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あの娘は二面性ガール  作者: 紙月三角
10章 夏のイレギュラー(後編)
117/152

06

 ペチィ!

 暗い静かな海の上に、乾いた音が響いた。

 それは、人間の手の平で、人間の頬をひっぱたいたときの音だ。

 叩いたのは百梨、叩かれたのは、ヨツハだった。

「へ……?な、なんで……」


 今まで人を叩いたことなんてほとんどなかった百梨が繰り出した、腰の入っていない気の抜けたビンタ。そんなものでは、百戦錬磨で今までいくつもの修羅場をくぐり抜けてきたヨツハには何の身体的苦痛も与えることは出来なかった。だが、自分が最も愛する人に頬を張られたというその事実自体に、ヨツハは雷が直撃したかのようなショックを受け、今まで味わったことのないような致命的な精神的ダメージを受けていた。

 両手、両足、顔…。体中の末端の神経が痙攣をおこし、震えが止まらない。起こったことを理解しようと脳をめぐらせても、頭が真っ白になってしまって何も考えることが出来ない。まるで貧血でも起こしたかのように、くらくらと眩暈を起こして、ヨツハはボートにペタリと座り込んでしまった。


「あ…あれ…?え、えと…」

 あれー…。おか、おかしいっす、ねー…。

 おじょー様は、どんな相手のことも喜ばせようとしてくれる、幸せにしようとしてくれるから…、おじょー様に告白すれば、百パーでOKしてくれる……じゃ、なかったでしたっけ…?

 自分、今確かに告白したっすのに…。愛してますって気持ちを、伝えたはずっすのに…その告白の答えが、ビンタって……い、一体……どうして……。


 まるで、ジェットコースターにでも乗っているのかと思ってしまうほど、グルグルと目をまわして、フラフラになりながら、ヨツハは何とか顔を上げた。そして、自分の想い人であり、自分が先ほど愛の告白をした相手であり、その直後に自分にビンタをした相手である、千本木百梨の方を見た。

 見ると彼女も、ビンタを張った手を振り切ったままの姿勢で、ヨツハと同じくらいにプルプルと体を震わせていた。真っ赤に染まった顔を歪め、目には大粒の涙がにじんでいる。

 ヨツハのような超人的な視力を持ち合わせていない彼女は、目の前を覆う暗闇の中では周囲の様子が分かっていないようだ。明後日の方角を向きながら、叫ぶような声で言った。

「見損なったわよっ!ヨツハ!」

 その言葉に、ヨツハはまた、心臓をえぐられるようなショックを受けた。もはや百梨の自分に対する気持ちは、疑いようがない。自分は完全に、百梨を怒らせてしまった、嫌われてしまったのだ…。

 ヨツハの体は痙攣すらもしなくなり、完全に活動を停止してしまう。百梨の言葉一つで、ヨツハの命はもはや風前の灯のようだった。

「いつものはともかく……わたし、こういう冗談は大っ嫌いだわっ!貴女は…、貴女だけは、こんな悪い冗談を言うはずがないって思ってたのに…。わたしの買いかぶりだったみたいねっ!」

「じょ、冗談……?」

 ヨツハは泣きそうな顔で何度も首を振る。

「そんな冗談を言って…、言われた方がどれだけ傷つくと思っているのよっ!わたし、貴女たちのこと信じてたのに……。本気で悩んで…、心を決めてもいいって…思ったのに……。人の気持ちも分からないような人間に、側にいて欲しくないわ!」

「お、おじょー様…?こ、これは、冗談じゃ、ないっす……自分は、本気で……」

 まるでゾンビのように、ぐったりとしながら百梨に手を伸ばすヨツハ。その手が百梨の体に触れた途端、百梨は力強く腕を振ってそれを払った。

 払いのけられたヨツハは抵抗する力もなく、ボートの外に飛び出してしまう。バシャーンと大きな音をたてて、海に落下していた。


「…!」

 一瞬心配になって、音のした方に手を伸ばそうとする百梨。だが、超人的な身体能力をもつヨツハが簡単に溺れるはずがないと気付いたのか、すぐに彼女のことを見捨てて、そっぽを向いてしまった。

「貴女の顔なんて見たくもないわっ!いい機会だから、そのまましばらく海水で頭を冷やしてなさいっ!」

 そう言うと、百梨は慣れない手つきでボートのオールをこいで、暗闇の向こうのパーティー会場の光を目指して行ってしまった。


「冗談なんかじゃ……ないっすのに……自分は、本気でおじょー様のことが……」

 海に一人とり残されたヨツハは、まるで投棄されたビニール袋のように、力なくぷかぷかと波に体を任せて、揺られていることしか出来なかった。



 しばらくするとそんなヨツハの元に、黒塗りの小型船がゆっくりと近づいてきて、すぐ隣で停止した。

「残念、でしたね?」

「イクちん…」

 船のデッキから、水面を漂っているヨツハをライトで照らし、手を伸ばすイク。ヨツハはそんな双子の片割れのことを、恨めしそうに睨みつけた。

「どうですか?全ての人間の幸せを願い、全ての人間を愛して下さるお嬢様に、人類で唯一嫌われてみた気分は?なかなか風情があって、心にしみるものがあるのではないですか?」

「くっ…」

 イクの皮肉に体中が沸騰しそうになるヨツハ。だが、それを抑えて平然をよそおう。

「それって嘘っすよね…?おじょー様に嫌われたのは、自分が『唯一』じゃないっすよね…?おじょー様さっき言ってたっすよ……。『貴女たち』のことを信じてたのに、って……」

 ヨツハはイクの助けを借りずに、一人でその小型船に乗り込んだ。イクは伸ばした手をひっこめて、少し照れくさそうに頭をかいた。

「こんなの…反則っすよ……」

「あら?」イクの首には、先ほどボートを観察するときに使っていた暗視スコープがある。彼女はそれを再び目元にあてて、何かを探すように周囲を見回した。「最初に約束を破ろうとしたのはそっちでしょう?お嬢様への愛の告白は、『お嬢様の夢が叶う』まではしない。そういう約束だったじゃない?わたくしたちのその停戦協定を先に破ろうとしたのは、貴女の方なんだからね。わたくしはいち早くそれに気付いたから、先手を打って、『貴女の愛の告白が絶対に成功しない』状況を作り上げておいた。ただそれだけよ。むしろわたくしは、貴女の裏切り行為をただの『悪い冗談』にしてあげたんだから、感謝してほしいくらいだわ」

 周囲を見回していたイクは、そこから数メートル先の海上で、一人でビーチを目指してオールを漕いでいる百梨を見つけた。彼女は汗だくになりながら必死に動いているが、ボートは全然進まず、さっきから同じところを行ったり来たりしている。そしてそんな自分が苛立しいようで、時おりみっともない奇声をあげていた。離れた位置から見るそんな彼女の姿は、まるでお笑い番組のコントのようだった。

 イクのことをそれまでずっと睨みつけていたヨツハだったが、そんなコミカルな百梨の姿を見て色々なことが馬鹿馬鹿しくなってしまい、最後には呆れて笑いだしてしまった。


「……で?いつ、仕込んだんすか…?」イクの隣にやってきて、ヨツハはいつも通りにイクに話しかける。「パーティーが始まる前の、イクちんがおじょー様を呼びに行ったときっすか…?」

 彼女には暗視スコープなどなくとも、海の上の百梨の姿がはっきりと見える。小型船の積み荷をボートのすぐ近くに投げて波をおこし、百梨を驚かせて遊び始める。

「ええ。確かあのときは貴女…、澪湖様たちとパーティーの料理を食べていたんじゃないかしら?仕込みを済ませてからパーティー会場に戻ったわたくしが、貴女に会ったときに言ったでしょ?お嬢様をからかい過ぎてしまった、『顔も見たくない』と言われてしまった、って…」

 イクは、やれやれと小さく首を振る。

「全く…。『七五三木イク』だけじゃなく、結局『二十六木ヨツハ』まで嫌われてしまったわね…。しばらくの間はわたくしたち、お嬢様のお世話ができないじゃない……」


 それは、今から数時間前のことだった。




   ※


 ノックをして、百梨の部屋に入るイク。

「失礼いたします。お嬢様、奥様がお呼びです。来賓の皆様へご挨拶をして頂きたいとのことです。お支度はよろしいでしょうか?」

 深々と礼をしていたイクが顔を上げたとき、百梨は、部屋に備え付けの大きな鏡の前でくるりくるりと体をまわしながら、自分の姿を何度も確かめていた。

「ええ…もうすぐ行けると思うんだけど………ねえ、このワンピース、着方これであってる?な、なんか変じゃないかしら……たまには一人で着替えっていうものをしてみようと思ったんだけど、やっぱり慣れてないと、結構手間取ってしまうわね…」

「ええ。大丈夫ですよ。とてもよくお似合いです…」

「そ、そう?ならいいのだけど…」それでもまだ不審そうに、しばらくは自分の姿を見ている百梨。しかし、結局最後にはイクの言葉を信じたのか、部屋の出口に向かって歩き始めた。「ダメね、こんなことしてたら遅れてしまうわ。お母様に怒られないうちに、さっさとパーティー会場へ……!」

 部屋のドアのところに来て、百梨がイクとすれ違おうとしたその瞬間。イクが、まるで倒れかかるように百梨の背中に抱き付いてきた。


「お嬢様…」

「ちょっ!ちょっと!何!?どうしちゃったの?い、イクっ!?」

 取り乱す百梨。イクは、色っぽくけだるそうに耳元でささやく。

「好きです。愛しています。ずっと…、ずっとお嬢様のことが好きでした…」

「え!?う、嘘……よね…?」

「本気です…」

「そ、そんな……だって、わたしは……」

 顔を赤くしてグルグルと目を回す百梨。だがやがて、何かの覚悟を決めたように大きく目を見開き、大きく頷く。そしてイクに背中を抱きしめられたまま、彼女はゆっくりと口を開いた。

「イク、ありがとうね。その気持ち、とっても嬉しいわ………貴女さえ良いのなら…わたし…」

「…っ」

 一瞬、イクは当初の目的を忘れ、目の前の誘惑に全てを任せてしまいそうになった。だが、次の瞬間には彼女はそれを、強い精神力で抑え込んでいた。

 抱きしめていた百梨の体を突き飛ばすように乱暴に引きはがし、小バカにした表情で見下しながら言った。

「なーんてー。冗談ですよー、じょおーだーん。全部うっそでーす」

「え…」

「えっ、じゃないですよ。あれあれ?お嬢様、何ビックリしてるんですか?こんなの冗談に決まってるじゃないですか?だってわたくしたち、女同士ですよ?もしかして、本気にしちゃいました?」

「あ、貴女……」

 体をプルプルと震わせる百梨。

「ちょっとちょっとー、勘弁してくださいよー。音遠や澪湖様じゃあるまいし。そんなの普通じゃないですよ。気色悪いですって。全くもって、どうかして…」


 ペッチィ!

 やはりそのときも、百梨のビンタはまるで痛みを感じないような下手くそなものだった。


 叩かれたイクは、百梨を睨みつける。

「おや……珍しいですね。お嬢様が暴力をふるうなんて…」

「イク!貴女本気で言ってるのっ!?バカじゃないのっ!」

「はは…まさかお嬢様にその言葉を言われる日が来るとは、夢にも思いませんでしたね」

「見損なったわ!貴女がそんなことを言うような人間だったなんて思わなかった!」

 百梨は、声が裏返るほど全力で叫び散らしていた。イクは、あきれるような演技をする。

「今更、何をおっしゃられているのですか?お嬢様のことをからかうのは、わたくしたちの趣味なんです。こんなの、いつものことでしょう?とりたてて騒ぎ立てるようなことですか?」

「これは…、こんなのは、いつものとは全然違うわよっ!貴女、そんなことも分からないの!?」

 イクは、一体この人は何を言っているんだ?という風に首を傾げる演技をする。百梨の怒りは最高潮に達し、手を振り上げて、もう一度ビンタを張ろうとした。


 だがそれを何とか踏みとどまって、上げた手をゆっくりと下げ、そのまま部屋のドアを指さした。

「今すぐここから出ていきなさいっ!貴女の顔なんて見たくないわっ!しばらく暇をあげるから、じっくりと反省なさいっ!世話係はヨツハがいれば十分だわっ!」

 ふんっ、と鼻を鳴らす演技をするイク。

「わたくしの顔を見たくない、って……。わたくしたち双子ですから、ヨツハの顔も大体わたくしと同じなんですけどね…」

「うるさいわねっ!ヨツハは今の貴女とは全然違うわよっ!あの子はこんな…こんな、最低の冗談なんて言ったりしませんっ!」

「それはどうでしょうか…」

 最後に、ぷぷ…と百梨を小ばかにするように笑う演技をし、イクは部屋を出て行った。




   ※



「そうやって、わたくしがあらかじめ嘘の告白をしておけば、そのすぐあとで貴女が告白をしても、お嬢様にはわたくしと同じ、たちの悪い冗談だとしか思えない。つまり、貴女の告白をトリガーに発動する、トラップを仕掛けておいたってわけね」

「たちが悪いのはイクちんっすよ…」

「ずっと寄り添ってきた双子だからね。貴女が考えそうなことくらいは大体わかるわ。貴女が本気を出したら、どう頑張ってもお嬢様への告白を止めることなんて出来ないだろうってこともね。だからわたくしは、こんな手段を選ぶしかなかった。あえてわたくしが、お嬢様から嫌われるような手段を選ぶしか…ね。それでも少しは抵抗もしてみたのよ?もしかしたら万が一に貴女の告白を止められるかもしれない。『二十六木ヨツハ』がお嬢様に嫌われることだけは、阻止できるかもしれない…。そう思って、精一杯の悪あがきはしてみたの。……だけど、やっぱりだめだったわね」


 そのときのことを思い出しているのか、感慨深そうに百梨に叩かれた左頬をなでるイク。

「ああそれにしても……あれはなんて素晴らしい体験だったのかしら……。だってお嬢様ったら、あのときわたくしがした愛の告白を、本気で考えて下さったのよ…?わたくしの『自分勝手であさましい個人的な夢』ですら、叶えようとして下さったのよ…。わたくしが『冗談』と言うのが、あと数秒遅かったなら…。それを考えると、この身がはち切れそうになるわ……」

「いやいやいや…」

 恍惚の表情を浮かべ身をくねらせているイクを、隣のヨツハは呆れ顔で見る。

「もしあのとき、お嬢様のご返事を最後まで聞いてしまっていたなら……そのときは、停戦協定を破るのは貴女ではなくわたくしになっていたのでしょうね…」

「…イクちん?それじゃトラップじゃなくって、ただのマジ告白じゃないっすか……。自分とやってること、たいして変わんないじゃないっすか……」

「…ばれました?」

「恐ろしい女っすね……」

「あら、貴女こそ…」

 イクはスコープを外すと、隣のヨツハに笑いかける。


「これからもわたくしたち、ちゃんとお嬢様のメイドでいましょうね?……お嬢様が夢を叶えてしまったら、そのときはお互いに最大のライバルになるのだから……それまでは……ね?」

「……そんときは、今日みたいにはいかないっすけどね……」


 そう言って二人は微笑み合った後、小型船をビーチに向けてゆっくりと動かしはじめたのだった。

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