7 黒服の男(2)
「盛り上がってますね」
「アシルか」
副小隊長権限で巡回から抜け出してきたアシルは、貴族席の端に座した叔父のレイオッドのもとに訪れた。
王立騎士団の大隊長を務めあげるレイオッドだが、もともとは侯爵家の人間である。
アシルの母親も侯爵の元令嬢であったが、当のアシルはかろうじて男爵ぐらいの地位しか与えられていなかった。父親のほうが、あまり裕福ではなかったのだ。その結果、ほとんど騎士でいることと同義の爵位は、アシルにとって出世の意味ではあまり役にも立たなかった。
だが、おかげで父親の領地でクリスティナと知り合えた。そこだけはツイていたと思うアシルであった。
「十年前も似たような様子であったな」
豊かな顎ひげをなでつけながら、レイオッドは言った。
かつて見た風景を思い出しているのだろう。
「アシルよ、そのときはお前もこの闘技場に居たのだぞ」
「本当ですか」
十年前といえば、アシルはようやく従騎士になったばかりの頃だ。
しかし、まったく覚えていない。時間の経過を最も早く感じていた頃の話なんて、とうの昔に記憶の外になっていた。
「覚えておらぬか。……いや、そのほうがよい」
「当時なにかあったのですか?」
意味ありげに言った叔父の言葉に、アシルは問い返した。
だが、レイオッドはわずかにかぶりを振ったかと思うと、それ以上は語らない。いつも黒い笑みを浮かべた大胆不敵な叔父にしては、少し気になる態度であった。
「……。叔父上、ティナは準決勝を勝ち抜きました」
そして声をひそめてアシルは言った。
「次の試合、彼女が出ますよ」
「そうか。ただの娘ではないと思っていたが……、これほどとはな」
シャルレが言うだけのことはある、とレイオッドは心のうちで呟いた。
レイオッドは以前、『おもしろい騎士がいる』と言った近衛騎士長のことを思い出した。
当時 齢十三にもならぬ天才と謳われた従騎士が、王国の近衛騎士長を務めるシャルレに『喧嘩を売った』という話は、おもしろ好きのレイオッドにとって飲みごろを迎えた美酒のような話だった。それが自分の甥っ子の隊に配属されたというものだから、彼は嬉々として第七小隊に足を運んだものだ。
お蔭で『おじうえ、おひげウザい!』と昔嫌がって泣いていたアシルとこんなにも仲よく話せる日が来ようとは、うっうっ、思ってもみなかっ――いや、これは余談である。
「見ものであるな」
あの娘、どれほどの成長を遂げているやら。
レイオッドは薄く笑った。
「正直に言うと、俺も驚いています。今まで彼女が本気で戦う姿を見たことがありませんでした」
自分の叔父が変な思い出に浸っているとはつゆ知らず、アシルは自分の幼少のころを思い出していた。
まだ十にもならないころ、幼かったアシルは一度だけ彼女と剣を交えたことがあった。
クリスティナは女だからとそれまで断ってきたアシルだったが、親のすすめで来年には従騎士学校への入学が決まっており、これが最後の機会と思ったのだ。
剣技をこう彼女と一緒に枯れ枝を削って作った『まがい物の木剣』は、そのうちどこかで失くしてしまったが、その頃からクリスティナは他の村娘とは常軌を逸していた。
「シーヴ夫妻に聞いたのですが、彼女はもともと異国から来たようです。元傭兵だったシーヴ氏が、東の国で見つけた少女だったとか」
「ふむ、なるほど」
座ったまま肘当てに肩肘をついたレイオッドは楽しげに、しかし鋭い目つきで甥の顔をみやった。
「東の国、あの灰色の髪と藍の瞳、戦うことに異様に秀でた娘……なるほど合点した。あやつはカミュ族か」
「カミュ族、ですか」
聞いたことのない単語に、アシルは首をかしげた。
「戦うことに秀でた一族のことだ。自然とともに生き、おのが内に獣を飼う。……我が王国の侵略により、一度は滅びた民族だな」
こう見えて見聞の広いレイオッドだった。
「彼女が? しかし、俺にはどう見ても」
幼なじみの少女が滅びた一族の生き残りとは、いきなりとても思えないアシルである。
ある日突然あらわれた少女に、彼は妹のように接してきた。
シーヴ家の実の娘アネットとは同い年のためか、二人そろって、ころころとよく笑う姿を少年ながら愛おしいと思ってきた。そして、それは今も変わらない。
「決勝の相手は、デスタンの飼い犬であるそうだな。あれを捻じ込んで来るとは、王女もなかなかやるではないか」
陛下の思惑に背こうと必死なのだな、とレイオッドは不遜に笑った。
「叔父上」
デスタン王国の姫に対してのあまりの言いように、思わずアシルは叔父をとがめた。あまり人に聞かせたくない会話なのだ、滅多なことは言わないでほしいと内心焦る彼であった。
「心配するなアシルよ、ただの独り言だ。――さて、あの娘」
レイオッドはその瞳を細めた。
「己を巣食う獣に打ち勝てるかな」
実に良い見ものである、と声なく笑うレイオッドに、アシルはただ彼女の身を案じることしかできなかった。
◆・◆・◆
相手を前にして恐いと感じたのは、記憶にある限りでは三度目だ。
一度目は従騎士時代に対峙したあのときの獣、二度目は王国の近衛騎士長。
そして三度目は――。
クリスは他の相手にもやってきたように、目の前の黒服の男に一礼した。
「お手柔らかに」
少しでも『自分』の緊張が取れればと思い、クリスは男にむかって薄く微笑みかけるが、男は感情のない人形のような瞳でこちらを見ただけだった。
変わった人、というのが対面したときの印象だった。
まず何よりも、男にはその気配がないのだった。
クリスが試合の審判から聞いた限りでは、彼はイリスという名前なのだそうだ。家名はなく、ただのイリス。
(不思議な人だ)
彼は剣士というよりは暗殺者といったほうが、クリスはよっぽど納得できた。
夜よりも深い黒髪と黒の瞳は、さらりと異国めいた彼の顔立ちのせいもあるのか、見ているとどこか不安な気持ちになってくる。
とらえどころのない男の印象は、まさに闇に生きる獣のようだった。
「――始めッ」
審判の声とともに、クリスは腰から剣を引き抜いた。
だが動けない。構えもとろうとしないイリスの様子に、クリスは全く出方が分からないのであった。
男の手にした剣は、やはり剣士のそれにしては短かった。
(短剣か……)
「なんでい、剣じゃねえじゃねえか!」どこからか野次が飛んできた。
男が手にした得物がスティレットと呼ばれる剣の一種であることは、クリスもなんとなく知識の上で知っていた。名も知れない野次の一方で、剣技大会の出場資格である『剣を携える者』には、別段、剣が長剣である必要は語っていなかった。そのためこれも条件を満たしていることになる。
(抜け穴をついてきたか……)
そしてクリスは、この男を怪しまねばならなかった。
短剣が一つだけのはずがない。
男はどこかに、最低もう一つの武器を隠し持っている。男の暗殺者めいたその容貌が、クリスに確信を持たせていた。
.