03
千本木家の所有するプライベートビーチを海沿いに西にずっと進むと、高さが数十メートルはあるような立派な石垣にぶつかって、そこでビーチが途切れる。まるで日本の城の土台でよく見るようなそんな石の壁に阻まれ、ビーチからはどうやってもそれ以上先には進むことは出来なくなるのだが、一旦ビーチからホテルの玄関まで戻って、そこから延びている細い小路を進んでいくと、その石垣の上段部分に行くことが出来る。そこは、ビーチや近隣の海を見通せる、ホテル付属の展望台だった。
ビーチとホテルの周辺では、今でも大勢の人間が血眼になって百梨とヨツハの姿を探している。だが、この場所は既に捜索済みなのか、それともこんな開けた場所にいるはずがないと、捜索者たちがタカをくくっているのかは分からないが、今はその展望台にホテルスタッフは誰もいなかった。
だからそのとき展望台にいた人間は、海に面したベンチに茫然とした様子で腰掛ける、かなた一人だけだった。
イクから百梨がいなくなった話を聞き、そのままパーティーに戻れと言われたかなた、澪湖、音遠の三人。だが、さすがに百梨を放って先ほどまでのようにパーティーを楽しむことが出来るほど、彼女たちも薄情ではない。三人はイクの助言を無視して、独自に百梨の捜索を開始することに決め、かなたはこの展望台方面の担当になったのだった。
展望台から見下ろすと、ちょうどステージでは増子りぼんとそのバンドのメンバーたちが、演奏の準備をしているところのようだ。ムード演出のためにパーティー会場は最小限の照明しかつけていないので、今は、スポットライトが当たっているステージの様子が辛うじて見える程度。それ以外は全てが真っ暗で、ビーチと海の境界線すらもよくわからない。日は完全に沈んでしまい、辺りはすっかり夜の風景になっていた。
――くっそっ!あいつマジでムカつくぜっ!俺が表なら、ぜってえぶっ殺してるっ!――
無表情に、ただベンチに座ってぼうっとしているかなたに対して、彼女の頭の中の荊は暴れだしそうなくらいに激昂していた。
――カナが反論しねえからって、好き勝手言いやがって!調子に乗ってやがるっ!俺が本気で「力」を使えば、あいつくれえ余裕でぶっ殺せるぜっ!二匹じゃなく一匹ずつなら、前みてえに俺が人間なんかに負けるはずが…――
「荊、いいから……」
――……くっそっ!――
かなたに諭され、怒りを直接言葉にするのはやめた荊。だがそれでもかなたの頭には、次々と彼の怒りの感情が流れ込んできていた。
殺す…殺す…殺す…殺してやる…ぶっ殺してやる…許さねえ……カナを侮辱しやがって……。
しかし今回はかなたは、昼間のように彼の感情を自分の物と混同してしまうようなことはなかった。
「落ち着けよ、荊。あれは先輩の言ってたことが正しいんだ。だからあたしにもお前にも、怒る権利なんてないんだぜ?」
今の彼女は、荊の怒りよりもずっと深い気持ちで満たされていた。だから、荊の怒りを自分の物と取り違えたりはしなかったのだ。
それは今から二十分ほど前のこと。イクの話を聞いたあと、かなたが澪湖たちと別れて、一人で展望台の方へ向かっていたときのことだ。その道すがら、彼女は一度別れたイクとまた出会ったのだった。
※
「あ、七五三木先輩……」
「どうも」
「あ、あの、二十六木先輩は?」
「いまだ捜索中です。お嬢様共々、わたくしの耳にはまだ発見の連絡は届いておりません」
「そっか…」かなたは、さっきのイクの話を聞いていたときから思っていたことを聞いてみた。「そ、その…も、もしかして、なんだけどさ……」
「どうされました?」
「二十六木先輩が、お嬢様のこと我慢出来なくなっちゃったのって……、昼間のあたしの…人工呼吸があったから、だったりするの…かな?」
「…どうかお気になさらずに」
イクは、かなたとは目を合わせずに答えた。
「確かにあの一件は、わたくしたちにとって非常にショッキングな出来事でした。『お嬢様とそのメイド』という肩書きにしばられているわたくしたちには逆立ちしても出来ないようなことを、あのときの美河様はなさった…。わたくしもヨツハも、あの瞬間に嫉妬心がわかなかったと言えば嘘になります」
「……あ、やっぱり」
かなたは申し訳なさそうに俯く。
「でも、あのことを抜きにしても、こういったことはいつかは起きていたと思います。あの子、二十六木ヨツハは、とても嫉妬深い子でしたから。いつでも心の中ではお嬢様に自分だけを見ていて欲しいと思っていた。お嬢様のことを独占したいと思っていたようでしたから」
「ご、ごめん」
何故か謝ってしまうかなた。イクはまた、気にするな、とでも言うようにゆっくりと首をふった。
「……ごめん」
かなたは、今自分が謝ったところで事態がどうにかなるものでもないということは、分かっていた。だが、それでも自分は何か言わなければいけないような気がして、しかし何を言えばいいのか分からず、仕方なく何度も謝罪を口にしてしまっていた。
そして、やがてそれも気まずくなってしまうと、今度はわざとらしく元気に話し出した。
「そ、その罪滅ぼしってわけじゃないけどさっ!やっぱりあたしたちも、お嬢様のこと探すことにしたんだよ!このままあたしたちだけ何もしないってわけにはいかないもんなっ!」
「……そうですか」
「あっあー!止めても無駄だぜっ?これはあたしたちが、勝手にやってることなんだからなっ!?だ、だから、先輩にどんなに危険だって言われたって、あたしたちは…」
「美河様」
絶対お嬢様のことを見つけてやるぜ!という強い意志を見せつけるように、テンション高く話していたかなた。イクに急にその言葉を遮られて、軽くずっこけそうになった。
「な、なんだよ!?」
「わたくしは先ほど皆様に、お嬢様とわたくしたちの過去をお伝えしました。加えて、何故わたくしが今そんな話をするのか、という理由についても、お話させていただいたつもりです…」無表情のイク。「ですが、実はもう一点だけ、美河様にだけ、お伝えしなければいけないことがございます」
もう終わったと思っていたのに、イクがまたその話をぶり返してきたことを少し不思議に思いながら、かなたはその話に聞き入る。
「実は美河様には、わたくしが先ほどのお話をさせていただいたことについて、他の皆様とは異なる別の理由があるのです」
「え……」
そしてイクは、かなたにそれを話し始めた。
かなたはそこから先のことについて、自分が何と返事をしたのか、相槌を打ったのか、どんな顔をしてイクの話を聞いていたのか、ほとんど覚えていなかった。
たださっきのイクの話で、百梨が自分と友達になりたいと思っていると聞かされ、自分がそのことに思いのほか舞い上がっていたということ。そして百梨に好かれているのだったら、当然その従者のメイドたちにも同じような感情を持ってもらえているのだろうと思っていた自分の考えが、どれだけ甘いものだったかということを思い知らされたのだった。
………
以前、ヨツハが美河様に暴言を吐いたことがあるそうですね?その節は大変失礼いたしました。あの子に代わり、わたくしから謝罪させていただきます。
ただ、わたくしもそのときのあの子の気持ちがとてもよくわかります。率直に申し上げると…わたくしも、美河様の事が嫌いです。
申し訳ございません。ですが、これはわたくしの嘘偽りない真実の気持ちでございます。謝罪はさせていただきますが、訂正は出来かねます。
その理由としましては、美河様はわたくしたちが心酔するお嬢様とかけ離れている。むしろお嬢様にとっての障害になりうる、とわたくしたちが考えているからです。貴女の存在は、いつの日かお嬢様とわたくしたちの夢にとって邪魔者となる……。
だから今のうちに、出来れば美河様ご自分から、お嬢様の前からフェードアウトして姿を消して下さると、わたくしたちとしてはとても助かります。きっとそのときのヨツハもそういったことを考え、美河様に暴言を吐いたのでしょう。美河様が気まずいお気持ちになって、お嬢様とわたくしたちから疎遠になればよいと思って…。しかし、貴女はそんなヨツハの思いなどには気付きもせず、てんで平気な顔をしてこの旅行に現れた……。わたくしたちは今日それを知ったとき、非常に落胆いたしました。
ですから、もう遠回りなやり方はやめにして、お嬢様の本当のお姿と、わたくしたちの本心をお伝えして、直接的にお願いすることにいたしました。それが、先ほど美河様にあの場にいていただいた理由です。
………
「お願いいたします。どうか、今すぐお嬢様の視界から消えていただけませんか?学校をおやめになって、金輪際お嬢様にそのお顔を見せないと、この場で宣言して頂けませんでしょうか?」
「は、はは……手厳しいな…」
そのとき、何故だか自分は笑っていたような気がする。
後から思い返したとき、かなたはそう思った。
「でもさ、正直学校やめるってのは、ちょっときついかな…。あの学校って学費が安くって、あたし…ってか父さんが、すごく助かってるんだよね、家計的に。お嬢様が卒業するまで、あと半年くらいだろ?申し訳ないけどさ、もうちょっとだけ我慢してもらえないかな?学校を卒業さえしちゃえば、あたしとお嬢様に接点なんてないし、あたしの顔なんてもう見なくて済むだろ…?それまではあたしも、なるべくお嬢様には近づかないようにするからさ…。な、頼むよ?ははは…」
「ちっ」普段上品な彼女には珍しく、イクはそのとき舌打ちをした。「そうですか。それは非常に残念です」
そのときのイクの言葉たちは、もはやかなたの心には届いていなかった。そのときの彼女は、落ち込むでも、怒るでもなく、ただただ乾いた微笑みを浮かべていた。
「話ってそれだけ?じゃあ、そういうことで……」
そして、あくまでいつも通りの態度で、その場を立ち去ろうとした。イクの隣を通りすぎる瞬間、かなたは彼女がぼそりと呟くのを聞いた。
「…どうかお忘れなく。貴女が今のような考え方を続ける限り、貴女はわたくしたちにとっての邪魔者……むしろ、敵ですので…」
それだけ言うと、イクの方も完全にかなたに興味を失っでしまったようで、さっさとその場を立ち去ってしまった。かなたは「はは…」と、また乾いた笑いを浮かべて、展望台に向かった。
彼女はやはり、心のどこかではこうなると予想していたのだろう。自分という人間は、他人からこういうことを言われてもしょうがないのだと、諦めてしまっていたのだろう。
※
――あー!我慢できねえっ!カナ、やっぱ代われ。俺の腹の虫が収まらねえよっ!あの七五三木ってやつ、今からでもぶっ殺してきてやる!――
さっきイクと出会ってから今まで、荊はずっとかなたの頭の中で怒りを爆発させていた。しかしかなたの心は全く乱れていない。いつも以上に、冷静のままだった。
――一番残酷で、苦痛を感じる方法で、ぶっ殺す!それくらいしなきゃ、カナを侮辱するようなあいつの罪は……――
「荊…」
かなたはベンチから遠くを見つめる。
その展望台のベンチから見えるのは、真っ暗な海、そして真っ暗な夜の空だけだ。
「あははは。お前、今更何言ってるんだよ?あたしって、結構前からこんな感じだよ?人に嫌われるのなんて、あたしにしてみたら全然普通でさ。ははは、こんなの、もう慣れっこなんだよ……」
――カナ…――
そのときかなたが見ていたのは、夜の海の風景ではない。かつての、荊と出会う前の、過去の光景だった。
※
………私たちが折角助けてやろうとしてんのに……あんた一体、何考えてんの………全然意味わかんない……気っ色悪い……。
※
「まあでも、面と向かって『嫌い』って言われたのは久しぶりかもなあ。昔だったらそんなの当り前だったのにさー…。ほんと、最近のあたしは、そういうのあんまり言われなくなってたから、ちょっと勘違いしちゃってたよ…あはは」
――…そんなこと言うなよ。カナ――
かなたは、まるで他人事のように笑っている。
「ハロウィンとか、クリスマスとか…あはは…バレンタインも、一応あれ、あたしは数に入ってたのかな?あたしみたいのが、みんなと仲良くできてる気がして…。『普通の女の子』になれた気がして……。そんなわけないのにさ…」
――カナ、違うぞ。お前は間違ってる…――
中学時代のかなたの記憶が、彼女の頭の中にはっきりとよみがえる。
かなたの父親の浮気が発覚し、友人と思っていた人間たちに見放されて孤立してしまったかなた。彼女たちの口から、かなたは何度もひどい言葉が発せられるのを聞いてきた。
それは最初は、かなたのことを思いやったがためだった。かなたのことを守るため、彼女の尊厳を守るため。彼女の父親がいかに最低な行為をしたかということを彼女に知ってもらいたくて、周囲の人間たちはあえてその父親を非難するような厳しい言葉をかなたに聞かせ続けた。しかし、かなたはそれに必要以上に反発し、自分がどれだけ間違っていると言われても、父親のことを守り続けた。まるで、父親の罪を自分が肩代わりしてあげたいとでも言うように……。やがてしばらくすると、その願いが叶ったかのように、非難の言葉は父親ではなくかなた自身に対して向けられるようになった。
かなたはそれを否定したりはせず、反発したりせず、全てをそのまま受け止めてきた。そんな状態こそが正しいこと、自然なことなのだと自分に言い聞かせ、そう思い込んできたのだった。
父さんには、きっと何か理由があったんだ。だからどんなことがあっても、あたしだけは父さんを守りつづける。父さんさえ守れれば、自分のことをどれだけ悪く言われたって構わない。自分が嫌われるのは、仕方がない…。
――カナ…。ここにはもう、お前を嫌ってるやつなんかいない……――
かなたには、荊の言葉は届いていなかった。
そのときのかなたは、ただただ目を閉じ、自分の気持ちがどこまでも落ちていくのにひたっているだけだった。そこにあったのは、悲しみというほどはっきりと突き刺さるものではないが、漠然と頭の中に居座って彼女を支配するもの。純粋な、虚しさだけだった。
次第に、ビーチの方が騒がしくなってきた。
人の声にまぎれて、楽器の音が聞こえる。
だが、今のかなたはそんなことを気にしない。
――カナ…――
きっとこんなあたしは、これからもずっと一人ぼっちなんだろうな…。
――カナ!――
やがて無気力にベンチから立ち上がると、かなたはやって来た時の歩道に向かって歩き出した。
ああ…今って一応、お嬢様を探すってことになってたんだよな?じゃあ、振りだけでもしとこうか…。どうせあたしなんかじゃあ、みんなの役になんかたてないだろうけどさ…。
――カナっ!――
ぐったりとした、やる気のないかなたの足取り。それは完全に、全てが嫌になった者のそれだった。
当然だよな。
だってあたしは、誰からも愛されずに、みんなから忘れられて、孤独に死んでいくんだからな……。はは、二十六木先輩の言う通りだよ……。
――カナ、おかしなことを言うな!お前はちゃんと愛されてるよ。お前を愛しているやつはちゃんといる――
いないよ。
――いるさ!――
だって……だってさ……。
守っていたつもりの父さんですら、あたしのことを避けてたんだぜ…?
きっとみんなも、裏ではあたしのことを……。
――……お、俺はっ!お前のことが……――
「え」
その瞬間、かなたの背後でバアーン、という大きな音がした。
まるで、TVドラマの拳銃で撃たれたシーンのような、耳をつんざくような音。
驚いて振り向いたかなたは、先ほど自分が座っていたベンチ、さらにその先に見渡せる夜の海が、カラフルな光に染まっているのに気づいた。
バーン!バーン!
大きな音は、更に何度も繰り返し響く。そのたびに、夜の海に光の花が咲く。
「花火か……きれいだな…」
その打ち上げ花火は、ライブステージの周囲を取り囲むようにセットされているようで、花開く位置も普通のものよりも低い。かなたのいる高台からだと、ちょうど目線の高さで火花がさく裂して、その瞬間、自分の周囲だけ夜が明けてしまったのではないかと思うほどの光が広がった。
そんな近くで花火を見たのは初めてだったかなたは、さっきまでの虚しさを忘れてしまって、ひとときその光景に釘づけになっていた。
「どうせなら……みんなで、見たかったな…」
――…お、お、お俺が、い、いるぜ……――
「……荊」
――かかか…か、カナ……お、おま、お前は……ひひひ、一人じゃあ……――
「ふふ……それはもうわかったよ。あたしのこと、励ましてくれてるんだよな?……ありがとうな」
まだいくらか皮肉さを含みながらも、かなたは微笑みながら言った。
「なんか、こんなすごい花火見たせいか、ちょっと気が晴れたよ……やっぱお金持ちのやることはすごいよな………お前は見たことあるか、こんな…………ん?」
――おお、おお、俺は……お、おまおまお前のことを……――
「おい……荊、どうしたんだ?なんかさっきから……お前ちょっとおかしくないか……?え?もしかして…壊れちゃったのか?」
止まることなく打ち上げられる花火に、かなたの落ち込んでいた気分も徐々に上がってきていた。だが今度は、荊の方の様子がおかしなことになってしまっている。
――お、お、お、俺は……俺は………こ、こわ……――
「え…、もしかしてお前…」
かなたは、そのときに頭の中に流れ込んでくる感情に、見覚えならぬ、感じ覚えがあった。
「え、え、え?う、嘘だろ?お、お前、海だけじゃなくって、花火も…とか、言うなよな?はは…」
――べ、べ、別に…は、はな、花火?な、なんて…こ、怖くなんて…怖いわけが……へ、へへ…――
荊はそう言うが、かなたの頭の中には、ぶるぶると体を揺さぶり、歯をガタガタと震わせている彼のイメージがはっきりと伝わってくる。
その、あまりにも無様な様子が断じて自分の物ではないと確信していたかなたは、今回も、その感情を自分の物と混同することはなかった。だから、彼女がそのときの荊に対して感じていた感情はただ一つだった。
「水も怖い、花火も怖いってっ!お前どんだけヘタレだよっ!?だっさ!お前だっさーっ!」
――べ、べ、別に……こ、怖くなんて……ひ、ひぃー!――
それから数分間、絶え間なく花火は上がり続け、そのたびに荊は情けない声を出した。そしてその間中、かなたはそんな荊のことを腹を抱えて笑ったのだった。




