11 全部のあなたが大好きです』
「!?」
かなたはガシィッと荊に抱き付いた。荊は、予期せぬ事態に反応することが出来ない。
「許さない…許さないぞ、荊っ!もう二度と、勝手にあたしの前からいなくなるなんて、絶対に許さないからなっ!」
「な、何を…。お、おまっ…」
荊の体に頭を押し付けて、叫び続けるかなた。
荊は意味も分からず、そんなかなたに押し倒されそうになるのを何とか持ちこたえた。
「ど、どういうことだ…?カナが俺を許さなかったんだから…、最後の審判は下されたはず…。俺はもう、この世界から消えてるはずで…。な、なんでだ…、なんでまだ、ここにいるんだ…?」
「荊っ!もうどこにも行くなっ!あたしはもう、お前を放さないからっ!」
「ちょ、ちょっと待てっ!待てって…」
荊はそんなかなたを引きはがそうとするが、かなたは全力で荊に抱き付いている。その力が強すぎて、荊は呼吸困難になるかと思うほどだった。
「か、カナっ…!」
かなたからなんとか体を離した荊。すぐ近くにある、彼女の顔を見る。その顔は、目に涙を浮かべ、頬を紅潮させていた。
「荊…」
潤んだ目で荊を見上げているかなた。
今の荊は、女性にしては背が高いかなたと比べても、更に少し高い。今までずっとかなたの目を通して外の世界を見てきた荊にとって、上目遣いのかなたを見ることなんて初めてだった。
…いや、そのときの彼女の表情に限っていえば、見たことがある人間など存在しなかっただろう。そのくらい、そのときの彼女の顔は彼女らしくないものだった。
「荊…、あたしには、お前が必要なんだ…」
荊の腰に手を回してうっとりとした表情をしながら、かなたは優しく微笑んだ。
「離れ離れになって、やっと分かったんだ…。荊…あたしは、お前が…」
「カナ…ダメだ…」
荊は首を振る。
「俺じゃあ、ダメなんだよ…」
「嫌だっ!」
もう一度、かなたは力強く荊に抱き付く。
「お前じゃなきゃダメなんだよっ!あたしはお前がいいんだっ!お前さえいてくれれば、あたしは…それだけで……」彼女はもう、泣いていた。「だから、そんなこと…いうなよ…」
「カナ…」
荊は戸惑う。
「俺は、人殺しなんだ…。一緒にいても、きっとお前を傷付けるだけだ…。俺は、お前には相応しくなんて……」
「いいや……」
泣き顔のまま笑うかなた。
「お前は、ずっとあたしのことを考えてくれた…。あたしが落ち込んだ時、いつだってあたしを励ましてくれた…。あたしのことを守ってくれた…。それだけで、あたしは…」
「それは!」
荊が、乱暴に目の前の彼女を押しのける。
「俺がお前の中にいたからだよっ!お前の頭の中で、お前の気持ちが分かったからだよっ!でも、もうダメなんだよ!俺はもう、お前の中にはいられないっ!…もう、お前の気持ちを分かってやることが…出来ないんだ…」
「もう…一緒の体には戻れないのか…?」
「そうさ…」
落ち着きを少し取り戻した荊。
「俺には、もうカナの気持ちは分からねえ…。お前が悲しんでるのを、分かってあげられねえんだよ…。だからもう、俺がいる…意味なんて…」
「荊…」
荊の頬に、かなたは優しく手を添える。
彼の肌は少し震えていた。
「すまねえな、カナ…。でも、やっぱり俺じゃあ……」
「荊…」
目をそらしている荊。彼の顔を、かなたはずっと見つめている。
無言の二人。
荊はかなたの視線を感じながらも、その方を見ることが出来ずにいた。
「ふふ…」
やがて、かなたは笑みをこぼす。
荊は、その声につられて彼女の方を見る。
「お前が泣きそうな顔してるの、初めて見たよ…」
目を細めるかなた。
「それに、無様に慌ててる顔も…。乱暴に声を荒げるときの顔も……」
「カナ…?」
「意外と知らないもんだよな…。どれだけ一緒にいても、どれだけ心が通じ合ってても……。お前には、まだまだいろんな顔があるんだよな……」
「そ、そんなこと…」
「それと同じくらい、あたしにだってお前の知らない顔があるんだぜ……?甘ったれたお姫様だったり、クールな王子様だったり…」
荊は首を振る。
「小賢しかったり、嫉妬深かったり、バカなお嬢様だったり……」
「な、何言ってるんだっ!お、お前は、そんなやつらとは違っ…」
「そう。あたしには、そんな風にいろんな一面があって、一言で言い表せるほど単純な奴じゃない。かといって、お前が思ってほど複雑なことも考えちゃいないけどな…。他人のために、自分は眠った振りが出来る優しいやつ?荊、お前あたしのこと、ちょっと買いかぶり過ぎだぜ」
「お、俺はずっとお前の心の声を聞いてたんだ!だからこれは、買いかぶりなんかじゃなくて…!」
「あたしの中には、自分勝手で優柔不断で、弱気で臆病な…そんなダメダメな性格だって詰まってるんだ。ふふ…もしかしたら、もっとたちが悪い性格だって、あるのかもしれないよな…」
そこで一旦黙る。それから、十分に間をおいてから、かなたはゆっくりと続きを言った。
「あたしの中の、『わがままな子供』の一面は…こう言ってるぜ?」
「か、カナっ!俺にそんな顔をするなっ!そんな……そんな優しい顔を俺なんかに…」
「一つの体に戻れないのなら、今度は…ずっと二人で一緒にいよう…荊」
「そ、そんな……」
「お前が好きだ…。この世界中の誰よりも…。自分がこれからどれだけ傷つくことになっても、他の誰かをどれだけ傷つけてしまうとしても…あたしはお前のそばにいたい…。だから…だから……」
かなたはそれから、嘘偽りのない、心の底からの言葉で、言った。
「荊、あたしはお前を……『許す』…」
「カナ…」
その瞬間、夜の神社に奇跡が起きた。
しんしんと降っていた、その名の通りの粒の細かい粉雪が、まるで蛍のように柔らかな青い光を放ち始めたのだ。
その光の粒子は抱き合うように体を近づけている二人を包み込み、半透明の輝くカーテンとなった。今や二人は日常から完全に隔離され、他の誰も介入出来ない特別な空間にいたのだった。
「好きなんだ、荊…。お前が誰で、何であろうと…過去に何をしようと…そんなの関係ない。あたしは、今のお前が、好きなんだよ」
「か、カナ…」
荊はうまく言葉を発することが出来ない。
「……も…」
しかしそれでも、何かを言おうとした。
言わなければいけないと思った。
「俺……も……」
「え?」
聞き返すかなた。
「俺も……」
「え?荊……なんだって…?」
もじもじとしている荊。
「だ、だから……俺も……」
彼の顔が、だんだん赤く染まっていく。
かなたはまた聞き返す。
「ごめん荊、だめだ。全然聞こえないよ…。一体お前、さっきからなんて…?」
「ああああー、もうー!」
荊は抱き付いているかなたを引きはがし、その顔を直視する。そして、照れ臭そうに叫んだ。
「俺だって!カナのことが好きだよっ!カナと一緒にいてえって思ってるっ!でも…」
「荊…」
「でも……俺は人殺しだし…お前のことを分かってやることも出来ない…。もう、ただの……」
かなたは荊を見上げて、にっこりと笑う。
そして、嬉しそうな顔で涙を流しながら、言った。
「荊…」
「カナ……」
「ごめん、やっぱりよく聞こえなかった…もう一度…言ってくれないか?」
意地悪そうなかなたの顔。
「……っこんのぉ…」
顔をしかめる荊。
しかしやがて彼も、もう一度しっかりとかなたを見つめ直してから、言った。
「俺も、お前が好きだよ」
「……ありがとう」かなたは笑う。「あたしには…それだけで充分だ…」
二人を包み込んでいた光のカーテンはいつの間にか霧が晴れるように消え、二人は元の、静かな神社の境内に戻されていた。
かなたは、幸せな快感に包まれて暖かい涙をこぼしていた。
荊は自分が、いつになく晴れやかな気分であることに気づいた。
そしてかなたは、自分の顔を荊の顔にゆっくりと近づけ、彼に向けて唇を付きだした。
荊は一瞬驚き、やがて覚悟を決めて、そんなかなたに応えた。
それまで一つの体を共有していた二人にとって、それは、初めての体験だった。
お互いに、初めて見る相手の表情。初めて感じる相手の体温。相手の吐息。
心が通じ合い、全てを知り尽くしていたつもりの彼女たちは、そのときにやっとお互いの本心を知ることができた。
いや…、そのときだけでなく、これからもずっと。きっと彼女たちはこうやって、不器用に少しずつ、お互いのことを知っていくのだろう。
お互いの、まだ自分自身も知らないような、さまざまな一面を…。




