04
夜の浜辺。
澪湖と音遠が二人きりで歩いている。どちらも無言だ。
パーティーの会場から東に数百メートル。そこまで来るとさすがに招待客たちの声も届かず、ライブ会場から流されている音楽も十分に減衰されてしまう。聞こえるのはただ、波の音だけ。
寄せては返す周期的な水音を聞いていると、心臓の鼓動までが少しずつそのリズムに導かれていくようだ。ずっと浜辺を歩いているうちに、二人は心穏やかで落ち着いた気持ちになっていくのを感じていた。
突然、横並びで歩いていた二人の足並みが乱れる。澪湖がその場に立ち止まったからだ。彼女の体は少しだけ震えている。
音遠はそのまま数歩だけ進み、くるりと振り返って、何か言いたそうな顔の自分の親友を覗きこむ。しかし、しばらくすると澪湖は気まずそうに目を反らし、何も言わずに、少し足早にまた歩き出す。音遠も無言でそれを追いかける。
そんな風に、かなたと別れてからほとんど会話らしい会話もせず、二人は海辺を歩き続けていた。
日が落ちても気温はあまり下がらず、相変わらず汗ばむような陽気の浜辺。ただ、ときおり体を撫でるひんやりとした海風のお陰で、昼間よりも今の方が、幾分かすごしやすいようだ。
音遠の茶色い髪がふわふわと揺れる度に、彼女のまわりを甘いシャンプーの香りが包みこむ。その瞬間だけ澪湖は、自分がビーチではなく花畑にいるような錯覚を覚えてしまうのだった。
「か、かなたを…」
ときどき、意を決したように何かの言葉を漏らす澪湖。
「んんー?なあにいー?」
「……何でもない」
「そっかあ」
だがその呟きは文章にはならず、言葉の続きは波の音にさらわれる。音遠もそれ以上追求せずに、二人はまた無言になる。
急に音遠が、前方に向かって駆け出した。そして、数メートル先の砂浜にしゃがみこんだ。
「見てえ…?綺麗な貝殻あ…」
振り返り、可愛らしい笑顔を澪湖に向ける彼女。手のひらの上には小さな紫色の貝殻がのっている。
「オンちゃんは……」俯いて、また呟き出す澪湖。音遠の方は見ていない。「…私に優しすぎるよぉ」
「ああー、花火いー」
音遠が立ち上がり、澪湖の後ろの夜空を指差す。彼女の言う通り、そこにはカラフルな無数の打ち上げ花火が上がっていた。まるでテレビの向こう側から聞こえるような、現実感がなくて白々しいドーンという爆発音も聞こえる。だが、澪湖はそちらを振り向かない。
何も言わないままの澪湖に視線を向けて、彼女の次の行動を待つ音遠。しばらくの間、無言で体を向かい合わせたままの二人。遠くでは、その間もずっと花火が上がり続けている。
やがて音遠は思い出したように、澪湖にニッコリと可愛らしい微笑みを向けた。
「当たり前だよお。ミオちゃんにならあ、わたしはいつでも優しいんだよおー?」
「……っ」
澪湖は、更に気まずそうに眉間に皺をよせる。目をぎゅっとつむって、両手を強く握りしめる。
そしてついに我慢出来なくなって、大きくため息をついてから、しゃべり始めた。
「…何で私って……こんななんだろぉ……」
「うふふー、どおしたのお?」
「私、最悪だよ…。だって……こんなこと、オンちゃんに言うべきじゃないって分かってるのに…こんなこと言ったって、オンちゃんのこと悲しませるだけだって分かってるのに…」
もどかしそうに、澪湖は乱暴に頭をかく。
「かなたちゃんのことかなあ?」
「くっ……」
「うふふう…」音遠は澪湖に歩み寄る。「ミオちゃん、今日変だったもんねえ?昼間かなたちゃんが溺れてからあ、ずうっとお、変だったもんねえー?」
「気付いてたんだ…」
「気付くよお。だってわたしい、ミオちゃんしか見てないもおーん」
音遠は、澪湖の前髪を優しくかき分け、彼女の顔がよく見えるようにする。澪湖は最初は気まずそうに俯いていたが、やがて視線を上げた。そこでやっと、二人はお互いの目を合わせた。
今の二人は、ビーチのどこかに百梨がいるかもしれないから捜索している、という名目でそこにいた。かなたがビーチの西側の展望台の方に向かったので、自分たちはその反対側の東側、という手筈で。
しかし実際のところ、彼女たちはそれほど熱心に捜索にあたってはいなかった。
もちろん百梨とヨツハのことは気にしてはいる。ビーチを歩きながらも周囲に目は配っているし、出来る限りの協力はしたい。そう思っていた澪湖だったが、一方で、頭の中には全然別の自分の悩みが浮かんでいた。そのために、どうしても捜索に身が入らず、気が付くと顔を俯かせて、そのことに関する考え事に没頭しまっていた。
そしてもちろん音遠は、そんな悩みを抱えて様子がおかしくなっていた澪湖のことに気づいていた。だから彼女の方では捜索は完全に後回しと考えていて、今はただ、無言で澪湖の近くにいてやることが大切なのだと考えていた。彼女は、澪湖の方からその悩みを自分にぶつけてくれるのをずっと待っていたのだった。
目を合わせている二人。
優しい笑顔の音遠と、申し訳なさそうに眉間に皺を寄せている澪湖。
「……あのとき私……かなたに……何もしてあげられなかった……」澪湖の声は途切れ途切れだ。「自分のことばっか考えてて……かなたのこと、助けてあげられなかった……私、そのことをずっと…考えてて…」
澪湖が言っているのは、今日の昼間、溺れて意識を失ったかなたをヨツハが連れてきたときのことだ。あのとき澪湖は、人工呼吸も心臓マッサージの方法も知らず、気を失っていたかなたに対して何もすることが出来なかった。
「でもあれはあ、わたしたちは何もしなくてよかったって、イクちゃんがあ…」
ガバッと、音遠の肩をつかんで詰め寄る澪湖。
「もしっ!かなたがあのとき、本当に大変な状態だったらっ!?心臓とか止まっちゃってて、すぐにでも人工呼吸してあげなきゃいけない状態だったらっ!?それで、あの場にお嬢様もメイド先輩たちもいなかったりしたら……?私一人じゃあ、何にも出来なかったんだよ…?私あのとき、自分の好きな人のこと、殺しちゃってたかもしれないんだよ……?」
「そんなことお…」
話しているうちに、どんどん気を落として顔を歪めていく澪湖。彼女は、あのときの自分の不甲斐なさを、今までずっと後悔して引きずっていたのだった。
そんな彼女を見るのがつらい音遠は、あえて明るい口調でこたえる。
「そ、そんなことないよおー!もしミオちゃんしかいなくてもお、きっと誰か他の人がかなたちゃんのこと助けてくれたよおー。あ、だってだってえー、海なんだからさあー、きっと近くにライフセーバーの人だっていたはずだしい…」
「何それ……」
「え?」
澪湖は歯がゆそうに、顔をしかめている。
「私……、ライフセエバア…?とか、そんなの知らないし…。そんなの、今初めて聞いたし……」
「あ、あのおー、ライフセーバーっていうのはあ……」
「はぁーあ…」
音遠の説明も聞かず、澪湖は深いため息をついた。
「きっと、オンちゃんがいてくれれば大丈夫なんだと思う…。オンちゃんなら、好きな人が溺れても、みすみす殺しちゃったりしないで、ちゃんと助けることが出来るんだ…。人を好きになる資格があるんだ……」
私だって、前に落ち込んでたとこを助けられてるし…、と澪湖はつぶやく。
「それにお嬢様も……、普段はあんなに馬鹿っぽっくて、残念お嬢様なのにさ……、本当はいろいろ考えてて、ちゃんと努力してて……。私のことライバルとか言っちゃってさ……、本当は、私なんかより全然すごいんじゃん…。私なんかより、よっぽどかなたにお似合いなんじゃん……。私、全然ダメダメじゃん……」
「そんなことないよおー!だってミオちゃんはあー…」
「そんなことあるのっ!」
両手をつかんで励まそうとした音遠の手を、澪湖は乱暴に払う。
「…!……ほら…今だってそうだ…」
澪湖に拒否された音遠は、そのショックのあまり、笑顔を一瞬崩してしまう。それを見て、澪湖はまた奥歯を噛みしめて顔を伏せた。
「こんなこと、オンちゃんに話したらダメなのに……。私を好きでいてくれるオンちゃんに、かなたのことなんか話すべきじゃないって、私分かってるのに……。それなのに今、私話しちゃってる……。バカみたいに、悩み打ち明けちゃったりしてる……。こんな無神経な私、もうやだよ…私……、どうしてこんなにダメダメなんだろ……。自分で自分が、嫌になるよ……」
『あいつ』なら、きっと何でも上手にやっちゃうんだろうな……。誰かを守ることが出来て、好きになる資格があって……それに、誰も傷つけたりなんかしなくって…。
澪湖の力ない言葉。そのときの彼女からは、いつもの天真爛漫な無邪気さは完全に消え失せていた。
いつのまにかパーティー会場ではバンド演奏が始まっていて、澪湖たちのところまでうっすらと演奏が聞こえるようになっていた。花火はもう上がっていないが、代わりにステージを照らす色とりどりの照明が、二人の視界の端で目障りにちらついている。
周期的に打ち寄せる波がときおり一際強くなって、二人のビーチサンダルを濡らす。引き際に砂を巻き込んで海に連れていくときのサラサラという音が、まるで体の中を洗い流すかのように心地よく響く。高まってしまった二人の気持ちを、海のリズムがまた徐々に落ち着かせていった。
辺りには二人以外の人間はいない。月明かりが照らす静かな海に、二つの影だけが、寄り添って延びていた。
「……それでえ?……ダメダメだったらあ…どおするのお?」
音遠はまた笑顔に戻っている。
「わかんないよ…」
「諦めるう?かなたちゃんのことお…?」
少し意地悪い顔になる音遠。澪湖は目元と口をくしゃっとして、絞り出すように言った。
「それは…出来ない…」
「……」
「かなたのこと……諦めるなんて、出来ない……」
「んふふ…」
笑うような声。ただ、うつむいている澪湖には、そのときの音遠がどんな表情をしているかは分からない。
「……それでいいんじゃなあい?ミオちゃんはあ。諦める必要なんてないよお…」
「…でも……今の私じゃあ…」
「だってえ、ミオちゃんがその気になればあ、きっとすぐにでもいろんなこと出来るようになるもおん。百梨ちゃんにだって負けないくらいにい、みんなのことを思いやれる人になれるからあ……」
「ほ、ほんとにっ!?」
さっきよりも切実に、もう一度音遠につかみかかる澪湖。
「本当に私、ちゃんとした人になれるのかなっ、オンちゃん!?私、人を好きになる資格がある人に…、かなたのことを守ってあげられるような人に……」だがすぐに、澪湖は音遠をつかんだ手を離し、また俯いてしまう。「ごめん……やっぱ何でもない…」
さみしそうな表情を作って、澪湖はビーチをまた歩き出す。
音遠は立ち止まったまま、澪湖の後ろ姿を見ている。
あぁ……私また、オンちゃんにかなたのこと言おうとしてる…。オンちゃんが優しくって、私のバカさを我慢してくれるからって、またオンちゃんのこと、傷つけようとしてる。
そんなこと、言えるわけない。言っていい、はずがないよ…。
静かなビーチに、澪湖一人のサンダルが砂を踏みしめる音が響く。背中を丸めた澪湖の後ろ姿と重ねると、なんだかその音までが悲しそうに聞こえる。
「ミオちゃん……」
音遠の呼び掛ける声。
澪湖は立ち止まりも、振り返りもしない。することが出来ない。
音遠の顔を、見ることが出来ない。
私やっぱり……ダメダメだなぁ…。人を好きになる資格なんかなくって……傷つけるばっかりで……。だからかなたも、オンちゃんも、私なんかよりも、きっとお似合いの人が、いっぱいいて……。
しかしそこで、彼女のネガティブな思考は途中で遮られた。
「デート一回っ!」
「え…」
「それで手を打ってあげまっしょおー!」
余りにも唐突で、間の抜けた音遠の声が響いた。澪湖は意味が分からず、罪悪感も落ち込みも忘れて、その場に立ち止まって振り返ってしまう。
「当然、その日は二人でずうっと手を繋ぐんだよお?それからあ、一個のアイスを交互に食べあったりしてえ、食べさせあったりもしてえ…」
「え…っと、オンちゃん……一体何の…」
あっけにとられている澪湖。音遠はそれに、微笑みで答える。
「ミオちゃんがちゃあんと、みんなのこと思いやれるよおな、かなたちゃんに相応しいよおな女の子になれる方法お。わたしが教えてあげるって言ってるんだよおー?お手伝いしてあげるって言ってるんだよおー?だからあ、ミオちゃんはわたしにそれのお返ししてくれないとでしょおー?その話だよおー」
「え、え……だ、だってそんなの……だめだよ…。オンちゃんに悪いよ……。だって、だってオンちゃんは、私のこと……」
だって、オンちゃんは私のことを好きなんだから…。
私がかなたに相応しくなれるように、かなたを好きでいる自信がつくように手伝ってくれるなんて、そんなことしてもらうことなんて、出来ないよ…。
澪湖は、小さく何度も首を振る。
申し訳なさと、切なさと、その他のいろいろな感情が入り混じった状態の澪湖。今のそんな気持ちをうまく言葉にすることは出来なかったが、だからこそ、その全てのモヤモヤを振り払うように、澪湖は首を振り続けた。
しかし音遠は、そんな彼女の両の頬に優しく手のひらを添えて、その否定をやめさせてしまう。そして、顔をくっつくほど近づけて、わずかに首を傾げて可愛らしく言った。
「大丈夫だよお」
澪湖は、そのときの音遠の、自分を見つめるとろんとした甘えるような瞳に釘づけになった。
「わたしい、ミオちゃんのこと大好きだもおん…。だからあ、そんなことくらいで、わたしの『好き』は、かなたちゃんに負けたりなんかしないよお?」恥ずかしそうにはにかむ。「うふ…前みたいに、本音を隠して建て前で嘘ついてるんじゃなくってえ、これはわたしが自信あるからだよお…?最後にはミオちゃんに好きになってもらえるってえ、自信があるからあー、かなたちゃんとのことだって手伝ってあげられるんだよおー…」
澪湖はまた、目をぎゅっとつむる。
しかし今度は、悔しさや、歯がゆさからではない。目の奥から込み上げてくる熱い物を、必死に抑え込むためだ。
しかし健気な抵抗もむなしく、激しい感情の高ぶりはそれを許さなかった。澪湖の瞳から、次から次へとボロボロと熱い滴がこぼれ落ちた。澪湖は人差し指でそれをぬぐうが、とても間に合わない。それでもそれを拭うポーズを続けながら、口を開いた。
「……オンちゃんは、やっぱり私に優しすぎるよぉ…」
言葉と共に、自然と笑い声がこぼれてくる。音遠もつられて笑う。
「えへへえー…。だってえ、ちょっとくらいかなたちゃんにハンデ上げないとお、かわいそうでしょおー?ミオちゃんへのわたしの愛が大き過ぎてえ、このままじゃあ勝負にならないもおーん…」
「もぉう……ほんと、オンちゃんはいい女だなぁ…」
冗談めかして呟く澪湖。
「今ごろ気付いたのお?わたしミオちゃんの前だったらあ、世界一いい女なんだよおおー?」
それから二人は体を寄せ合い、声を揃えて笑い合った。
静かな夜の海に、二人の親友の笑い声は混ざり合い、溶けあい、まるでハーモニーのように重なり合って響いた。
それは暗い海の上のどこかでは、もしかしたらハミングで歌を歌っているような心地よい音色として聞こえたかもしれない。




