02
それは四年前。
本前川音遠が中学に入学した春のことだった。
真新しい、少し大きめの制服に身を包んだまだ幼さの残る少年、少女たち。ぎこちなく学校の門をくぐるその姿はかわいらしくて、それでいて不恰好で滑稽、さながら七五三を髣髴とさせる。
その誰もが、気持ちの一割にこれからの中学校生活への期待、そして残り九割に緊張と不安を詰めながら、それでもそれを必死に押し隠して、教師や先輩たちに案内されて自分たちの教室に向かっていく。
急に、あたりに暖かい風が吹いた。
その風はハラリと桜の花びらを空に舞わせ、校庭にいた新一年生たちを桃色で包み込む。
あまりにも絵になる光景。
それはまるで、春という季節が、一つ一つ大人への階段を上っていく少年、少女たちを祝福してくれているよう。誰もがそれまで抱えていた不安を一時忘れ、自分のことを物語の主人公と錯覚して、浮かれてしまった。
たった一人、本前川音遠を除いては。
昨日までの小学校から、ただただ惰性で中学に上がってきただけ。そこには何の意味もなく、不安も期待も喜びもない。喜怒哀楽どれでもない、マネキン人形のようなのっぺりとした彼女の表情は、まるでそんなことを言っているようだった。
…はあ……。
息をするのさえ億劫そうに、音遠は掲示板に張り出された自分のクラスを確認し、無言でその場所へ向かう。途中、親切に話しかけてきた上級生の先輩を無視して通り過ぎ、顰蹙を買ったのにも気にしていない。
…めんどくさ……。
彼女は、この世の全てに失望していた。
この世の全てに失望して、失望しきってしまって、初めから望みを持つこともやめて、何かを期待することも、考えることもやめて、ただ生きているだけ。生きるためにする全てのことがめんどくさい。むしろ、死ぬのさえめんどくさい。
わたしの中の全部は、わたしを置いてもうどこかへ行っちゃったのかも…。
わたしが全部をささげた人が、いなくなっちゃったから…。
……
「えっ、そ、そんな…どうして…?わ、わたし何かやっちゃった、かな…?ナナちゃんに嫌われるようなこと……」
「え……だ、だってナナちゃんも……好きって…。わたしが好きって………女の子が好きって……。うそ……そ、そんな……」
「う、ううん…。違うよね。そ、そうだよね。それが普通だもんね…。わたしが…、わたしだけがおかしかったんだよね?ナナちゃんは、わたしに付き合ってくれただけで…」
「もおう!なあに言ってるのお!?わたし、言ったでしょお?付き合ってって言ったとき言ったでしょお?こんなの間違ってるって、そんなのわかってるって、言ったでしょお?」
「ちっがうよお!ナナちゃんが悪いんじゃないんだよお!女のくせに、女の子好きになっちゃった、わたしが悪いんだよお!」
「なあにい!?泣いてるのお?何でナナちゃんが謝るのお?もおう、やだなあ!」
「彼氏がいるなんてえ、いいことじゃなあーい!うれしいことじゃなあーい!?笑ってよお!ナナちゃんが笑ってくれると、わたしもうれしんだよお!ああー…良かったよおー…」
……
ごめんね…。
ナナちゃん、ごめんね。ずっと、気持ち悪かったよね?女の子同士なんて、嫌だったよね…?それを言い出せずに、わたしのこと、ずっと我慢してくれてたんだよね?わたしのこと傷つけないように、わたしに合わせてくれてたんだよね…?ごめんね…、ホントに、ごめんね…。
音遠は教室の自分の席にたどり着くと、机の上に突っ伏した。その時にはもう、彼女の意識は周囲で友人たちと談笑する同級生たちからははるか遠くに行ってしまっていた。
わたしはもう、誰のことも好きにならない。楽しいことなんて、もう何もない。だから、もう一生笑顔になることもない。
わたしはこれからずっと、ナナちゃんのいない人生を生きていくんだ。ナナちゃんがいないってことを、いやと言うほど思いしらされながら。
それがわたしの罰。ナナちゃんを傷つけた、わたしの罰なんだから…。
「隣の席しっつれぇしゃーっす。澪湖でぃーっす!よろしくぅー」
わたしはううんと不幸にならなきゃだめなんだ。ナナちゃんがその分幸せになれるように。
ナナちゃんはわたしのことを我慢して、今までわたしにいっぱい幸せをくれたんだから。今度はわたしがそれを返さなきゃ。わたしがこれからずっと我慢して、その分ナナちゃんが幸せになれるように願って…。
「あれ、寝ちゃってるのぉ?そうだよねぇー!どぉして春ってこんな眠いんかねぇー!?私も今日あんまり寝すぎたもんだから、お母さんが……」
本当は、わたしに生きている資格なんてないんだ。わたしなんかがいたから、ナナちゃんは気持ち悪い思いをして、傷ついて…。
「音……?おん?掲示板にあった名簿見てきたよ!名前あれなんて読むの?オンちゃん?もうオンちゃんでいいよね!?わたしミオちゃん!よろしくぅー」
ナナちゃんは今頃どうしてるかな?ごめんね。わたしは今でも、ううん…これからもずっとナナちゃんのこと好きだよ。でも安心して。この気持ちはもう誰にも見せないから。頭のずっとずうっと奥の方、一番後ろの本音の中にしまっておく。
…それでね、どきどきそれを思い出して苦しむの。それがわたしの罰。一生続く、ナナちゃんへの贖罪…。
「あ、オンちゃんちって、ケーキ屋やってたりしない?それかお寿司屋!私、ケーキ屋かお寿司屋の家の子と友達になるのが夢なんだぁー!そんで御飯の時間を狙ってその子の家に遊びに行くの!もうぎりっぎりまでお腹すかせてね!」
「……うっさいなあ」
音遠は舌打ちをしてから起き上がり、さっきから自分に話しかけ続けていた隣の席の少女をにらみつけた。そこで初めてお互いの顔を見た二人。隣の席の少女は、暑苦しいくらいだったそれまでの満面の笑顔を一層輝かせる。
「うわぁーお!オンちゃんってすっごい美人さんだったんだねぇー!かっわうぃー!小学校の時すっごいモテたでしょー!?」
「ケンカ売ってんの?……お前、どっか行けよ」
「え?行かないよ?だって私オンちゃんの隣の席だもぉーん。改めまして、おっはー!伊美澪湖でぃーっす!しくよろぉー」
その日一日中、澪湖は事あるごとに音遠に話しかけてきた。
「ねぃねぃ、オンちゃんってぇ、部活、何か入るぅ?私どうしよっかなぁ。料理クラブとかあったら入るんだけどなぁ。もち、試食係として!」
「あ、オンちゃんちって、携帯OKなんだ!?いいなぁー!うち高校までダメなんだってぇ。ちょっとそれいじらせてよぉー。ねぃねぃー、いいじゃあぁん。ちょっとだけぇ」
「時に、オンちゃんは何フォア派?私は断然フォアミューテックス!戦闘シーンとかやっぱミューテックスいないと始まんないもんね!しかもあのコスチューム!おへそとか出ててちょっとエロいんだよね!?ねっ?そう思わん!?うぷぷ…」
音遠は、そんな風にどうでもいいことを話し続ける澪湖を、完全に無視していた。
だが、とうとうその我慢も限界を迎える。
「ねぃねぃオンちゃんー?オンちゃんてさー、何でさっきからそんな悲しい顔してるのぉ?…えぇー?嘘だよぉー!絶対悲しんでるよぉー。だぁって私ぃー、そぉゆぅの、すぅーぐわかっちゃうんだからぁ!」
「どんな悩みか知らないけどさぁー、そぉーんな気にしなくていいと思うよぉー?私もちょっと変な病気ー…みたいのにかかってるんだけどぉ、全っ然何でもないもん」
「じゃあねぇ!今日から私、オンちゃん励まし係ね!?オンちゃんがぁ、ちゃぁんと笑えるようになるまでぇ、私いーっぱい応援しちゃうんだからぁ!」
…何言ってんの。
「よぉーしっ!じゃあさっそく、私の鉄板ネタやっちゃおっかなぁ!もう、特別だぞぉー?いっくよぉー、爆笑モノマネ百連発!まずは、小学校の国語の先生……」
あんたに何がわかんのよ…。
バカじゃないの……。
わたしの辛さ、…ううん、ナナちゃんの辛さが、あんたに分かるわけないじゃない…!
ふざけんな…。ナナちゃんがどれだけ辛い思いしたか…、わたしなんかに好きになられて、どれだけ気持ち悪かったか…。あんたに、あんたなんかに…。
…思い知らせてやる。ナナちゃんの辛さ、あんたに思い知らせてやる……。そんな、能天気の、バカ丸出しの、バカのくせに、わたしとナナちゃんを侮辱したこと、後悔させてやるんだから…!
「いみみみみおこぉ~、寝るな~」
「……あっははははは……」
「わ、わあぁー!やったあぁー!オンちゃんやっと笑ってくれたぁー!」顔をしかめて、音遠のまったく知らない誰かのマネをしていた澪湖は、ぴょんぴょんと飛び上がって音遠の笑顔を見れたことを喜んだ。「やっぱオンちゃんは笑顔が一番かわうぃーよぉー!」
「も、もおう!ミオちゃんってえ、すっごい面白いんだねえ!?ほんと笑っちゃうよお…」
「でしょぉー?このネタ受けなかったことないんだからぁ!」
音遠の本心には気づかず、得意げに胸を張る澪湖。音遠は上目づかいで体をモジモジとさせながら言った。
「……ミオちゃん実はわたしい、最近とっても悲しいことがあってえ……、それでつい機嫌悪くなっちゃってえ……」
「そぉなのー?でもさぁー、そんなの美味しぃもん食べたら一発だよぉー!あ、私の行きつけのお肉屋紹介してあげるよぉー!学校帰りに買い食いするあそこの出来たてコロッケすっごい美味しんだからぁー!ホント小学校時代は、お小遣いのほとんどあそこにつぎ込んじゃうくらいにはまっててさぁー!」
「じゃ、じゃあさあ、今度一緒に行こおよ、そこお。……そ、それで、その後ミオちゃんの家に寄っていいかなあ?……二人きりで、わたしの話聞いてくれるう?」
「モチのロンだよぉー!来い来いぃ!もう今日来ちゃいなよぉー」
「ほんとお!?ミオちゃんやっさしいー!だあーい好きー!」
澪湖に抱き付く音遠。澪湖の貧相な体に顔が隠れてから、音遠は作り笑いをやめた。
……は。
くっだらない。
せいぜいバカはバカらしく、今のうちに好きなだけバカなこと言ってれば?
どうせわたしがあんたに告白したら、ドン引きして、気持ち悪がるに決まってるんだから。
見ものだわ。散々ちょっかい出してきたあんたが、急に手のひら返してわたしを避けるようになるのが…。
……これでいい。ナナちゃんのことを侮辱するやつには、いい気味だわ。
こうやって、これからのわたしはナナちゃんのことを守って生きていくんだ。ナナちゃんのことをバカにするやつに、ナナちゃんがどれだけ辛かったか思い知らせてやるんだ。
わたしのせいで、みんなから悪者みたい言われてたナナちゃん。でも、ナナちゃんはホントは悪くないんだから。悪いのは、好きになっちゃいけない人を好きになっちゃった、わたしなんだから。
だからわたしは、ナナちゃんがいなくなった今でも別の人を傷つけ続ける。
ホントは誰も好きになっちゃいけないのに、わたしはこれからもずっと、誰かに好きって言い続けるんだ…。
「もおう!わたしい、ホントにミオちゃんのこと大好きなんだからあー!」




