10
「バカな…」
百梨の発言を信じることの出来ない月夜は、語彙を失ってしまって、その言葉を何度も何度も繰り返していた。
バカな…。そんな、バカな……。
そう、確かにそのときの百梨はバカだった。月夜たちの教育の成果によって完全にバカになっていた。だがそれは、彼女が望んで手に入れた愚かさだった。彼女は月夜たちの計画も、鞠子の悪意も知りながら、それら全てを『知らない振り』をして受け入れてきた。周囲の人間全てが幸せになる方法を考え、そのためにそれが一番いいことだと信じて、ひたすらに愚かさを身にまとい続けてきたのだった。
「私って、やっぱりバカだからさ…、正しいこととか、普通のことって、よくわかんないや…」
百梨は、また床のガラスを拾い始める。
「だからどれだけ考えても…、やっぱり1÷3は1がいいな……。みんなが一個ずつ桃を食べられて……誰も我慢しなくってもいい……そんな答えが、私は好き…」
月夜は、かつて自分が出した単純な算数の問題を、百梨が全く解くことができなかったことを思い出した。
「それにさ…芽が出過ぎて間引くしかないんなら、畑をたくさんつくって、余った芽はそっちに植えたらいいんじゃない?全部の芽が、いつか綺麗な花を咲かせられるように…」
星那は、今まで自分が目にしてきた愚かな百梨の姿を、ただ単に彼女の欠点だと思っていた。
「そんな風にさ、一生懸命考えれば、誰も見捨てなくてすむ答えはきっとあると思うんだよ…。誰も傷つけなくて、誰も悲しまなくていい。みんなが幸せになれる選択肢が、きっとどこかにはあると思うんだよ……だったら私は、それをさがし続けるよ。…それがわかるまで、一生懸命考えるよ。それが…、それが叶うのが、私の幸せだから…」
だが彼女の愚かさは、既に欠点ではなかった。
彼女は他人よりもずっと愚かで、愚か過ぎて、そうではない他人には見ることが出来ないような景色を見るようになっていた。他人とは全く違う目で世界を見ることが出来るようになっていたのだった。
「い、いーんすか…」
星那の、絞り出すような呟き。やがてそれは叫びのように激しくなる。
「お、おじょー様はそれでいーんすかっ!?だって貴女はさっき鞠子のせいで、何より大事にしてた物を失ったじゃないっすか!はじめっからあいつのことを告発しておけば、こんなことにはならなかった!あいつを始末しておけば、貴女は何も失わずにすんだのにっ!」
百梨は、俯いていた顔をあげる。
「うん…確かにこの人形は、すごく大切な物だったからさ…。ほんとは、こんな風にバラバラにしないで返してもらえたら、いいなあ、って思ったんだけどね…」
「ほら!やっぱりそーじゃないっすかっ!結局何だかんだ言っても、貴女はあいつのことを憎んで…」
「でもさ…」
そして百梨は、涙を浮かべた目を星那と月夜に向けて、にっこりと笑った。
「やっぱりこれは、今の私が選べる『最善の選択肢』だったと思うんだ…。だって、このガラス人形がこんな風になったお陰で、鞠子ちゃんはとっても喜んでくれたでしょ?……それに月夜ちゃんと星那ちゃんが、こんな風になっちゃったことを私と一緒に悲しんでくれたでしょ……?私のことを、励ましてくれたでしょ…?」
「そ、そんな……」
自分たちにそんなつもりはない。月夜はそう言うつもりだった。
「私はそれだけで、すっごく嬉しいんだよ……ありがとうね、二人とも…」
しかし月夜には、そのときの百梨を否定することなど出来なかった。
二人が初めて零子に会ったときに見たものとよく似た……いや、あのとき零子が二人に見せたものの何倍も、何百倍も、何千倍も、優しくて暖かい笑顔を向ける百梨。その笑顔を見た月夜は、そのときの自分が、今まで感じたことのないような感情に包まれてしまっていることに気付いたのだ。
「……今の私はまだバカだから、友達三人のことしか考えられないんだけどさ…。これをずっと続けていけば、次は四人、その次は五人って…、幸せを揃えられる人の数を増やしていけるよね?そしたらさ、もう最後には、世界中のみんなの幸せが、ぴったり無理なく叶っちゃうような、そんな『最善の選択肢』を見つけることが出来るんじゃない…?それって、すごい素敵だよね?それが、私の一番の夢なんだ…。だからそれを目指している限り、私はいつだって幸せなんだよ……」
月夜は考えていた。
自分たちは、生まれてからずっとこの世界を呪ってきた。世界と敵対し、世界に復讐する事だけを考えてきた。
それだけしか、考えられなくなっていた。
しかし、目の前で涙と血をだらだらと流しながら優しく微笑んでいる少女は、そんな自分たちの願いを叶えたいと言った。願いを叶えるために、望んで復讐されようと言うのだ。
自分たちは自分たちのことしか考えてこなかったというのに、この百梨は、既にそんな自分たちのことを救うことまで考えていた。自分たちどころか、世界中の全ての人間を幸せにすることまで考えていたのだ。
「まるでスケールが、違い過ぎる……」
「月夜ちん……」
「…敵いませんね」
二人は、お互いにしか聞こえないような声で話し合う。
「自分らって、もしかしてすごい思い違いしてたんじゃないっすか……?」
「ええ…」
「自分らは、生まれてすぐに親に捨てられた。だから、この世界にも見捨てられた存在で……世界に復讐するのも、当然だって……」
「そう、思っていたわ………今までは。でもそれは…間違いだったみたいね」
星那は静かに笑う。
「はははは…。自分らってば……この世界のこと、なーんも知らなかったんじゃないっすか。それなのに、世界に復讐してやろうだなんて…………笑っちゃうっすよ。自分らを捨てたのは、自分らの親だけで…、そんなのは、広いこの世界のほんの一部でしかない…………世界には、こんな自分らのことだって救ってくれる……、愛してくれる人がいるっていうのに……こんなに近くに、いたっていうのに……」
「だって……知るわけないわよ……」
月夜もつられるように笑う。
「この世界に、こんなバカなやつがいるなんて……想像出来るわけないじゃない……あはははは…」
「ふふふ…ははははは…」
二人は声を揃えて笑った。
それは、世界を呪い続けてきた彼女たちにとって生まれて初めての、心のそこからの喜びに満ちた笑顔だった。
「ちょ、ちょっとぉ!?どうでもいいけどさっきから、私の事バカバカって言い過ぎじゃなぁい?ひ、ひどぉーい!これでも私、一生懸命考えたんだけどぉー!」
流した涙をぬぐいながら、ぷんすかと憤慨する百梨。
月夜と星那は、そんな彼女のことを本当にかわいらしいと思った。
好きだと、思った。
そして二人は百梨のそばに近づき、彼女と同じようにしゃがみこんだ。
「さっきから、一体どこに目をつけていらっしゃるのですか?ガラスの破片は、こちらにも沢山落ちていますよ?全く、だからお嬢様はバカなのですよ……」
「なにそれ、ちょっとぉー!」
「ほらほらー、こっちにもいっぱいあるじゃないっすかー?だいたいこのくらいの破片ー、割れた瞬間に落下地点を目で追えるぐらいじゃなくってどーするんすかー?さっすがポンコツのおじょー様っすねー」
「いやそれ絶対無理っ!人間の限界越えてるよおっ!」
ガラスの破片を拾いながら、月夜と星那は二人言の続きをする。
不思議ね。さっきまでは、復讐だけが生きる目標だったのに……。それさえ出来れば、自分は死んだっていいって思ってたのに……。今はそんなものなくったって、この人がいる世界なら生けていける、生きていたいって思うわ。
そっすなー……。それどころか自分……どーゆーわけか、どんどんどんどん、やりたいことが浮かんでくるんすよ。この人の為なら何でも出来るような……何にでもなれるような気がするんすよ。
わたくしたち……今まで縛られていたものから、解き放たれたのね。
自分で可能性を、狭めてたんすなー。
まるで……。まるで……。
世界が全部作り替えられたみたい。世界に新しく産み落とされたみたいっす。
わたくしたち、生まれ変わったのかしら。それとも、まだ生まれてなかったんすかね。
新しい世界……新しい私たち……。
二人は目を合わせ、頷き合う。
「お嬢様」
「もうー、今度は何よー!?」
「よろしければ、わたくしたちに、名前をつけていただけませんか?」
「えっ、な、名前?で、でも、二人には月夜ちゃんと星那ちゃんていう、ちゃんとしたかわいい名前が……」
「その名前は、かつてのわたくしたちの名前です」
「その名前を聞くと、昔の辛い記憶を思い出しちゃうっすよー」
「だから、他の誰でもない貴女から、わたくしたちの新しい名前をいただきたいのです……」
百梨はガラスを拾う手を止めて、しばらく難しい顔で考える。
「……うん!わかった!」
そして、すぐに笑顔で力強く頷いて、そう言った。
「ありがとうございます。それでは後日、良い名が思い付いたときにでも……」
「七五三木イクちゃんと、二十六木ヨツハちゃんなんて、どおかなあー!?」
礼を言って頭を下げようとした『イク』が、硬直する。
「は……?」
隣の『ヨツハ』も、ひくひくと顔をひきつらせる。
「へ……?」
「えっとね、私の家が千本木で、千でしょ!?だから二人の名字にも数字が入ってたらいいなあって思ったのっ!でねでね、だったら名字だけじゃなくて、名前全部が数字だったらもっといいかなあって思ったのね!だからイクちゃんは奇数で、ヨツハちゃんは、偶…数……あ、あれ?」
呆れ顔で百梨を見ている二人。百梨の方は、どうしてそうなっているのか分からず、二人をキョロキョロと見回した。
「だ、ダメかなあ……?か、かわいくないかなあ……」
「……というかですね、お願いしてから答えが出るの、早過ぎませんか?絶対、わたくしが言ってから考えた名前じゃないですよね…?」
「言われてから考えてたら、そんなソッコー出てくるわけないっすもんね…。そもそも、双子なのに名字を別にする意味もわかんないですし……。え?それってあらかじめ用意してあった名前ですか?もしかしておじょー様って、暇があればそーゆーのいつも考えてるとか?そーゆー、中二臭い名前を……」
イクとヨツハに言われて、だんだん顔を赤くしていく百梨。
「い、いや………い、いいじゃない!別にいいじゃない!カッコいい名前じゃないのっ!だ、だいたい私、まだ年齢的には小学生だしっ!中二っぽいとか何の問題もないしっ!そ、そんなこと言うなら、変な名前つけるよ!声に出すのも恥ずかしいような、すっごい変な名前にするよっ!?」
「ほほーう……」「ふふーん……」
二人は揃ってにやける。
「声に出すのが恥ずかしー名前って、どんなっすかー?ちょっと試しに言ってみてもらえますー?」
「わたくしたちはどれだけ恥ずかしい名前でも構いませんよ?さあ、ぜひともお聞かせいただけますか?そのご自分のお口から…」
「うぅぅ…」完全に二人に追い詰められた百梨。恥ずかしさで顔を真っ赤にして、大声で叫んだ。「もう、知らないよっ!だったら最初のやつでいいじゃん!二人は今日から七五三木イクちゃんと、二十六木ヨツハちゃんだよっ!私、勝手にそう呼ぶからねっ!」
そう言ってぷいっと顔を背けると、またガラス拾いに戻ってしまう。イクとヨツハは、そんな百梨を見つめながら、胸の奥から熱いものがわいてくるのを抑えることが出来なくなっていた。
これでもう……私たちはお嬢様のものです…。
お嬢様のお陰で、下らない契約に縛られた二人の少女はどこにもいなくなりました。私たちはたった今、別の人間として生まれかわったのです。貴女が私たちを、この世界に生みなおしてくれたのです。涙ではなく、笑顔と共に…。
ありがとうございます、お嬢様。
私たちに新しい命を与えてくれた貴女なら…、『好き』を与えてくれた貴女なら…、あり得ない無謀な夢だって、うっかり叶えてしまうかもしれない…。七十億のパズルのピースを全部揃えることだって、出来てしまうのかもしれませんね…。勝ち負けとかそんなのを超越した新しいルールで、全ての人間が幸せになれる世界を作ってしまうのかもしれませんね…。
ならば貴女から貰ったこの新しい命は、その夢の実現のために使うと誓いましょう。私たちは全身全霊をかけて、貴女のパズルをお手伝いさせていただきます。
だからもし、その夢が叶ったときには………世界中の人間を救おうとするその愛を、私だけに……。
それからしばらくして、三人は散らばったガラス片を全て拾い集めた。
そのカケラを合わせてみると、全てのパーツは過不足なくぴったりと組合わさり、ヒビこそあるが、元のように美しい天使の人形が出来上がったのだった。




