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……?
力強く扉を閉める音が、響いて………ない…。扉を閉めた音が、聞こえない?
「いたぁあい……も、もぉー!かなたってぇホント男の子みたぁーい、すっごい力持ちなんだからぁー……えへへぇ……へへ…」
「お、お前っ!何してるんだよっ!」
あたしが閉めた扉と枠の間に、澪湖の足が挟まっていた。あたしが扉を閉める直前に、彼女は扉に駆け寄って足を差し込んでいたんだ。そんなことになるなんて考えてもいなかったので、あたしは本当に目いっぱいの力で遠慮なく扉を閉めてしまっていたのに…。
「ご、ごめん…ちょ、ちょっと座らせて?」
澪湖は顔を歪めて、目には涙を浮かべている。あたしが扉を開くと、その場にしゃがみこんで、挟まった足を靴の上から必死にさすり始めた。
「うわぁー…どんどん痛くなってくるぅ、どんどん痛くなってくるよぉ……これ出産ー?私何か産んじゃうのぉ……?」
靴も脱がずに玄関に立ち尽くして、澪湖のことを見下ろしているあたし。そのときのあたしは、彼女の行為の意味が全然理解できず、ただただ恐怖を感じていた。
「お、お前なんなんだよ……!?な、何してるんだよ……」
「ほ、ほらぁ?私とかなたの子供だよぉ…?」
そんなことをいって、あたしに自分の足を見せる澪湖。あたしは彼女に何を言えばいいのかわからなくて、混乱してしまって、もう自分でも何を言っているのかわからないことを叫んでいた。
「どうして、あたしに付きまとうんだよ!もう帰れっていってるだろうがっ!」
澪湖はゆっくり立ち上がる。そして、あたしのことを優しく見上げた。
「かなたが……悲しんでるからだよ」
その顔を見たとき、あたしは無意識に昔のことを思い出してしまった。ずっと昔、まだ四人が一緒に暮らしていたときの、よく笑っていた母さんの顔を思い出してしまった。
「好きな子が悲しんでるのなんて私……やだもん……。好きな子には、いつも笑っててほしんだもんっ!」
澪湖はあたしの体に両腕を回して、体当たりでもするようにあたしに抱きついた。
「かなたはどうしていつも悲しんでいるの?どうしていつも泣いているの?私……やだよぉ………かなたが泣いてるのなんて、私、耐えられないよぉ……」
あたしは澪湖の言葉の意味がわからない。
「はは、ど、どうした澪湖。頭もぶつけてたのか?一体いつあたしが、お前の前で泣いたって………」
「毎朝…だよぉ……」
「……え…?」
最初、聞き間違えたのかと思った。
「毎朝、通学路で会うときのかなたは、……どうしてあんなに悲しそうな顔をしているの?どうして泣きそうな顔で笑ってるの?私、毎朝かなたに会うたびに、そんなかなたの顔を見て、すっごいつらかったんだからぁ……」
「そ、そんなわけ……」
そんなわけない。そんなはずが無い。あたしはずっと父さんのこと、あたしの家庭の事情を隠してきたんだから。父さんがあたしのためにどんなに辛そうでも…、あたしがそれを見ていることしかできない無力な子供だって思い知らされていても…。そんな風になっちゃったことを、そんな風にした父さんのことを、本当は嫌だって思ってる自分に気づいてしまったときも……。
あたしはそれを学校に持ち込んだりはしなかった。誰にも相談しないで、ちゃんと一人で背負ってきたはずだったんだから…。
澪湖はあたしを見上げて、いたずらっぽく微笑んだ。
「自分で気づいている?かなたって……、考えてることがすぐ顔にでちゃうタイプだってこと……。んふふ……私、かなたくらい気持ちが顔に出る人、はじめて見たよ…。かなたはどんなに楽しいときでも、どんなにうれしいことがあっても、いつだって、いつだってどっかさびしい表情だったよ…心の奥の方で、ずっとずっと悲しんでるみたいだったんだよ……」
笑っていたはずの澪湖の左目から、一滴の雫がこぼれ落ちる。
「私が馬鹿やって、かなたがどれだけ怒ってても、どれだけ笑ってくれてても、かなたの心は、どっかで全然違うことを考えてて、悲しい顔になって………私、それ…ずっと嫌だった……私の知らないことで、かなたが悲しんでるなんて……かなたの辛さを、私も背負ってあげられないなんて……そんなの、やだ…ったんだよぉ……」
そ、そんな……あたし……、そんな風に……。
澪湖の涙は、あふれるように流れる。鼻水も垂れている。
「かなた、『あいつ』のごとが好ぎ……なの?だったら私、ずっど『あいつ』のままでいるがら……、かなたが喜んでぐれるなら、……かなたに好ぎになってもらえるなら……私………『あいつ』になる………澪湖なんていなくなるがら………だがらかなた……笑って……お願い、笑って……」
醜いくらいに顔をゆがませて、それでもあたしに笑いかける澪湖。あたしは、そんな澪湖を見ていることが出来なかった。
ごめん……、澪湖。そんな風に思ってくれてたなんて……ごめん。
あたし、全然気づかなかった。……全部自分ひとりで抱え込んでるつもりで、辛いのはあたしだけなんて、勘違いしてて…ごめん。
澪湖の顔は、醜くて、笑っちゃうくらいにびしょびしょで、きったなくって、……それでいて、あたしの全部を飲み込んでも足りないくらいに底なしに、優しかった。あたしには、そんな彼女の顔を見る資格なんてなかった。そんな彼女に見つめてもらえる資格なんてなかった。優しくされる資格なんて、好きになってもらう資格なんて………なかった。
だからあたしは、その澪湖の顔を見なくてすむように、澪湖を思いっきり抱きしめた。
「そんなのだめだ…澪湖。だめだよ、いなくなるなよ。だって、だって…嘘なんだから……。『よお子さんが好き』なんて、ホントは嘘なんだから…」ほんの出来心で始めたくだらない遊びを、今のあたしは強く後悔していた。「よお子さんが、いつも父さんと同じような寂しそうな顔をするものだから、好きとか言って、甘えたりして、遊んでいただけなんだ…。嘘なんだ…、冗談だったんだよ。あたしは本当は、澪湖にもいてほしい。澪湖に、そばにいてほしいんだ。いなくなったりするな、ずっとそばにいてくれ澪湖……。あたしのそばで、また馬鹿やってくれ……」
澪湖はあたしの胸に顔をこすりつけ、そのままくぐもった声でつぶやいた。
「うれしい……かなた……うれしいよ……かなたぁ………、ねえ…かなたぁ…」あたしを抱きしめる澪湖の手が力を増した。「好き……好きなの……」
「かなたは、いつもすっごいかっこよくて強くて、頼りになって…みんなのことを守ってくれて……でも、すっごいか弱くて、いつも泣いてて、守ってあげたくなっちゃう……私の王子様で、お姫様なんだよ……そんな、そんなかなたが、……わたし…大好き……大好きなのぉ……」
澪湖はあたしから離れた。その顔の水分は、すべてあたしの服が吸収してくれたみたいだ。にっこりと笑うその顔は、今まであたしが見た澪湖の中で、一番かわいらしかった。
「かなたぁ……教えて…?…どう思ってるのぉ?かなたは…私のことを、どう思ってるの?教えて…?」
「……さ、寒くないか?これはクリスマスプレゼントだよ」
あたしは自分の首に巻いたマフラーを、澪湖に巻きつけた。彼女は悲痛の表情で、搾り出すような声で抵抗した。
「……ごまかさないでよぉ…」
「…私、かなたと付き合いたいの……。恋人になりたいの……。お願い、かなた…お願ぁい…」
あたしは、彼女に何も答えることが出来なかった。
澪湖はずっとこちらを見ている。
あたしは、今までずっと澪湖を傷つけてきた。澪湖に借りを作ってきた。その上、さらに彼女を傷つけることなんて出来ない。なんて答えればいい?どうすればいい?あたしは、澪湖のこと……。
向き合った澪湖の頭の向こう。あけたままだった部屋の扉の向こうに、きらきらと輝くLEDの光が見えた。そこは、あたしのアパートの向かい、このアパートの管理人が住んでいる一軒屋だ。冷たい青と白の光が家全体を覆っていて、数秒感覚で点滅を繰り返している。どこにでもある光景、普段ならまったく気にしない、情緒も遠慮もない輝き。
だが、あたしがぼうっとその輝きを見ていると、それが次第にぼやけてきた。乾いていない水彩絵の具の着色に、ぽとりと水をたらしたような、ぼんやりとした揺らぎ。しかもその光は次第に数を増していく。いくつも、いくつも、いくつも、部屋の外を覆いつくすような、光の増殖。まるで、光がそのまま落ちてくるような……。
雪だ。
光が雪に反射しているんだ……。
その様子は神秘的で、とても……とても……。
「……綺麗だ」
あたしは思わずそうつぶやいていた。
「……!……うれしい!」
澪湖はあたしに飛びついてきた。あたしの体が揺らぐ。あたしの視界も揺らぐ。
「ありがとう、かなた!うれしい。…うれしいよ……かなたもすごい綺麗だよ…カッコいいよ…大好きだよ…」
赤みを帯び、うっとりとあたしを見る澪湖の顔。彼女は静かに目を瞑り、あごを上に上げて、口を突き出すような姿勢になった。
大粒の雪が、しんしんと…というより、ぼとぼとと降り続いている。天気予報はなんと言っていたかしらないが、この調子なら間違いなく積もるだろう。明日は一面が白一色になる。
このアパートも、前を通る道路も、駐車場に止めてあるセダンにも、向かいの管理人の家にも。
あたしの父さんへの思いやりと憎しみも、父さんのあたしへの思いやりと憎しみも、澪湖のあたしへの思いも、音遠の澪湖への思いも、みんな、みんな、ぐちゃぐちゃになってわけわからなくなった何もかも…。
雪はすべてを優しく覆いつくして、真っ白なベールのように見たくないものを隠してくれるだろう。
だからあたしは、冬という季節が一番好きなんだ。
あたしは背中を丸め、澪湖の唇に優しくキスをした。




