03
それから更に数年の月日が流れた。
月夜と星那はつつがなく、そつなく、それでいて友情を求める百梨の気持ちを絶妙につきながら、彼女の友人を演じ続けた。その意味では、友人として百梨の信頼を得るという二人の当初の目的は、完ぺきに遂行されていると言うことが出来た。
「月夜ちゃん!星那ちゃん!ねーねー、今日は何して遊ぼっか!?ゲーム?トランプ?それともおうち全部使ってかくれんぼなんて、どうかなっ!?」
「お嬢様…、お遊びの前に、昨日わたくしが出した宿題はやっていただけましたか?未だに算数の基本中の基本である微分方程式も使いこなせないようでは、実生活に支障がでるレベルですよ?」
「うう……、だってあれ、なんかよくわかんないんだもん……」
「よくわかんない、よくわかんない、ってー!おじょー様いつもそれじゃないっすかー!?この前だっておんなじようなこと言ってー、自分が課題で出した『水中フルマラソン』、スタートしてすぐにリタイヤしちゃったじゃないっすかー!せめて普通の小学生の平均タイムくらいは出せるようになっとかないと、同い年の子と会ったときに笑われちゃうっすよー?」
「あ、あれって、ほんとにみんなやってるんだよねっ!?私、どうやってもあれをゴール出来る気がしないんだけどっ!?」
二人は百梨と表面上はすっかり打ち解けていて、自分たちしかいないところでは、二人とも本来の姿に近い態度で接するようになっていた。
「で、でもぉ……、そんなことより今は遊ぼうよぉ!私、今日は遊びたい気分なのぉ!ねーえ!ねえったらあー……あ、お、お母様っ!?」
「お嬢様、それでは昨日の授業の続きの、微分方程式を応用した分数の約分手順についてですが……」
「それでは自分は失礼して、プールの整備をしてまいります。算数の授業が終わりましたら、いつものようにウエットスーツにお着換えになってから屋内プールまでお越し願います…」
「え、ええ……星那さん、それではまたね。さ、どうぞ月夜さん、授業の方、始めていただけますかしら?おほほほ……」
契約のことがあったため、二人が百梨に授業をしている間は、他の人間は誰にもその部屋に近づかせないように取り計らってあった。だが契約のことを知っている百梨の母、零子についてはその例外で、彼女はときどき様子を見に百梨の勉強部屋にやってくることがあった。
「百梨…最近、何か困っていることはある?」
「い、いいえ!ありませんわよお母様っ!?な、何にも!ほんとに何にもないからっ!」
「そう、それならよかったわ……」
しかし、来たからといって彼女は何かをするというわけではなく、いつも百梨と二、三言話しただけで、すぐに部屋を去っていってしまうのだった。
月夜と星那にとって、既に完全なる信頼を手に入れていた百梨のことは、もはや操り人形も同じで、彼女たちの計画の遂行には何の問題にもならないと思っていた。だが、そんな二人をまるで牽制するかのようにときどき百梨の様子を見にやって来る零子の存在だけは、常に警戒の対象だった。
例の契約は、未成年の二人が正式な代理人を立て、第三者による証人まで用意して結んだ、完全な法的拘束力をもつものだ。しかしもし、今更になって零子の気が変わって、やはり契約はなかったことにしたい、などと言い出したら……。世界を動かす力をもつ零子ならば、自分で一度結んだ契約を反故にすることだって簡単にできるのではないか…。
全てが順調に進んでいた月夜と星那にとって、零子がそんな風に権力を行使して契約をぶち壊しにしてしまうことだけが、唯一の懸念事項だったのだ。
「い、行った?行ったよね?……ふう、緊張したあ」
零子が部屋を去ったのを確認してから、大きく息を吐く百梨。月夜はそんな様子をみて、思わず笑みをこぼしてしまう。
「ふふ、緊張ですか…。お嬢様でも、奥様のことはやはり苦手でいらっしゃるのですか?」
百梨はぶるぶるぶるっと何度も首を振る。
「に、苦手?そ、そんな訳ないよっ!お母様のことは大好きだよ!?で、でも……、だからこそ、あんまり無様な姿は見せらんないじゃない?わ、私って、ほら、お母様と比べると、あんまり出来がよくなくって……そんな私のせいで、みんなからお母様のことまで悪く言われるようになっちゃったら、すごく申し訳なくって……。今の、空っぽの、誰にも相手にしてもらえないような私が、お母様の娘なんて…そんなのダメだから……」
「はあ…」
そんなことを百梨が言うたびに、不器用な母娘のふれあいを見せつけられているような気分になり、月夜はひどくイラついてしまった。だがそれと同時に、将来自分がそんな二人の人生をめちゃくちゃに出来る日が来ることを思うと、今度はその苛立ちが強い喜びに変わるのだった。
実際、月夜と星那の計画は順調すぎるほど順調に進んでいた。
二人は教育係として、とにかく百梨に適当なことを教え続けた。適当なことを、さも、それが正しいことで、他の人間も同じようにやっている事なのだと教えてきたのだ。その結果百梨は、誰もが分かるような単純なことを不必要に遠回りして考えてしまうようになり、同年代の子供ならば当然出来るようなことが、全く出来なくなってしまっていた。しかも、はじめから正解を知っている月夜や星那はそういった遠回りを上手に迂回する方法を心得ており、お手本と言って百梨の前で見事にそれをやりとげてしまう。同い年の二人に出来ることなのだから、他の人間も当然出来るはず、出来ないのは自分だけだ、と思い込まされた百梨は自分のことを過小に評価して落ちこぼれと思うようになり、全てのことに対して苦手意識を持ってしまうようになっていた。
二人によって百梨は着々と無能へと育てられており、このままならば高校卒業時に彼女が月夜と星那を超えることなど、誰が見ても絶対に不可能に思えた。
例えば、ある日の百梨は…。
「そもそもさ、分数って何なんだろ?私、意味がよくわかんないんだよねー」
「え?あ…はは……そ、そうですね、例えばここに、お嬢様のお好きな桃が一個あったとします。それを、わたくしと星那とお嬢様、三人で分けるとすると一人分はどのくらいになるか、というような命題を解くときなどに…」
「ちょっと待って!私、桃はまるまる一個食べたいんだけどっ!」
「いや、だから…仮に今ここには一個しかないとしてですね……」
「やぁだー!私、いつも桃は一個って決めてるのぉ!」
「ですから、これは話の例えとしてですね……」
「あ!買ってきてもらえばいいのね!?あと二つ買ってくれば、一人一個になるわ!」
「……そうですね。じゃあもうそれが正解でいいです」
「なるほど分かったわ!じゃあ答えは『1』、と…」
また、ある日は…。
「あれ?あの庭師さんは何をやってんだろ……?この前蒔いた花の種がせっかく芽をつけたのに、今日はそれを抜いてる……?」
「いや、あれは間引きとゆってー、いらない芽を抜いて、残った芽の方に十分な栄養を送るってゆー、園芸の技術でー…」
「えっ…とー…?雑草を抜いてるってこと?」
「いや雑草じゃなくってー、花の芽は花の芽なんすけどー……」
「え?え?花の芽を育てる技術なのに、花の芽を抜くの?何で?意味がよくわかんないんだけど……」
「っだーかーらー…、あんまりたくさん芽が出てもしょーがないからー、必要な分だけ残して、残りは抜いてしまって……」
「え?だって種を蒔いたのってあの人だよね?自分でたくさん蒔いたのに、芽が出てみたら今度は『え、なにこれ!?たくさん出すぎ!』って言って抜いてるの?なんで?バカなの?最初っから、必要な分だけ種を蒔けばいいじゃん?」
「だー!あーもー!だからっ!種の状態から芽がでるにはたくさん必要なんすけど、芽が出たらもう必要はないから……」
「あ、そうかストレス?さてはストレス発散のためだねっ?芽をぶちぶち抜いて、ストレス発散してるんでしょ!?だって、庭師さんの仕事って神経使いそうだもんねー!あ、そうだ!じゃあ、みんなであの人をねぎらって、紅茶でも淹れてあげましょうか!?」
「……ええ。そっすねー、それがいーっすよー…」
…という具合だった。
そもそも百梨は二人が来る前から、終始他人が理解できないようなことばかりして周囲の人間を呆れさせていた。だから、二人によってわざと百梨に植え付けられたバカさは、彼女が元から持っていた生来のバカさの影に隠れてしまって、表面にまで現れることはなかった。バカな百梨の姿を第三者が見たとき、彼らはそれを、『二人の教育で百梨がどんどんバカになっている』とは思わず、『家庭教師まで雇って勉強しているのに、お嬢様は相変わらずの天然っぷりだ』と、とらえることしか出来なかった。本来ならば適切な指導によって矯正されるはずの百梨のバカさを、月夜と星那は自分たちの計画に積極的に利用したのだった。
だから周囲は二人のことを、『バカなお嬢様の教育係としていつも頑張っている健気な姉妹』という風に好意的に受け取り、彼女たちのことを怪しむ者など誰もいなかった。すべての要素が月夜と星那の味方をし、ここまで、彼女たちの計画は何の問題もなく進んでいたのだ。
だがそんな順調な彼女たちの計画に、ある日小さなほころびが入ることになった。




