08
物語は、澪湖の家の前にいる三人の時間に戻る。
「そっか…。よお子ちゃんは、ミオちゃんのお姉ちゃんだったんだ…」
やはりそのことを予感していたらしく、イクの言葉を聞いた音遠は取り乱したりはしなかった。
「あいつが…姉ちゃん?そ、そんなの、マジで意味わかんねー…ですわ」
しかし荊の態度は、先ほどと変わらずだ。
イクが言葉を続ける。
「実はわたくしたちは、百梨お嬢様に近づく人間はどなた様も例外なく、入念な身辺調査を行うことにしておりまして…」
「い、いきなり、な、何の話なん…で、ですわ!?」
彼女が突然脈絡のない言葉を言い出すのも、もはやいつものことだ。荊以外は、彼女が結論を言うのを、ただ静かに待っていた。
「お嬢様に害をなすような人間ではないか?何か良からぬ目的を持ってお嬢様に近づいて来たのではないか?と…、その方の趣味嗜好や家族構成などのバックグラウンドを調べあげることにしているのです。もちろん、澪湖様もその例外ではございませんでした…」
少し照れるような顔を作るイク。
「つまりわたくしとヨツハは、最初から夜緒子様の存在を知っていた、ということでございます。二重人格の片割れの『よお子様』ではなく、実際に一人の人間として存在していた、澪湖様のお姉様の『夜緒子様』のことを…」
「そ、それでイクちゃんはあ、ミオちゃんに、よお子ちゃんの日記を読むようにってえ…」
「ええ…」
よお子ちゃんがお姉ちゃん…。だから…。
音遠は息をもらした。
だからよお子ちゃんは、あんな日記を書いてたんだ…。だからミオちゃんは、『あんな日記を書く、よお子ちゃんを作らなくちゃいけなかった』んだ…。
「つ、つまりあの澪湖っつうやつは…、自分の姉ちゃんの演技をしてる…っつうことかよ?…で、ですわ?」
『偽百梨』の問いに、イクは目を合わせずに答える。
「いいえ。澪湖様が二重人格ということ自体は紛れもない真実です。高校入学の際に、澪湖様には精神科医による診断書も提出していただいておりますし。ですから演技という言葉を使うのは、この場合いささか不適切でしょう」
「ミオちゃんはあ…」
音遠は、誰かに説明するというよりも、むしろ自分の確認のために言った。
「必要にかられて、『本当のお姉ちゃん』そっくりの別の人格を作っちゃったんだよお…。妹のミオちゃんのことを大事にしてくれて、ミオちゃんの出来ないことでも簡単に出来るよおな、完璧なお姉ちゃんをお……」
「そうですね…」
イクは家の外から、澪湖の部屋の窓をチラリと見上げた。
そのときの悲しそうな表情は、いつも飄々としているイメージの彼女からすると少し珍しいものだった。
イクはすぐに表情を戻し、その目線を音遠に向けた。
「実在した『出来のいいお姉様』をモチーフにしていた以上、夜緒子様は全ての面で澪湖様を超越していなければいけなかった…。そして同時に、澪湖様はいつまでも『出来の悪い妹』でなければいけなかった…。澪湖様にとってそれはもはや、解くことの出来ない重い呪縛のようなものになっていたのでしょう。澪湖様はご自身を、いつまでたっても幼稚で、何も出来ない存在でなければならないと思い込ませてきた…。全身全霊、誠心誠意を込めて、澪湖様自らで、『ご自身の成長を阻害し続けてきた』のでございます」
「そ、そうか…それでか…」
そこで荊も、ようやくあの日記の意味が分かったようだ。
「あの日記の中で、よお子ってやつがあんなにバカみてえに自分のことを自慢しているのは、『妹に、姉ちゃんのすごさをわからせる』ように…」
「そうです」
イクは、答える。
「本来二重人格とは、その人間の抑圧されてきた感情が発露したものだと言われています。つまり、自分が普段したくても出来ないことをするために作られるものだと…。ただ澪湖様の場合は、『誰かにやって欲しいのに、もう二度としてもらえないこと』をするため、と申し上げた方が良いのかもしれませんが…。つまりよお子様の人格は、『本当の夜緒子様がどれだけ優れた人間だったか』ということを、澪湖様ご自身がいつまでも思い知るために作られたものなのです…」
初めから全てを知っていたイクと、たった今すべての事情を理解したらしい音遠は、そのまま黙ってしまった。『偽百梨』を演じている荊も、何となく、今イクが話していることの内容と、それが導き出す仮説について、検討がつき始めてきた。
――ど、どうして…?――
ただ、その場でただ一人。荊の頭の中のかなただけが、いつまでも呟くように考えごとを続けていた。
――だ、ダメだ…。やっぱりあたしには、よく分からないよ…。だって、よお子さんが実在しているっていうのなら、どうしてあたしたちは一度も、その彼女を見たことがないんだ…?――
「カナ…」
本当はかなたも、その理由を既に理解していた。だが、どうしてもそれが信じられず、また同時に、どうしても信じたくなかったのだった。
――け、荊、頼むよ…。七五三木先輩に聞いてくれよ…。どうして、よお子さんのことを『優れた人間だった』って言ったんだ、って…。何でよお子さんのことを『過去形』で話してるんだ、って…。だってよお子さんは実在してるんだろ?『本物』は、今でもどこかにいるんだよな?だったら、今でもよお子さんは『優れた人間』のはずで…――
「カナ…」
――ど、どうしてだよ…。なあ、荊?どうしてなんだよ…?――
「…」
だが荊はそのとき、何も言うことが出来なかった。
※
一度枯れたはずの涙を、再びボロボロと流してしまっている澪湖。
そんな彼女を、美船と港は優しく抱き寄せていた。
「ごめんね。夜緒子ちゃんのこと…、今まで澪湖ちゃんに言えなくて…ごめんね…」
「澪湖…。全部終わったことだ。お前は、何も気にしなくていいんだからな…」
二人の目にも、うっすらと涙が浮かんでいる。
「私は…今までよお子お姉ちゃん…のことを…ずっと…ずっと忘れてて…。ひどいことを言ったりして…。本当にひどいのは、私の方なのに…」
澪湖の言葉は途切れ途切れで、か細くて、話していくそばから空中に消えていくようだ。
「ううん。そんなことないよ…」
だが、体を寄せ合わせている美船と港には、彼女の気持ちはしっかりと伝わっていた。
「澪湖ちゃんは、何も悪くなんてないんだよ…」
「そうだ澪湖…。お前は、全然ひどいやつなんかじゃない」
「違うっ!だって、私のせいでお姉ちゃんは…!」
声を裏返らせながら叫ぼうとする澪湖を、 もう一度、しっかりと抱きしめる美船と港。
「ねえ、澪湖ちゃん…」
「澪湖…」
呼び掛ける二人。澪湖は黙っている。
「もし、夜緒子ちゃんがここにいたら、今のあなたに、何て言うと思う…?」
その瞬間、澪湖の頭に、よお子の記憶が鮮明に映し出された。
※
「おめでとうございますっ!元気な女の子ですよっ!」
「やったな母さん。本当に、元気な声で泣く子だ…」
「まぁ、お父さんったら…」
「お、おか……あ、さん……おめ、で……とう……」
「もぉう、夜緒子ちゃんまで何言ってるの?他人事みたいにぃ…。いいから、もっと近くでよく見てあげて?今日からあなたは、この子のお姉ちゃんなんだからね?」
「わ、わた…しが…この、子の…お姉ちゃん……」
「この子の名前はね、澪湖っていうのよ」
「澪…湖……かわいい…子…。わた、しが…、お姉ちゃん、が……守ってあげる、からね……」
……………
「あああああーんん、やぁだ、やぁだ、やぁだぁー!ミオコも、お人形欲しいぃー!」
「もぉう…。澪湖ちゃんには、この前のお誕生日にゲーム買ってあげたでしょ?今日は夜緒子ちゃんのお誕生日なんだから、そんなわがまま言わないでぇ、ねぇ?」
「やだったら、やぁだぁー!やだやだやだ!やーあーだー!」
「…全く、聞き分けのないやつだな。母さん、いいから放っておきなさい」
「で、でもぉ…」
「うぅ…。お人形…欲しいぃ…」
「いい、よ……。これ……澪湖、ちゃん…に、あげる……よ」
「え、そんな夜緒子ちゃんダメよ…。だってそれは、あなたの誕生日に買った物なんだから」
「……わた、しは…大丈夫……。澪、湖ちゃんが…幸せ…なら…」
「えー、うっそー!いいのー!?やっりぃー!お姉ちゃんサンキュー!」
「もぉう、夜緒子ちゃん…」
……………
「夜緒子さんは学校でも一番のいい子ですよ。とても真面目ですし、誰よりもクラスのみんなのことを気遣ってくれますから。でも、ちょっとそれが心配なところもありますけれど…」
「先生?それはどういう…?」
「優しすぎる性格のせいか、あの子はいつも他人を優先して、自分のことを後回しにしてしまうみたいなんです…。まだ小学生なんですから、もっと甘えたり、自分勝手なくらいがちょうどいいと思うんですけど…」
「それは、私たちもよく感じていました…」
「だからお母さんも、おうちでは少しくらいのわがままは許してあげてくださいね?」
「はい…」
……………
「もぉー、なんなんっ!お母さんたちぃー!いっつもお姉ちゃんの味方ばっかするぅー!意味わかんなーいっ!」
「で、でも……澪、湖ちゃん……あの辺りは…夜は…車が……多くて……危ない…から…」
「うるさーいっ!何言ってるかわかんないのーっ!もっとはっきり喋れー!バカー!」
「ちょっと、澪湖ちゃんっ!夜緒子お姉ちゃんになんてこと言うのっ!」
「もう、お姉ちゃんなんか知らないよ…。いっつもいっつも、私のやることに口出ししてさ…。お母さんとお父さんにいい顔しちゃってさ…。どうせお姉ちゃん、私のことなんか嫌いなんでしょっ!?出来の悪い私なんか、いなくなればいーって思ってるんでしょーっ!?」
「そん、な……こと……」
「バカバカバーカっ!お姉ちゃんなんか、死んじゃえーっ!」
「こらっ!澪湖っ!」
……………
「ただいまー。帰るの遅くなっちゃったー。おやつとご飯とおかず余ってるー?」
「み、澪湖ちゃんっ!こんな時間まで、あなた一体どこに行ってたのよっ!?」
「えー?ナナちゃんちだよぉー?あの子んちゲームがいっぱいあるから楽しいのー。ついつい門限の時間忘れちったー」
「そ、そうなの…。でも、良かったわ…。私たち、あなたがいつまでも帰ってこないから、事故にでもあったんじゃないかと思って、心配で、心配で………。っ!?よ、夜緒子ちゃんはっ!?あなた、夜緒子ちゃんと一緒じゃないのっ!?」
「はぁー?一緒なわけないじゃん。ナナちゃんは私の友達だし。私、あいつのこと嫌いだし」
「あ、ああ…。ど、どうしましょう、お父さん…」
「母さん、落ち着いて。よお子ちゃんなら、きっと大丈夫だから…。とりあえず、僕は車でこの辺りを探してくるから、母さんは夜緒子ちゃんの知り合いに……あ、いや、澪湖の友達の家に片っ端から電話してみて?夜緒子ちゃんなら、きっとそっちを探すだろうから…」
「何?何で私の友達に電話すんの?てか、お父さんどこ行くの?」
「澪湖、お前は家で大人しくしていなさい」
「えー、何でー!?どっか買い物行くんならー、私も一緒にぃ…」
「澪湖ちゃん、違うの…違うのよ…。帰るのが遅いあなたを心配して、『探してくる』って言って飛び出して行ったきり……夜緒子ちゃんがまだ帰ってきてないのよ…」
……………
「あの国道は見晴らしが悪くて、信号もほとんどありませんでしたからね…。事故を起こした車のドライバーは、さらに飲酒までしていたそうですし…。きっと、お嬢さんの姿にも全く気付かなかったのでしょう…」
「そ、そんな……そんな…」
「うそ…だ。そんな、そんなのって…」
「せめてお嬢さんがお出かけになる時間があれほど遅くなければ、こんなことには……いえ、今のは失言でした…」
「なんで…お姉ちゃんなの……?なんで私じゃなくて……お姉ちゃんが…」
「夜緒子ちゃん……夜緒子ちゃん……ううぅ…」
「ご冥福を、お祈りいたします」
「ああ…あああああぁーっ!」
……………
「澪湖はまだ…部屋に引きこもっているのか?」
「ええ、あれからずっと…」
「夜緒子とは、ケンカしたのが最後だったんだろう?あの子は、夜緒子のことに責任を感じてしまっているのかもしれないな…」
「そ、そんな…!あれは、澪湖ちゃんが悪いわけじゃないのに!」
「でも、あの子が心からそう思っていなければ、僕たちが何を言っても仕方ないよ…。僕たちには、あの子が立ち直るのを待つことしか……み、澪湖っ!」
「……」
「澪湖ちゃんっ!良かった!も、もう大丈夫なの?夜緒子ちゃんのことは、悲しいことだったけど、あなたは何も悪くないのよ?だから、あなたは気にしなくていいんだからね?」
「僕、今日は会社を休むよ。澪湖、どこに行きたい?今日はお前の好きなところに、どこへでも…」
「あ、あの……」
「澪湖ちゃん、なあに?」
「ん?どうしたんだ、澪湖?」
「………わ、わた、し……澪湖、じゃないです………」
「え?今、なんて…」
「わた、し…伊美…よお子です……」
「え…」




