01
遠くで、うっすらと聞こえる電子音のメロディ…。
どこか、聞き覚えのある音だ。
美河徹弥は、体を横にしたまま、まだ眠気が覚めない頭をすばやく二回振る。「ふぅー…」
それで、布団の中の怠惰で幸福な死の世界から、苦痛に満ちた生の世界へと、自分を強引に引き戻す。
「もう、朝か……」
全然眠った気がしない。4畳半の和室に取り付けられた、シンプルなデザインの時計を見る。時間は八時少し前。即座に睡眠時間を計算するのが、もうくせになってしまっている。
「四時間……。充分だな……」
徹弥が帰ってきたのは今朝の四時。かなたを起こさないように細心の注意を払って布団にもぐりこみ、そのまますぐに意識を失ってしまった。今日のコンビニのレジ打ちのバイトは十時開始なので、本当ならもう少しだけ寝ていられる。だが、徹弥はおきることにした。
ここしばらく、カナちゃんとまともに顔も合わせていないしな…。
布団から這い出て、部屋のカーテンを開ける。さっきの電子音は、目覚まし時計ではない。アパートの前のごみ収集所に到着した、回収車が流していた音楽だったようだ。目覚ましだったらもっと大きな、無遠慮なベル音のはずだし、そもそも鳴る時間ももっと後、かなたが学校にいった後にセットしているはずだった。
自室のドアを開けると、まだ家の中が真っ暗なのに少し驚いた。「あれ……」今日は休日だっただろうか?自分が曜日とは無縁の生活を送っているために、徹弥はすぐにはその答えを出すことができない。廊下を歩き、キッチンに入る。TVをつけ、ニュース番組に映る日付を確認する。そしてその日付を、壁にかけられたカレンダーと付き合わせる。十二月十五日、月曜日、文字も黒い。
いや、そもそもカナちゃんは休日でも寝過したりはしないだろ。毎日、朝早くにおきて、僕のために朝食と弁当を作ってくれているんだし。
もしかして、もう学校に行ったのだろうか?それとも、まさか事故にでもあって、昨日家に帰ってきていないのか?徹弥は少し心配になって、かなたの部屋の扉に手をかけた。
馬鹿な…。何をしているんだ僕は。年頃の娘の部屋に勝手に入るなんて、だめな父親の典型じゃないか。玄関に彼女の靴はあった。きっと、カナちゃんはまだ眠っているんだろう。いいじゃないか。うん、たまにはギリギリまで寝かしておいてやろう。
思い返した徹弥は、冷蔵庫の扉を開けて中を確認した。いつもなら、そこにはかなたの作った料理が入っているはずなのだが、今日は、それらしきものはない。
たまには僕が作るか…。
いや、そもそも本当は毎日僕が作らなくちゃいけないはずだったんだ。転校のときにカナちゃんとした約束では、『これからは家事は僕が全部やる。新しい高校では、カナちゃんは普通の女子高生をしてくれていればいいから』となっていたはずなのだから。結局、今までその約束を守ることなんて出来ずにいたのだけど……。
徹弥は冷蔵庫から卵を二つ取り出すと、油を引いたフライパンの上に落とした。一人暮らしのときは自炊もしていたし、まあ、簡単な料理くらいならできるだろう。
卵の焼ける音を聞きながら、徹弥は無意識にまたかなたの部屋の扉を見てしまう。
カナちゃん。
君はどうして僕なんかと一緒にいるの。どうして、みんなと一緒に行かなかったの……。
僕を励ましてくれているの?守ってくれているの?
今の僕に、そんな資格はないよ。君には、もっと自分の幸せに目を向けてほしい。僕は、君の邪魔をしたくないよ……。
徹弥はまたカレンダーを見る。バイトの出勤日を忘れないように、そして、かなたに自分の出勤日がわかるように、徹弥はカレンダーに印をつけている。基本的には、毎日休みなく何かしらのマークがついているのだが、今月二十四日から年末年始にかけて職場が特別シフトになる関係で、今のところ出勤の予定はない。ふと、二十四日の日付のところに、紫のペンで書かれた覚えのない星のマークがついていることに気づいた。
クリスマスに、何か予定があるのかな。恋人とデートかな。……高校生だもの、当然か。
徹弥は微笑む。
僕には、カナちゃんの恋愛に口をだす権利なんてない。カナちゃんの方が、よっぽどしっかりしてるしね……母さんに似て。
「と、父さん、何やってるの……!」
徹弥はゆっくりと声のしたほうに振り向いた。
「…ああ、カナちゃんおはよう。今日は僕の方が早かったね。たまには僕の料理でも……」
「フライパン!焦げてる!」
慌てて駆け寄ってくるかなた。何のことを言われていたのかかわからずに「へ…?」と呆けている徹弥の横をすり抜け、彼女はすばやくコンロの火を消す。そして丸焦げになった二つの卵がのったフライパンをシンクに投げ、蛇口をひねった。
「あ……ああっ…!」
自分が卵二つを台無しにしてしまったことを理解し、忌々しそうに頭を振る徹弥。かなたはなんて言葉をかけていいかわからずに、勢いよく蛇口から出てくる水が、卵の形をした黒ずみを洗い流していくのを、ただ見つめていた。
「ごめん……カナちゃん……僕、本当にだめだな……」
「父さん……」かなたはうつむいている。徹弥は大きなため息をつきながら、また冷蔵庫をあけた。
「…学校いくまであんまり時間ないよね?適当に何か用意するからさ、顔洗ってきなよ。今度は、ちゃんとやるから……」
蛇口の水を止めたかなたは、徹弥の手を優しくとって、ゆっくりと首を振った。
「半額弁当を昨日たくさん買ってさ、冷凍してあるんだ。申し訳ないんだけど手抜きしてさ、今日はそれで……」
悲しそうに徹弥は笑う。そして、力なく冷蔵庫の扉を閉めた。
「そっか………。はは、準備、してあったのか……。だから、いつもより遅かったのか……。そっか、そう…だよね。やっぱり、しっかりしてるな……」
「ごめん……」なぜか謝ってしまうかなた。「………あ、あの…父さん」
「やっぱり…、僕はもうちょっと寝てようかな……」何か言いかけたかなたに気づかない振りをして、徹弥は自室に戻ってしまった。




