適当なこといわないでよおー!」
そんなつもりはなかったのに、感情の高ぶりを抑えることが出来ない音遠。
「ヨツハちゃんのバカあっ!もうどっかいってよおぉー」
ゆっくりと歩み寄ってくるヨツハを、まるでゾンビ映画の登場人物のように、手で払ったり、クッションを投げつけたりして追い払おうとする。
だがついに、ヨツハの手が音遠の肩をつかんでしまった。ヨツハはそのままちょっと頬を赤らめ、気まずそうにつぶやいた。
「そうっすよ…。自分の一番はいつだってお嬢様っす。お嬢様だけを愛していて、お嬢様のためならなんだって出来る……」
でも…。
ヨツハは言葉に少し詰まって、「はぁー」と深呼吸をする。
「でも…、お嬢様には全然その気はないんす…。あの人は自分らの気持ちなんて知らないし、自分たちを特別視したりなんかしない。まして『女の子同士』なんて、想像したことすらない………はじめっから、自分たちには希望がないんすよ……」
音遠はなんて言っていいのかわからない。ヨツハは淡々と続けた。
「でも音遠、貴女は違う。貴女の想い人は、貴女に優しくしてくれて、励ましてくれたんでしょう?しかも、女の子が好きだって言ってたんでしょう?それってすごいことじゃあないんすか?そんなことって、そうそうあることじゃあないんじゃないんすか…?」
「……もう終わったんだよ……。全部、全部もう終わっちゃったんだよ……」
投げやりな言葉。ヨツハはむっとした顔を作って、音遠に詰め寄る。
「……何が終わりました?音遠、教えてほしいっす。一体何が終わったのですか?」
「だって……ミオちゃんは、かなたちゃんのことが好きで……わたしはそれを手伝った……それってもう……、終わってるってことじゃん……わたしはもう、ミオちゃんとかなたちゃんの手伝いをするって決めたから……、それが一番いいってわかってるから…………っ!」
ヨツハは音遠をどん、と押してベッドに押し倒すと、音遠の体の両脇に手を置いて、お互いの顔と体をくっつくすれすれまで近づけた。
「音遠のくせに、ずいぶん愚かしいことを言うんすね……。自分、音遠はもう少し頭のいい子だと思ってたっすよ……?」
音遠は反論することができない。
「そうだよ……わたしはバカだよ……、でも…やっと自分のするべきことに気づいた……」
「音遠……」音遠の上になって、パジャマのウサギ耳をふわふわと揺らすヨツハ。あまりに至近距離なために、喋るたびに生暖かい吐息が音遠の顔にかかる。「昨日仲を取り持った関係を、今日ぶち壊しちゃいけないなんて法は、どこにもないんすよ……?」
音遠は同意することもできない。
「貴女はまだ、自分の本心を澪湖ちんに伝えていない。そんな消化不良の状態じゃ、物語は終わらない…、終われない。それでも勝手に自己完結しようしてるとしたら……それってもう傲慢っすよ…?」
「だ、だってミオちゃんにとっては……それが一番………」
顔を背けてヨツハを拒否する音遠。ヨツハはそれを気にしない。
「……『音遠ちゃんのお手伝いのおかげで、澪湖ちゃんとかなたちゃんは結ばれました。めでたし、めでたし』………なんですか、それ?」
ヨツハはからかうような顔を作り、人差し指と親指で音遠の両頬を挟みながら言う。
「いいすか音遠?『ハッピーエンド』なんてのは、『物語の主役同士が一番幸せになるルート』、っていう意味しかないんすよ?それが唯一最良でも、最善のルートってわけでもない。貴女が物語の主役でないと分かっているなら、端役だってわかっているなら、貴女にとってそんなものは、どうでもいいバッドエンドの一つでしかない。そんなもん、笑顔でぶっ壊してやるくらいじゃなくてどうするんすか?」
「そ、そんな……」
「……言ってみたらどうっすか?澪湖ちんに、貴女の気持ちを伝えてみたらどうっすか?自分は…、そう悪い選択肢じゃあないと思うんすけどねー?」
「そ、そんなこと言ったって……」
ヨツハは指を離して、自分の右頬を、音遠の右頬に押し当てる。そして、彼女の右耳に息を吹きかけるように言う。
「自分、言ったっすよね……?音遠に言ったっすよね…?『貴女と自分たちは同じような恋をしている』、って言ったっすよね?………だから、貴女の幸せは自分たちの幸せなんす……。貴女の恋は、自分たちの恋も同じなんす……。貴女が恋を諦めなきゃいけない世界なら、自分たちの恋だって叶いっこないんすから……」
「わ、わたし……わたしどうしたら……」
音遠は迷っていた。自分はどうしたらいいのか。自分の気持ちを押し付けて、それで大好きな人を傷つけてしまうのが怖かった。でも…
でもわかっていた。
どんなに理屈を並べても、結局、自分はきっとそれを諦めることなんて出来ないということが……。かつての恋人だって、一人ではきっと忘れることは出来なかった。澪湖がいなければ、きっと自分は今でも諦めたつもりの過去に囚われて、そこからはい出ることなんて出来ていない。
ナナちゃんのこと…、ミオちゃんが忘れさせてくれた。…じゃあミオちゃんのことは誰に忘れさせてもらうつもりなの?
いい加減にしろよわたし……。どうせ忘れられないんなら、どうせこれから一生苦しむんなら…。いっそ……。
徐々に輝きを取り戻していく音遠の目。ヨツハはそれを見て、本当にうれしい気分になった。
「音遠、貴女がこれからどうすべきなのか?それは貴女が決めることっすよー。貴女の人生は、貴女のためだけにあるんすからー」
ヨツハは「ふふーん…」と笑った。
「とはいえ…、優しすぎる貴女の、優しすぎる優しさが貴女の目を曇らせて、誰の目にも明白な事実を見えなくしてはいけないと思ったから、自分は今ここにいるんす…。だからもう一言だけ、おせっかいとはわかっていながら、人生の一年先輩として、あと一言だけ言わせてもらうっす…」
ヨツハは、これ以上何を言っても、もう彼女にとって蛇足であるということがわかっていた。
きっと音遠はもう大丈夫、一人でうまくやる。もしこれ以上自分ができることがあるとするなら、既に決定している彼女の決断を、少しだけ早めてあげることくらいだ、と。
「貴女の本心は、もう決まってるっす。さっき言ってたっすもんね?自分、ばっちり盗み聞きしちゃったっすもんね?」得意げに、自分の耳を指さすヨツハ。「それに、自分がこれからやらなきゃいけないこともわかってる」そう言って、再び携帯の画面を見せる。「……つまり、『自分がどうなりたいか』と、『そのためにはどうすればよいのか』ってことが、もうわかってるんすよ?」
ヨツハは音遠の目をしっかりと見つめる。
「『目的地』と、『そこへ行くための道筋』がわかっていて、あとやることって言ったら、もう決まってるっす。それは、大昔から続くたった一つの方法……」
一呼吸おいてから、ヨツハはにっこりと優しい笑顔で言った。
「走りなさい」
音遠は大きく目を見開いた。そのとき、目の前でほほ笑むヨツハから、まるで聖母がわが子を抱え込むような穏やかなぬくもりを感じた。
「全力で、細かいことなんか放っておいて、なりふり構わず『目的地』に向かって走りなさいよ、音遠……。それが、それだけが、貴女が今選ぶことができる最善の選択肢なんすから…」
そこから先は早かった。
音遠はすばやく立ち上がり、クローゼットからコートを掴み取ると、部屋の出口に向かって走り出した。その様子を、ヨツハはベッドに腰掛けて嬉しそうに眺めていた。
ドアを開け、今にも部屋を出ていこうとする直前で、音遠は振り返って勢いよく頭を下げた。
「ヨツハちゃんっ!ありがとおっ!」
「ふふーん……。これは貸しっすよー?後でちゃーんと返してもらうっすからー」
そういいながら、笑って手をふるヨツハ。音遠は「うんっ!」と威勢よく返事をして、部屋を出ていった。
数段抜かしで階段を駆け下りていく音。その音が段々遠ざかっていって、やがて完全に聞こえなくなる。そして直後、力いっぱい玄関のドアを開け閉めする音を聞いてから、ヨツハはベッドに横たわってふうーっと大きくため息をついた。
「…貴女なら出来るっすよ。自分、信じてますから……」
ポケットから携帯を取り出し、片手ですばやく操作して海外行航空券の予約サイトを開いた。
「まだ間に合うかなー……イクちんとお嬢様は、今頃南の国なんすよねー………これでお嬢様の水着姿見逃したりしたら……ううぅ…そんなことになったら、代償は体で払わせるっすよー、音遠」
音遠のベッドに横になりながら、ヨツハは一人笑っていた。




