06
ナナちゃんが好き。
それ以外は全部嫌い。
音遠は薄暗い部屋に一人きりで、ベッドの上に横たわっていた。
――…わたしはうるさいやつが嫌い。無意味に笑ってるやつも嫌い。子供っぽいやつが嫌い。わたしの一人の時間を邪魔するやつが嫌い。一人になれないやつが嫌い。群れるやつが嫌い。一人じゃ何も出来ないくせに、群れると強気になるやつが嫌い。強引に人を巻き込もうとするやつが嫌い――
彼女の頭の中に浮かんでくるのは、嫌悪感のみだ。
――…自分勝手なやつが嫌い。本当は何とも思って無いのに、心配してる振りして近づいて来るやつが嫌い。味方の振りするやつが嫌い。そのくせすぐに裏切るやつが嫌い。他人の気持ち考えられない想像力のないやつが嫌い。頭の悪いやつが嫌い。バカなやつが嫌い――
それは初めは、『世界』に向けての嫌悪だった。
――…下らないことしか言わないやつが嫌い。下らないことしか考えられないやつが嫌い。下らないことを下らないって気づけないやつが嫌い。下らないことをわたしにまで押し付けて来るやつが嫌い。押し付けて、いい気になって、調子に乗るやつが嫌い――
音遠を取り囲む、外の世界に向けての嫌悪だった。
――…自分のこと好きなやつが嫌い。自分の意見が正しいと思ってるやつが嫌い。人の話を聞かないやつが嫌い。わたしの話を聞かないやつが嫌い。わたしの言ってることを理解出来ないやつが嫌い。わたしの本心を理解出来ないやつが嫌い。上辺だけなぞって分かったふりするやつが嫌い。わたしの嘘にすぐ騙されるやつが嫌い。騙されてるくせにわたしの思い通りに動かないやつが嫌い。そもそもわたしに嘘をつかせるやつが嫌い――
だがその対象は、いつの間にかある特定の一人に向けられるようになっていた。
――…人の努力台無しにするやつが嫌い。嫌がらせしてるのに気付かないやつが嫌い。嫌がらせを嫌だって思わないやつが嫌い。嫌がらせを嫌だって思って、自分のしたことを反省しないやつが嫌い。反省して、後悔して、わたしのことを嫌いにならないやつが嫌い。わたしのことを嫌いになって、わたしに罰を与えてくれないやつが嫌い。わたしに罰を与えて、ナナちゃんが悪くなかったって思わせてくれないやつが嫌い。罰を与えないのにわたしのことを、放っておいてくれないやつが嫌い…――
――だから…伊美澪湖が嫌い――
いや、彼女が抱く嫌悪心は初めから、澪湖にのみ向けられていたのかもしれない。
――初対面から馴れ馴れしい伊美澪湖が嫌い。人のこと勝手に友達扱いしてくる伊美澪湖が嫌い。ナナちゃんの代わりになんてなれるわけないのに、無責任に励ましてくる伊美澪湖が嫌い。どんなに突き放しても、どんなに気持ち悪くしても、懲りずにうっとおしく絡んでくる伊美澪湖が嫌い。頼んでもいないのに、変な気を遣ってくる伊美澪湖が嫌い。 ……わたしの気持ちも知らないで、いつも笑ってる伊美澪湖が嫌い……――
音遠の頭に、屈託なく笑う澪湖の顔が浮かぶ。その顔のことを考えると音遠の心は平常心を保っていられないくらい苛立ち、胸が焼けるような気分になる。
っ……あいつのことなんてどうでもいいの……。
わたしはナナちゃんが好き…。ナナちゃんは………。
音遠はベッドカバーと同じ蜘蛛の巣柄の枕に自分の頭を強く押し付けて、考えを切り替えようとした。だが、続々と湧いてくる嫌悪感の洪水が、頭の中を覆い尽くしてしまう。
――……意地汚なくて、バカで、下品で、幼稚で、単純で、趣味悪くて、痛くて、気持ち悪くて、汚くて、身勝手で、自分勝手で、わがままで、調子よくて……――
違う…!そんなのどうでもいいっ!わたしはナナちゃんが……。
――……バカで、頑固で、飽きっぽくて、センス悪くて、勉強できなくて、運動音痴で、貧相で、ガキで、物覚え悪くて、女らしくなくて、うるさくて、みじめで、強引で、貧乏くさくて、邪魔くさくて……――
ナナちゃんの………ナナちゃんは………。
……なんで……どうしてなの……。
――……がさつで、バカで、恥知らずで、不細工で、不恰好で、変な顔で、みっともなくて、遠慮知らずで、厚かましくて、世間知らずで、バカで、理解力なくて、話しが合わなくて、常識知らずで、手の指太くて………バカで……――
どうして……。
わたしは、ナナちゃんのこと………今でも好きで……ずっと好きで…………好きなはず……なのに………どうして……?
全然…、思い出せない……。
音遠は愕然とした。
いつも想っていたはずの、自分のかつての恋人。自分は誰よりも彼女のことを考えていて、誰よりも彼女のことを理解している、…そう思っていた。
しかしそんなに傾倒していた彼女の記憶がいつの間にか薄まり、あいまいになってしまっていた。
ナナちゃんは……、ナナちゃんは切り揃えた前髪が可愛くって……違う…、ナナちゃんはいつも真ん中分けだった……わたしいつもマネしてたじゃん……。
あ、ナナちゃんのカバンには、いつもピンクのクマのぬいぐるみがついてて……ううん、そんなわけない。ナナちゃんは可愛いものが嫌いだったし……ピンクのクマはナナちゃんのお姉さんの方だ………って…何言ってんの………ナナちゃん前に一人っ子だって言ってたじゃん……………確か。
音遠は中学に入学してからずっと、澪湖に嫌がらせを続けてきた。かつての恋人の尊厳を守るため。そして、何も知らずに自分に付きまとい続ける澪湖に、その恋人の苦痛を思い知らせるため。
どうすれば澪湖が嫌がるか、どうすれば澪湖が自分の偽の好意に気づいて気持ち悪い思いをするか。それだけを考えて生きてきたのだ。
それは、音遠の頭の中の大きな部分を占めており、すでに生きる意味にも等しいくらいに重要になっていた。
あいつの嫌なところなら、いくらだって思いつくのに…。あいつの悪口なら、いつまでだって言ってられるのに……。
どうして…ナナちゃんのことが、全然…、全然思い出せない…。
音遠は、ずっと不思議に思っていた。
小学校卒業と同時に、当時の自分にとっての全てだった恋を、失った彼女。
彼女は自暴自棄となり、ただ寝て起きて呼吸をするだけの、魂の抜け殻となった。
何を見ても何も感じないし、楽しいことなんて何もない。何物も彼女の心には響かず、彼女の目には、世界は全てが無色で、無意味で、無駄なものとして映った。
わたし…、いつの間にか…、気づいたら、あいつのことばっかになってた……。あいつを苦しめて、あいつに嫌われて、あいつを遠ざけるにはどうすればいいか、そればっか考えてた……。
だが、澪湖を好きだという演技をしているときだけ、音遠はその虚無感を忘れることができていた。全てを忘れて、夢中になることができていた。できてしまっていた
ずっと不思議だった…。
面白いわけないはずなのに…、ナナちゃん以外は、全部が意味なくて、嫌いなはずだったのに………あいつが笑ってると…、あいつに合わせて笑顔を作っていると、本当に楽しいような気分になってきて…。
まるで、まるでわたし、あいつのことが本当に………。
うそ……、そんなわけないって…。
だってあんなやつ、ナナちゃんと比べたら全然……。
…あいつ何度言ってもすぐ爪噛むから、爪の形がいつもがたがたでいびつで…。高校生にもなって掃除もろくに出来ないから、部屋とかすごい汚くて…。センス悪いくせに、服とか変にこだわるから、隣にいるわたしが恥ずかしいくらい、いつもだっさい恰好して…。学習能力も記憶力もないから、わたしに同じ話何回もするし…、しかもそれが全部くだらなくって……。
「オンちゃん!見て見てっ!私、手が全部口に入っちゃうのっ!いくよ!?いくよっ!?せーのっ………は、はが…ふが……あっ、……あが…あがが…、はずれ………」
ふ…、ふふ…。
ホント、笑っちゃうくらい……くだらなくって……。
あはっ…、あはははは……。
音遠は笑っていた。気づいたら、心の底から笑っていた。
それはまるで、無垢な子供が春の花畑を駆け回るような、生きる喜びに満ちた笑顔。そこにあったのは、作り笑いなんかではもちろんなく、本音も建て前も関係ない、純粋に、ただただ愚直なまでにシンプルな感情だった。
はは……なあんだ……。
彼女の頬に、一筋の涙が流れる。
わたし…好きだったんだ。
ミオちゃんのこと…本当に好きに、なっちゃってたんだ。
なんで、…なんで今まで気づかなかったんだろう…。ずっとずっと、わたしの頭の中、こんなにミオちゃんでいっぱいだったのに…。
いつだって、ミオちゃんのことばっかり考えてるくらいだったのに…。
音遠の涙はボロボロと大粒になり、次から次へと溢れた。
…ミオちゃんが好き……ミオちゃんが好き……ミオちゃんが好き……ミオちゃんが好き……。
わたしなんかと友達になってくれる、ミオちゃんが好き。いつでも元気いっぱいで可愛いミオちゃんが好き。わたしのこと信じてくれて、信頼してくれるミオちゃんが好き。落ち込んでる人をみると放っておけないミオちゃんが好き。落ち込んでるわたしを元気づけようとしてくれるミオちゃんが好き。一生懸命わたしを笑わせようとしてくれる、ミオちゃんが好き。
見てるだけで幸せになる、ミオちゃんの笑顔が、大好き………。
音遠は目をつむったまま、うつむいていた顔をあげる。
彼女の瞼の裏には、澪湖の笑顔が浮かんでくる。
その笑顔は三年前から毎日変わらず音遠に注がれている、太陽のようなものだった。その笑顔を向けられている時、いつも音遠は暖かいそよ風に包まれているような幸せな気分になり、胸が熱くなるのを感じていた。それは、彼女の澪湖への愛情が本物であることを裏付ける、確固たる証拠だった。
ずっとずっと、わたしのこと励ましてくれてたんだよね…。ナナちゃんのことで落ち込んでたわたしのこと、励ましてくれてたんだよね…。わたしの嫌がらせなんてお構いなしで、わたしがナナちゃんのこと忘れられるように、わたしがちゃんと笑えるようにって……。
ありがとう…、ありがとうね…、ミオちゃん。だからわたし、好きなんだよ…。ミオちゃんのこと、ずっと好きだったんだよ…。
あまりにも純粋で、根源的で、それゆえに抗えない強い気持ち。
だから音遠がどんなに取り繕っても、嘘の感情で自分をだまそうとしても、そんなことには意味がなかった。彼女の心はいつも澪湖のことを考えていた。澪湖の笑顔を少しでも多く見ていたい、喜ばせたいと思ってしまっていた。自分では嫌がらせのために『あえて』やっているつもりだった全ての行為は、結局、心の奥の深い部分で眠っていた、音遠の本心に過ぎなかったのだった。
…………よかったあ。
音遠の閉じた瞳の中で笑っている澪湖。その隣には、今はかなたがいる。
本当に、よかったよ……。最後にミオちゃんのお手伝いができて。ミオちゃんが、かなたちゃんと一緒になれて…よかったよお……。
そうだよ…、好きな人が幸せになってくれたら、こんなにうれしいことってないよ…。かなたちゃんと一緒なら、幸せなんだよね?わたしといるより、ずっと幸せなんだよね?わたし、ミオちゃんのこと、大好きだから……。ミオちゃんのためなら……わたしは……。
「だぁいじょうぶだよぉー!どんなに辛いことあっても、美味しいもん食べて、ぐっすり眠ったら次の日にはすっかり元気になっちゃうってぇー!オンちゃんに昔何があったか知らんけどさ!きっとすぐに元気になるってぇー!」
ミオちゃん、前にそう言ってくれたよね…?
そうだよね……。辛いことは、いつか忘れられるんだよね…。ミオちゃんがナナちゃんのこと忘れさせてくれたみたいに……。
わたしは、ミオちゃんへの気持ちも忘れられるんだよね…?忘れなきゃ、なんだよね…。
バイバイ。今までありがとうね…ミオちゃん。
わたしの分まで、かなたちゃんと二人で仲良く……ね。
音遠は優しく、静かに笑った。
だが、その笑顔はすぐに崩れてしまった。
「…………ぉんなの…」ぎゅっ、と力強く顔を枕に押し付ける。「……そぉんなの、いやだよおおおぉ……」
音遠は、もはや抑えつけても止まらないくらいの勢いになった涙を流しながら、絞り出すような声をあげた。
「いやだよおおぉ……ミオちゃん……一緒にいたいよおおぉ………ミオぢゃあああん……」
えずくように、途切れ途切れに本心を吐露する音遠。
彼女の悲痛な嘆きだけが、薄暗い室内に静かにこだましていた。
「……ミオちゃあん………好きだよおおお………」




