02
千本木家についてから月夜と星那を待っていたのは、壮絶な日々だった。
世話係としての研修と、教育係としての厳しい特別トレーニングは、二人が朝起きてから夜寝るまで、一時も途切れることなく続いた。特に後者は、本来ならば長い時間をかけて行われるはずの内容を非常に短い時間に圧縮して行っているため、軍隊の訓練と比較しても数十倍はきついと言えるような非常に過酷なものになっていた。まだ十歳にも満たない女の子にはもちろんのこと、たとえ対象が大人の男性だったとしても、一時間も耐えられずに逃げ出すような厳しい訓練。しかし二人は、そんな拷問にも似た訓練に泣き言ひとつ言わずに真面目に取り組み、そればかりか、自ら積極的にハードルを上げ、そのハードルを飛び越え、常に求められている以上の成果を出し続けた。
月夜は思っていた。世界への復讐を果たすまで、自分はどんなことがあっても諦めるわけにはいかない。星那は決意していた。復讐のためなら、自分はこの命を投げ出してもいい。そんな強い憎しみの気持ち、自分たちを捨てた世界への復讐心に突き動かされていた彼女たちには、不可能なことなどなかったのだ。
そして彼女たちが零子に連れられて孤児院を離れてから丸三年の月日がながれ、ついに、世話係、教育係としての準備を全て整えた二人が、初めて百梨と顔を合わせる日を迎えたのだった。
「お嬢様、お目にかかれて光栄です。わたくしはお嬢様の身の回りのお世話と、奥様の方針で小学校には行かれないお嬢様に、その分の勉強を教えさせていただきます、月夜と申します」
黒ぶち眼鏡の向こうの知的な瞳で百梨をとらえながら、長い黒髪をさらさらと揺らして頭を下げる月夜。彼女は、それまで重点的に知力と知識を高める訓練を積んできていた。その訓練中に発見した情報数学についての新しい法則は、世界を震撼させ、現代工学の常識を変えてしまうような大革新をもたらし、その功績のお陰で人類のコンピューターの歴史は十年以上進んだとまで言われていた。彼女のことを知る人びとは、尊敬と畏怖を込めて彼女を、『未来からやって来た万能人型計算機』と呼ぶことさえあった。
「お嬢様、自分は星那と言います。同じくお嬢様の身の回りのお世話と、お嬢様のお体のトレーニングを担当させていただきます」
月夜が一歩下がると、今度はその隣の、ボサボサ髪に日焼けした肌の星那が前に出て頭を下げた。丈の長い、真新しいメイド服の裾からは、厳しい訓練の中で負った無数の傷の跡がのぞいている。月夜と対称的に、彼女は運動能力の向上にウェイトをかけて、三年間の訓練を過ごしてきた。その訓練の中であらゆるスポーツと格闘術をマスターしてしまった彼女は、一度力試しのつもりで出た総合格闘技の大会で参加者の大半を再起不能にしてしまい、『地球外からやってきた戦闘民族』ではないかと疑われた過去さえあった。だが、今では力をセーブする方法も覚え、逆にどんな危険な目にあっても確実に対象を守り抜くことが出来る、鉄壁のボディーガードとしての能力を身につけていた。
二人が声を揃えて「よろしくお願いします」と言って、もう一度深々と頭を下げようとした瞬間、その少女は、いきなり二人に向かって飛びついてきた。
「月夜ちゃんに、星那ちゃんねっ!?私は千本木百梨っていうのっ!二人ともっ、よろしくね!」
ウエーブのかかった金髪をシニヨンでまとめた百梨は、そう言って年相応の無邪気さで笑う。そして、二人とつないだ両手をぶんぶんと上下に振ったり、ダンスでもするみたいにくるくると回ったりと、今日二人に出会えたことが本当にうれしいということを、体全体を使って表現していた。
「私たち、いい友達になれそうよね!ねっ!」
あらかじめ下調べをしていた月夜と星那は知っていたのだが、そのときの百梨は周囲から相当に甘やかされていたようだった。
欲しいものは何でも与えられ、この世の全てが自分の思い通りになる。周りの人間は決して百梨には逆らえず、誰もが百梨のことを持ち上げて、ほめそやしてくれる。そんな風にして育てられてきたのだ。彼女にとってこの世界はバラ色でしかなく、月夜と星那のような境遇の人間がいることなど、想像したことすらなかっただろう。
月夜はこのとき初めて会った百梨の第一印象として、「恵まれた環境によってスポイルされた馬鹿」という言葉を頭に浮かべた。星那の方でも、「この世の苦労を何も知らないただのぼんくら」として百梨を認識し、自分たちが将来裏切ることになる相手として、彼女は十分すぎるほど無能だと思っていた。
「そのようなありがたいお言葉をいただけたこと、どれだけ感謝しても、したりません。ですがお言葉を返すようで恐縮でございますが、わたくしたちのような下賤の者が、お嬢様のような高貴なお方の友人になるなど、誠におそれ多いことで……」
「…?…?と、友達に……なってくれないの…?」
「はい、申し訳ございません。お嬢様にはお嬢様の、わたくしたちにはわたくしたちの、立場というものがございます。それを逸脱してしまっても、お嬢様のお名前に傷がつくだけでございます」
「そ、そんなあ…。せっかく、同い年の子に会えたのにい……」
膝をついて、がっくりとうなだれる百梨。
その光景を見て、月夜と星那は静かにほくそ笑んだ。
不自由のない生活を送っていたそのときの百梨にとって、どれだけ欲しても唯一手に入らなかったものが、友人と呼べる存在だった。周囲にいるのは千本木家につかえるメイドや使用人の大人ばかり。そのうえ、最高級の教育を与えるためと称して百梨は幼いころから自宅で家庭教師による授業を受けていたため、同い年の子供を見る機会自体がほとんどなかったのだ。だからちょうどそんなときに現れた月夜と星那の存在が、彼女の目に『夢に描いた理想の友人』として映ったとしても、それは無理のないことだった。
そしてそれが、月夜と星那の狙いでもあったのだ。
星那は落ち込んでいる百梨のそばに近づき、彼女に手を貸す素振りをしながら、耳元でささやいた。
「私たちは、所詮一使用人。お嬢様の友人としては全く相応しくないのです……少なくとも、表向きは」
ぴくっと反応して、星那の方を振り向く百梨。星那は、周囲にいる千本木家のメイドや執事には見えないように口の前に指を立てて百梨の言葉を封じてから、また、かすかな小声で続けた。
「ですが……お嬢様が周りの人間にそのことを秘密にしていただけるのならば、何の問題もありません。私たちは、友達になれますよ…」
目を輝かせる百梨。星那は無言で小さく頷く。月夜の方に目を向けると、彼女も同じように微笑みかけながら頷いている。百梨はそんな二人へ返事をするように、無言で何度も頷き返した。
月夜と星那の計画は、『教育係として百梨に嘘を教え続け、契約の最後に行われるテストで百梨を完全に打ち負かす』こと。
そんな二人が一番気をつけなければいけなかったのが、その嘘が百梨にばれてしまうということだった。二人が嘘をついているということを知れば、当然、百梨はどうして自分にそんな嘘をついたのかと問い詰めるだろう。そうなれば契約のことや、その最後に受けることになるテストのことを知ってしまうことになるだろうし、それについての対策もとってくる。そんなことをされてしまったら二人の計画はそこで終わりだ。まだ幼い子供とはいえ、世界を動かせるほどの力を持つ千本木の一人娘ならば、身寄りのない孤児二人を誰にも知られずに消すくらいはわけのないことなのだから。
だからこそ二人は、事前に百梨からの確固たる信頼を得ておく必要があった。
自分が信頼している人間の言葉であれば、それがどれだけ信じがたいことだったとしても、盲目的に信じてもらえるだろう。そしてまた、何かのきっかけでそれが嘘であるということが露呈してしまったとしても、自分たちと彼女の間に信頼関係があれば「冗談だった」ということにしてしまって乗り切れる可能性も高い。だから彼女と出会ってまず自分たちが最初にすべきことは、彼女と自分たちの間に信頼関係、つまり友人関係を築くことだ。さらに嘘が露呈する危険性を排除するためには、その偽りの関係が、他の人間には知られていない状況がベスト…。
彼女たちは、そう考えていたのだった。
「じゃ、じゃあ、そういうことなら仕方ないよっ!うん、分かった!私たち、友達なんかじゃない!そうだね!そうなんだよねっ!………表向きは、ね?キシシ…」
百梨はわざとらしく大声で叫んでから、最後にこっそり二人に向かって笑いかけた。二人も、そんな百梨に笑顔を返す。それで、その日の二人と百梨との顔合わせは何事もなく終了、ということになった。もともと感情の起伏の大きかった百梨の性格もあり、使用人たちは誰一人として、月夜と星那の企てを知ることはなかったのだった。
その日の夜。
高い知能を持ち、精神的に完全に成熟している月夜と星那には、まだ中学生にもならないような年齢でありながらも二人専用の個室が与えられていた。
今はその部屋で、月夜はノートパソコンに向かって執筆中の学術論文の仕上げを、星那は百キロを超えるバーベルを片手の指一本で上げ下げして、日課のトレーニングを行っていた。
「ふふ…、ふふふ…あははは」
急に、月夜がパソコンに向かったまま乾いた笑いを上げる。笑いながらも、キーボードを叩く手は緩めず、それどころかその速度がどんどん速くなっていく。
「く、く、く、くくく……」
星那もつられて笑いだす。
二人は突然そんな風にして、心底おかしそうに笑い合った。
しばらくしてやっと笑いが収まったところで、月夜がつぶやく。
「た、たやす過ぎる……」
「くくく…、そっすなー、ホーントー…」笑いすぎて浮かんだ涙を拭う星那。「千本木零子の娘ってのを騙すのが、こーんなチョロいなんてー、逆に計画狂っちゃうっすなー」
彼女は、昼間百梨の前で作っていた丁寧な態度とは全く違う、本来のフランクな口調で同意した。
「と、と、と、友達になってくれないのぉ?」
「ぶふぅーっ!」
百梨を馬鹿にしたような月夜のモノマネに、星那はまた吹き出してしまって、指に乗せていたバーベルを落としそうになる。床すれすれのところで反対の手の指でそれをキャッチしてから、あきれたような顔になって頭をかいた。
「…つーかー、順調に計画が始まったとはいえー、正直ダルいっすなー。これから毎日、『契約』が終わるまでの十年近くも、あのバカと友達ごっこしなきゃいけないんすかー?」
「あら、そうかしら?わたくしはとても楽しみだわ」
体を揺らしながら、月夜はピアノでも弾くようにリズミカルにキーボードを叩いていく。
「だってそうじゃない?今のうちに出来る限りあいつの喜ぶことをして、徹底的にあいつを勘違いさせておけば、真実を知ったときにあいつが受ける絶望はその分だけ何倍も強くなるのよ…」瞳に嗜虐的な輝きを宿しながら、微笑みを浮かべる月夜。「ああ…、楽しみだわ。『契約』の期限、最後のテストのときになって、今まで自分が教わってきた事が嘘ばかりだったと…、自分がわたくしたちに騙されていたのだと知ったときの、あいつの顔を見るのが…」
「月夜ちんは、相変わらずドSっすなー…くくく…」
零子との契約は、百梨はもちろんとして、屋敷の人間にも誰にも知らされていなかった。
本当に千本木の娘としてふさわしい人間ならば、いつの日か自分から月夜と星那の裏切りに気づけるはず。零子のそういった考えにより、かの契約は零子と月夜と星那以外は屋敷内の誰も知ることがない、最重要の秘密事項として取り扱われていたのだった。
「さて……明日からは本格的にあいつへの授業が始まるのね。ふふ……しかもその授業の後、恐れ多くもわたくしたちのような下賤の者とお友達になってくれたお嬢様が、早速TVゲームでご一緒に遊んで下さるそうよ?」
「うわー、めんどくせー!」
「まあ、そんなこと言わずにせいぜい楽しみましょうよ…。わたくしたちの長い長い『ゲーム』も、今日から始まったのだからね。お嬢様と一緒に、これから十年近く遊んでいくことになる『ゲーム』がね……」
「一度始めたらやめることの出来ない、人生をかけた『ゲーム』っすけどね……」
そして二人は向かい合い、また小さな声で笑った。
私たちの計画は、お嬢様を騙し続けること。それが果たされたならば、『ゲーム』は私たちの勝ち。お嬢様たちはその時点で全財産を失い、没落する。
私たちが裏切り者だと気付ければ、お嬢様の勝ち。そうなれば私たちの人生はそこで途絶える。
敗者は全てを失い、勝者は全てを『取り返す』…。
さあ、『ゲーム』の始まりですよお嬢様、一緒に楽しく遊びましょう…。
二人のその邪悪な笑い声は、防音加工の施された部屋の壁に溶け込み、人知れず消えていくのだった。




