06
それから数分後。
「が、がはぁっ!げほっ!げほ…」
やっとかなたが、咳き込みながら意識を取り戻した。百梨もずっと続けていた動きをとめ、心からの安堵のため息をもらす。
「よかったわ…」
「あ……あたし……は……?」
まだぼーっとする頭を押さえながら、周囲を見回すかなた。横になっている自分の目の前には、微笑んでいる百梨の顔がある。その後ろでは、澪湖や音遠たちが、心配そうに自分の様子を覗き込んでいる。かなたは起き上がりながら、自分がなぜそんな状況に置かれているのかを思い出そうとした。
しかしそれが分かるよりも早く、溺れる直前まで頭の中を埋め尽くしていた恐怖の心が蘇り、かなたの体はまたさっきのように痙攣を始めた。
「あ、ああ、あああ……あ、あたしは…お、溺れそうになって……し、死…」
そんなかなたの手をとり、百梨はにっこりと笑う。
「大丈夫よ。もう、全部大丈夫だから…」
そして、震えるかなたを自分に引き寄せ、優しく抱きしめた。
百梨の暖かい体から、海水によって奪われたかなたの体温が戻ってくる。かなたはまるで、赤子が母親に抱きしめられているような、むしろ、母親の胎内に戻ってしまったような、そんな感覚になった。「大丈夫だから…」と繰り返す百梨の言葉は、かなたの全てを赦し、肯定してくれているようにさえ聞こえた。
「母…さん」
気付いたら、かなたは自然とそんな言葉を口走っていた。それまで彼女が感じていた恐怖は、まるで煙が空に溶けていくようにすぅーっと消えていってしまった。
更に数分後。
「大丈夫だからね……」
「おじょ……、せ、先輩……」
かなたの体の震えがまだ消えないので、かなたを抱きしめながら背中をさすってくれる百梨。だが、実はかなたはもう既に正気を取り戻すことが出来ていて、今は全く別の理由で震えていた。
「せ、先輩……あ、あの……あ、『あたって』ます…。せ、先輩の『アレ』が…や、柔らかいやつが…あたしにあたってて…」
次第に顔が赤くなっていくかなた。しかし、かなたを抱きしめている状態の百梨は、それには気付かない。
あ、あたし……絶対どうかしてるよ。こ、こんなときにまで、コンプレックス丸出しで、変なことを考えちゃってて…。
で、でも、だって、だってさ……あたしたち今、水着なんだよ…?こ、こんなのほとんど、裸みたいなもんでさ……そんな状態で、こんな風に抱き合ったりしたら……せ、先輩の胸が、あたしの真っ平な胸に押し付けられて…そ、それが、すっごい柔らかくて……。
やっと気持ちが落ち着いてきたかと思えば、自分を抱きしめている百梨の体の感触を全身で感じて、またすぐに心を乱してしまっているかなた。はたしてそれが自分の貧相な体からくるコンプレックスなのか、それとも別の理由なのかは、そのときの彼女にはよく分からなかった。
かなたの呼吸は荒くなり、自分の薄い胸を通して百梨にまで伝わってしまうのではないかと思うほど、心臓の鼓動が大きくなっていた。
や、やばいって……。こ、こんな状況で、あたしがこんなことになっているって知られたら……。こ、こんなに胸がドキドキしてて、先輩の体に興奮してるとか、思われたりしたら……。
い、いやっ!そんなわけないって!このドキドキはそういうのじゃなくって、ただ、自分が置かれてる状況がよくわかんなくなってるだけっ!緊張してるだけだよっ!そ、そのことと、先輩が想像以上にスタイル良すぎってことは全然関係なくって……て、っていうか、そうだよっ!女同士、他人の体がどうなってるかとか、気にするのって普通じゃないか!?へ、変な意味じゃなくって…ほ、ほらっ、学校でも、更衣室とかで他の生徒が、友達同士見比べ合ったりしてたよなっ!?だ、だから別に、今のあたしのもあれとおんなじで…。
かなたは、自分が今感じている気持ちが決しておかしなものではないと信じたかった。そしてそれを証明するために、友達同士が軽くじゃれ合うようなつもりで、百梨に声をかけた。
「あ、あの…はあ、はあ…こんなときに、言うことじゃないかもだけど……はあ、はあ…せ、先輩って、結構…いい体してるよな…はあ、はあ……」
しかし呼吸の荒いかなたの発言は、彼女が期待していたよりもずっと変態っぽく聞こえてしまう。自分でもそれに気付いて、慌てて訂正する。
「ち、違うんだよっ!はあ、はあ……あ、あたし別に、先輩の体に触れてうれしいとか、そ、そういうのじゃなく…はあ、はあ…た、ただ、先輩の体が想像以上に柔らかくって、なんか、すごいぷにぷにしてて…はあ、はあ……」
「………」
そんな自分に対して、じとぉーっという突き刺さるような視線が向けられていることに気付き、彼女は慌ててそちらに顔を向けた。
「…かぁなぁたぁー?どうして意識取り戻したばっかりなのに、そんなに顔真っ赤になって、嬉しそうにしてるのかなぁー?」
そこには、さっきまでは自分のことを心配してくれていた澪湖が、今は不愉快そうにこちらを睨みつけている姿があった。
え…?あたし今、嬉しそうな顔してた?は、はは…ど、どうしてかな?い、いやー、参ったなー、ほんとー…。
かなたは何て言って誤解を解けばいいのか、そもそもこれは誤解なのかどうかも分からず、とりあえず急いで百梨から離れたのだった。
それからしばらくたって自分の気持ちが落ち着いてから、かなたはそれまでの一部始終を一同から聞き、自分が溺れた理由を一同に話した。そうしてやっと状況を完璧に把握し、いつもの自分に戻ることが出来たのだった。
「本当に、全然何でもないのよ?こんなの普通のことだもの。気にしないでちょうだいね?」
百梨から心臓マッサージと人工呼吸を受けたということを聞いてから、かなたは全力で感謝と謝罪の意を述べた。
「で、でもっ!先輩はあたしの命の恩人ですっ!本当に、どうお返ししたらいいのか……。じ、人工呼吸まで……させてしまって……」
「だって、あのときはしょうがなかったのよ。一刻を争う事態だったのに、この場にやり方が分かる人間が、他にいなかったみたいだし」
少しも気取ったところなく、優しく笑う百梨。彼女が特に他意もなく言ったその言葉に、澪湖は気まずそうに顔を伏せた。
澪湖は、自分が正しい人工呼吸のやり方を知らなかったこと、そして、それを知らないにも関わらず、一秒でも早く処置をすることが求められる人命救助という場面に、詩歌との無駄な言い争いで時間を費やしてしまったことを、かなり反省しているようだった。本当ならすぐにでもかなたに抱き付いて、かなたが無事だったことを祝福したかったのだが、何も出来なかった自分にはその資格はないと思い、最初のジト目以降はかなたに話しかけようとしなかった。
詩歌の方は、「私は、やり方知ってましたけど……」と、ふてくされた子供のように何度もつぶやいているだけだった。
「で、でも……!」
いくら百梨が「気にしないで」と言っても、かなたの気は全然収まらない。自分のために体を張ってくれた百梨のことを、彼女は尊敬し始めていて、百梨の為なら自分に出来ることは何でもしようという気にまでなっていた。そんなかなたの気持ちを嬉しく思いつつも、「ただ貴女を救いたい一心で、体を動かしていただけだから」、「恩をうるつもりなんてないから」と、百梨は少し困った様子で返していた。
「どうか、お気になさらないでください……」
百梨に加勢して、イクもかなたに諭すように言う。
「美河様は、これまで通りお嬢様に接して頂ければよいのです。そんな風に、お気にやむ必要はございませんよ?」
「で、でも先輩っ!おじょ…千本木先輩は、あたしの為に…!」
「何もそんな難しく考える必要なんてないのですから」
「千本木先輩はあたしの命を救ってくれたんだ!あたしだって、先輩のためならどんなことでもするよっ!もうあたしにとって千本木先輩は親友……い、いやっ!それ以上の……」
その言葉を聞いた瞬間、目を輝かせる百梨。イクは優しく首を振る。
「だから、どうかお気になさらずに…。だってどうせ、人工呼吸などしなくても、美河様はご自分で勝手に目を覚ますことが出来たのですから、美河様がそれほど引け目を感じる必要性は……」
「え?」
それを聞くなり、一同は目が点になってしまった。
「ちょ、ちょっと…イク…そ、それって……」
「どうか、されましたか?」
逆に、皆がどうしてそんな顔になっているか分からないという風に、小さく首を傾げるイク。本当に何でもない風に、言葉を続けた。
「ああ、もしかして皆様は、ヨツハが美河様をここに連れてきたときに、美河様の胸が上下していたのに気付いておられなかったのでしょうか?胸が上下していたということは、肺が機能していたということ。つまり、呼吸が出来ていたということですよ?ご自分で呼吸が出来ている人間に、人工呼吸の必要はありませんよね?」
「あ…、あ…、あな…、あな…」
パクパクと口を動かして、イクとヨツハを交互に見る百梨。音遠や澪湖は、あんぐりと口を開けて呆れかえっている。
「それにヨツハが言いましたよね?美河様は『命には別状はない』…と。一般的に心停止、あるいは肺機能の停止は、放っておけば確実にその人間の命を奪うことになる、非常にクリティカルな状態です。つまり、命に別状が『ある』状態です。そんな状態だからこそ、人工呼吸や心臓マッサージといった医療行為が必要になるのです」
ふふっ、と鼻で笑って百梨を馬鹿にするイク。
「逆にいえば、『命に別状がない』美河様に対して、心肺蘇生法なんてものは全くもって不要だったのですよ。蘇生も何も、心臓も肺もしっかり生きていたのですからね。つまりさっきのお嬢様の行為は、美河様にとって何の意味もなかった。放っておけば目を覚ますのに、お嬢様が先走って勝手にやったことです。美河様が意識を失っているのをいいことに、お嬢様が勝手に美河様の唇を奪ったというだけで……」
「あ、貴女たちっ!そ、そういうことは分かってたなら早く言いなさいよっ!必死になってやってたわたしがバカみたいじゃないっ!」
「え?」
違うんですか?という表情を作るイク。顔を真っ赤にした百梨が「むきーっ!」と奇声をあげて、つかみかかろうとするのをスルリとかわして、逃げ出してしまった。
「いつもいつもわたしを馬鹿にしてーっ!今回という今回は絶対許さないわよっ!ちょ、ちょっと待ちなさいーっ!」
百梨も逃げるイクを追いかける。
他の一同は、さっきまでの緊迫した雰囲気がいきなりいつものバカ騒ぎに戻って、かなたが助けられてから今までの全部がまるで夢でも見ていたように感じた。もはや何を言っていいかわからず、ただただぽかんと立ち尽くしていることしか出来なかった。
「それにしてもよかったですね、お嬢様。無意味だったとはいえ、昨日お休みの前に一生懸命練習していた成果を、皆様に披露することが出来て」
「ちょっ、ちょっと!イク!待ちなさいっ!余計なこと言うんじゃないわよっ!?」
「皆様ご存知でしたか?本日皆様にこのビーチで遊んでいただくということで、もしも何か事故があったときに対処できるようにと、お嬢様は昨晩お一人で……」
「だ、黙りなさいってばっ!ち、違うのよ皆さん!?し、心肺蘇生術なんて、わたし、生まれた時から自然に出来るのよ!?全然練習なんかしてなくって……」
「何時間も何時間も…、お嬢様はマネキン人形に対して、それはもう必死に練習していらっしゃいました。それも全て、この旅行に参加されている皆様の安全を願って……」
「イクー!いい加減にしなさーいっ!」
ビーチを逃げ回りながら、百梨の影の努力を吹聴して回るイク。百梨はもう全身をゆでだこのように真っ赤になりながら、必死に彼女を追いかけ続けていた。
「は、はは……なんだこれ……」
そんな様子を眺めながら、かなたは完全に呆れかえってしまっていた。ただ、そんな風に百梨たちが騒いでくれたおかげで、自分の失態がいつの間にかうやむやになっているということに対しては、ありがたく思った。
――カナ……――
そのとき荊が、かなたの頭の中で何かを言おうとする。しかし何と言えばいいのか分からないのか、その言葉は続かなかった。
心のつながっているかなたは、先ほどの恐怖心のように、今は彼の強い罪悪感が心の奥からにじみ出てきているのに気付いた。そしてそのおかげで、言葉はなくとも彼が何を言いたいのかは伝わった。
「ま、気にすんなよ。誰にだって苦手はあるさ」
――すまない…――
「いや、ちゃんと確認しないで、急に海に飛び込んだあたしも悪かったんだよ。お前が泳げるのかどうか、事前に確認しとけばよかったんだ」
――本当に、すまない……――
荊はかなたの言葉には耳を貸さず、何度も何度もその言葉を繰り返す。かなたはとっくに彼のことを許していたのだが、それでも荊の気持ちが収まることはなかった。
「ま、ちょっとは焦ったけどさ。何にせよ、あたしたちは今は無事だ。それでよかったじゃ……」
少し恥ずかしげに、ペロッと舌を出したところで、かなたは自分の唇から桃の味がすることに気付く。そしてそれが、ビーチで百梨がつけていた日焼け止め用のリップクリームの味だと思い立ったとき、またしても彼女の顔は真っ赤になり、胸のドキドキが止まらなくなるのだった。




