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願い事

 生原と交際を始めて一年……も経っていれば、今年のクリスマスを聖夜ならぬ性夜にすることも可能なのだろうが、残念ながらまだ一週間しか経っていないのでそれも難しいだろう。

 こんな、ある意味男らしい考えを、隣を歩く生原に読まれたらどんな反応をされるか。案外、了承してくれるかもしれない。……いや、でもその場合も変な罪悪感が生まれそうだから、やっぱり蔑んだ目で見てくれた方がマシかも知れない。

 うっすら積もった雪の上を歩きながらそんな事を考えていると、横から視線を感じた。反射的にそちらを向くと、生原と目が合う。

「どうした?」

「ううん。君ってさ、ボーっとしてる時、どんなこと考えてるのかなって思っただけ」

「お、おう、そうか」

 口には出しにくい事を考えています、とは言えず、俺は言葉を濁す。生原の眠そうで怠そうな目を見ていると、責められているような気になった。

「別に、普通だと思うけどな。一般高校生男子と同じような」

「ふーん。右手が疼く、みたいな?」

「いや、それはないけどな」

 幸運なのか、俺にそういう時期は無かったと思う。谷坂にはあったような気がするが、あのテンションで『二標! 俺の深淵の力を見ろ!』なんて言っていたから、本気なのか冗談なのか判断に困るところだ。本人に聞いて、悶えるかどうか確認した方が早いか。

「じゃあどんなこと?」

 分かっていて聞いているのではないかと疑いたくなるが、無表情のまま首を傾げる生原の内心を察する事は出来ない。もちろん、正直に答えることも出来ない。

 良い機会だし、少し気になっていたことを聞いてみようか。

「生原って、俺の呼び方、最初に話した時からずっと『君』だよな」

「心の中では二標君だよ?」

「そうなのか」

 知らなかった。当然だけど。

「二標君の心の中では、私は『死にたガールフレンド』でしょ?」

「そんな世代を感じるようなネーミングセンスは俺にはない」

 ついでに、洒落になってない事も言っておくべきか。生原が歩くたびに揺れるマフラーを見ながらそんな事を思ったが、何となく止めておいた。

 生原は寒がりなのか、身に付けている防寒具が少しずつ増えている。少し前までは制服にダッフルコートを着ていただけだったのに、今ではマフラーをして、タイツを履くようになった。そろそろ耳当ても付けようかな、と言っていたから、そう遠くない日に装着する事だろう。その後は手袋くらいだろうか。最終的にマスクでもすれば完璧かも知れない。完全に不審者だが。

「そういや生原。お前、手袋とか持ってないのか?」

「ううん。家にあるよ」

「そうなのか」

 持っていないのならクリスマスプレゼントにしようと思ったのだが、別の物を考える必要がありそうだ。やっぱり、仁木谷あたりに、生原が欲しいものの探りを入れてもらうべきか。




『右手が疼く』って、生原の場合は洒落にならないな。

 数学の授業中に今朝の会話を思い出しながら、ふと思った。

 クラスメイトはもちろん、この学校ほとんどの生徒が知っているように、生原の両腕には多数の傷跡がある。特に右腕は酷く、耐性がない人が目にしたら気分を悪くすることもあるだろう。傷が痒くなったり疼いたりするという話は聞いたことがあるし、もしかしたら生原流のブラックジョークだったのかもしれない。笑えるレベルを軽く超えてしまっているが。

 シャーペンを持っている自分の右手、教科書を押さえている左手を交互に見る。流石に十二月まで半袖で過ごすほど元気少年ではないため、腕部分は制服の袖で隠れてしまっているが、俺の腕に傷跡が付いていたりはしない。

 五歳の頃、初めて生原を見たときはおそらく同じ様な思考で、同じ様な顔で、同じ様に死にたがっていた俺達。そしてその後、死ねない理由――心を許せる友人が出来たところまで似ている。

 なのに、何故。俺達の『その後』は、これほどまでに違いがあるのか。

 あの自殺未遂が最初で最後のものとなった俺、あの後も傷の数だけ自殺企図を繰り返した生原。違いはなんなのだろう。

 最初は、ただ単に生原の方が死にたい願望が強い、あるいは周りの人間だけでは大した『死ねない理由』にならないだけだと思っていた。だからこそ、俺は独り身グループ(今では残り者だが)を作り、友人と呼べる人を大量に増やした。

 だが、生原は俺が思っていたより、他人のことを気にしない奴ではなかった。むしろ、俺以上に友人を大切にしているようにすら思える。黒瀬のことだってそうだ。生原に自覚はないだろうが、まだ仲直りしていなかった頃、黒瀬の話をすると、アイツは珍しく少し暗い表情をしていた。

 そんな黒瀬がいたというのに、生原の両腕の傷は年々増えていったことになる。

 環境の違いでいえば、家族だろうか。だが、俺の親と違って、生原の母親は娘が認めるくらい良い人だ。家庭に問題があるとは思えない。

 では何故?

 いや、考えて分かることではないのかもしれない。幼い頃の生原を知っているからといって、似通ったところがあるからといって、俺は生原と自分を重ねすぎている。

 生原はそういう奴だと納得してしまうのが、一番早いのだろう。

 生原命は、自分が死んだら悲しむ友人や家族がいようが、気にせずに死にたがり、自分の体を傷付ける自分勝手な奴だと。

「……………………」

 なんとなく腑に落ちないのは、彼女贔屓だろうか。




「なぁ生原。お前、五歳の頃、自殺未遂した時のこと覚えてるのか?」

 下校中、周りの生徒が見えなくなったところでそんな質問をしたのは、やはり納得出来ないからだと思う。

 前を見たまま答えを待つが、数秒経っても返事がないため、どうかしたのかと顔を向ける。

 生原は微かに目を見開いて俺を見ていた。

「どうした?」

 再度問うと、生原はしばしの沈黙の後、静かに口を開いた。

「知ってたんだ」

 あ、と気付く。

 そうか。この話は生原としたことがなかったか。とはいえ、別に隠していたわけでもない。

「あぁ。前に言っただろ? 叔母さんが県立病院の看護士なんだよ。入試の後に聞いたんだ」

 あと俺自身が覚えていたわけだけど、それは言わないでおこう。俺は覚えているというのに相手は知らないというのは悔しい。

 生原は前に向き直ってから「ふーん」と興味なさそうな返事をする。

「うん。なんとなくは覚えてるよ」

 なんとなく。

 微妙な答えだが、自分に当てはめればその理由も分かる。

「その頃に住んでたマンションから景色を眺めるのが好きな子供だったんだよね。お母さんには、落ちたら危ないから気をつけるよう言われてたんだけど、なんかそっちの方が良いんじゃないかってなんとなく思ってて……」

「飛び降りたと」

「あんまりハッキリ覚えてないけどね」

 まぁ俺も生原も五歳の子供だった。自分を殺すという罪悪感も、死を選ぶという決意すらなかったはずだ。ただ、正しいと思った行動をしただけだろう。

「マンションって何階に住んでたんだ?」

「なんか珍しいね、君がそんな事訊くなんて」

「相手のことを知るのは親交を深めるに当たっての基本だろ?」

 心にもない事を、とでも言いたそうな表情をした生原だったが、気にしないことにしたのか、先程の質問に答える。

「何階かは覚えてないけど、落ちた距離は二十七メートルだよ」

「よく覚えてるな」

「入院中、お世話してくれてた看護士さんに訊いたから」

 なんでそんな事を? そう質問する前に答えが分かり、俺は微かに開いていた口を閉じた。

 生原もそれ以上は何も言わず、俺達は無言のまま歩を進める。

 落下距離を未だに覚えている理由。それは多分、次に同じようなことをする時、参考にするためなのだろう。






 二学期が終わり、クリスマスも終わり、年明けまで残り一日といった頃、下宿させてもらっている叔母宅に俺の両親がやってきた。

 両親と言っても父親は義理だ。俺が生まれてすぐに両親が離婚して、俺は母親に引き取られた。再婚したのは、俺が飛び降り自殺未遂をした少し後のことだったから、小学校に上がる前くらいだろうか。

 ダイニングにある椅子に腰掛けて、三十二型のテレビをぼんやり眺めながら少し昔の事を思い出す。廊下を挟んだところにある和室からは、両親と叔母の楽しそうな話し声が聞こえてくる。

 一方、振り向けばすぐにあるキッチンでは、従姉がケーキ作りをしていて、それを小学一年生の妹が目を輝かせながら眺めている。出来ればそれをお手本にしないでほしい。クリスマスケーキを作るのに失敗して彼氏と喧嘩した可哀想な人だから。

「うおりゃー」とプロレスでも始めそうな声を上げながら、ボウルに砂糖や卵などを入れて勢いよく混ぜる。ハンドミキサーはないのだろうか。それと、食卓の上に開きっぱなしになっているレシピ本には砂糖を溶かす手順があるわけだが、まぁいいか。

「私もやるー!」

 俺と違って元気な妹の声。

 従姉は、ボウルに向かって両手を伸ばす妹を見てニヤリと笑う。

「よっしゃ! じゃあ泡が立ちまくるまで宜しく! 一緒に男を見返そう!」

「おー!」

 握り拳を天井に向かって伸ばす二人。影響受けまくりだ。やめてほしい。

 従姉がクリスマスの翌日に帰ってきて、今日までに作り出した失敗作の数々を思い出す。頑張ってお手伝いをしたケーキがあんなのになったら妹が泣くんじゃないかと少し心配になった。

「お兄ちゃんもやるー?」

 妹は、生原と同じくらいに短い髪と外行きの可愛いワンピースを揺らしながら、大きめのボウルを胸に抱えるようにしてやってきた。

「いや、今、両手骨折してるからパス」

「バレバレの嘘吐かない」

 キッチンにいる従姉から素早いツッコミが飛んできた。

 確かに嘘だが、やりたくない気持ちは本当だ。しかし妹は早くも疲れてきた(大きなボウルを持っているのだから当然といえば当然か)らしく、泡立て器を回すスピードが目に見えて落ちていく。子供の癖に妙に責任感の強い妹だ。これで失敗したら、自分のせいだと思い込みかねない。

「じゃあ少しやってみるかな」

 妹からボウルを受け取り、テーブルの上に置いてかき混ぜる。レシピ本によればそのうちホイップ状になるらしいが、まだまだサラサラな状態だ。

 妹がその変化を知っているとは思えないが、何か期待した目をしてテーブルに手を付いたままボウルを見ている。

 大体どのくらいかき混ぜるべきなのかとレシピ本を見てみると、ハンドミキサーで十分から十五分と書いてあった。なんて重労働だ。

 日頃の運動不足が祟って、早くも疲れを感じてきた右手。『力が欲しいか……』なんて声が聞こえたら、今なら欲してしまいそうだ。早々に左手に持ち替えてもジリ貧になるのがオチだろう。ここはギリギリまで右手を使うのが正しい……気がする。というか、この程度でここまで疲れる男子高校生という時点で正しくない気がする。

「そういえば」

 ボウルをかき混ぜる手を止めて、泡立て器を置いて妹に向き直る。

「どしたの?」と大きく首を傾げる妹の右手を掴み、肘あたりまで袖を捲った。

 傷一つない、細くて白い綺麗な腕だ。

「よし、オーケー」

 更に不思議そうな顔をする妹。

「なにやってんの、あんた」

 呆れたように言う従姉に、袖を戻しながら答える。

「一応、確認な。俺の妹だし」

「かくにん?」

 俺の言葉に反応したのは妹だった。首を傾げ続けているせいで、寝違えたように見える妹の左手を取りながら答える。

「そうそう。綺麗な腕してるか確認……ん?」

「あ」

 左手の手首には、他の肌と比べると若干赤みがかっていて、ふやけたようになっている箇所があった。

「火傷?」

「うん。昨日、ご飯食べてるときに」

「何食べたんだ?」

「やきにく」

「いいな」

 笑みを作ってそう言うと、妹は照れ臭そうに笑った。

「じゃあ左手もオーケー。合格だ」

「ヤケドあってもオーケーなの?」

「あぁ。セーフセーフ。このくらいなら消えそうだし」

「やった!」と両手を上げる妹を見ながら、再び泡立て器を手に取り、泡立てを再開する。

 従姉を見たらフルーツを切っていた。歪な形に見えるが、従姉なりのこだわりだと思っておこう。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

「ん?」

「今日も一緒にお風呂入る?」

「あぁ、そうだな」

「……うわぁ」

 従姉が気持ち悪い物を見る目をしている。別に俺はシスコンでもロリコンでもない。

「俺が家に帰った時はいつもこうだし、これも確認だよ、確認」

「何の確認よ」

「一応、俺の親の子供だからな」

 その言葉で察しが付いたらしく、従姉は一瞬だけ顔を強ばらせてから「あっそ」と言って、フルーツを切る作業に戻った。

「ねーねー、お兄ちゃん、今度はなんのかくにんー?」

「そりゃあ……」

 空いている左手の指をわきわき動かしながら妹にゆっくりと近付ける。

「ちゃんと成長してるかの確認だー」

「きゃー、ヘンタイだいまじんだー!」

 ドタドタと従姉の方へ逃げていく妹。無表情に棒読みの演技でもいい反応をしてくれるのは感謝だ。でないと俺がスベった感じになる。でも変態大魔神はヒドいと思う。どこで覚えたんだ、そんな言葉。

 両手でワンピースのスカート部分を掴み、「お兄ちゃんが変態になった」と報告する妹に、従姉は「もともと変態だよ」と優しく言った。やめろ。



 風呂上がり、妹とダイニングに行くと、両親と叔母、従姉が話をしていた。一時間くらい前の夕食からずっと喋っている。そんな長話、俺や生原には一生無理だろう。

「お風呂、空いたよー」

「はーい」

 妹の元気な声に、叔母が笑顔で返事をする。

 何気なく両親を見ると、二人とも妙にニコニコしていた。しかも、視線の先は妹ではなく俺だ。

「今、彼女さんの話をしてたのよ。上手くいってるみたいね」

 母親の言葉に顔をしかめる。別に生原の話をされるのが嫌なわけではなく、反射みたいなものだ。

 ちなみに、生原と交際を始めた翌日には既に、両親はそのことを知っていた。情報漏洩ルートを探ったところ、生原が生原母に言って、生原母が俺の叔母に言う、そしてそこから従姉やら両親やらに広まったようだ。別に隠す気はなかったが、俺としては聞かれるまで黙っているつもりだった。

「まぁまだ二週間くらいだから」

「まだラブラブな時期ね」

 上手くいっているという程ではないという意味だったのだが。

 妹は俺の左手を両手で掴むと、大きく振りながら「らぶらぶー」と笑う。

「ま、今更って感じだよね。私なんか、ずっと前から惚気話を聞かされてたわけだし」

「あら、そうなの?」

 若干八つ当たりで棘が含まれていそうな従姉の言葉に、母親が鋭く反応する。

 このままだと長話――それも俺にとって好ましくない話に付き合わされそうだ。さっさと退散した方が賢明だろう。

 その時、ポケットの中で携帯電話が鳴った。

 携帯電話を開くと、生原の文字。クリスマスに会ってから連絡をとっていなかったが、何の用だろうか。年末はそれぞれ家族と過ごすことになっているから、考えられるとすれば年始、初詣の誘いというところだろうか。俺も、新年の挨拶ついでに誘おうと思っていた。

 ふと、視線を感じて顔を上げると、両親と叔母がニヤニヤと笑っていて、従姉は舌打ちでもしそうなくらいに顔をしかめていた。

「生原さん?」

 叔母の確信に満ちたニヤニヤ笑いを適当に流してから、携帯電話を持ったままダイニングを出る。電話をするなら外がいいが、流石に寒い。年末に風邪を引くのは流石に嫌だ。和室に行けば声は聞こえないだろう。聞かれて困る会話をする気はないが、これ以上、噂話の餌食になるのは御免だ。

「私もかのじょと話したいー」

 携帯電話を奪おうと手を伸ばしてくる妹を回避しながら和室に到着。

 既に電話は切れていたが、掛け直せばすぐに繋がるだろう。

 着信履歴を開きながら、大人しくなったと思ったら口を尖らせていじけていた妹に声をかける。

「一応、聞いてみるよ。向こうが良いって言ったらな」

 そう言うとは思えないけど。

 一転、笑顔を浮かべて頷く妹を見ながら、俺は通話ボタンを押した。





 夏にある大きな祭りの時以上に人で混雑している神社の階段をゆっくりと下りていく。

 俺のように私服で動きやすい格好ならまだしも、やはりこの日だけは――特に女性は着物姿の人が多い。

 新年を迎えて十四時間が経った頃、俺は家族と叔母、従姉と共に初詣に来ていた。六人のうち、着物を着ているのは従姉のみ。でも、妹が従姉の着物姿を羨ましそうにしていたから、来年からは二人になるかもしれない。

 外見詐欺のベテランである従姉に赤い着物はビックリするくらい似合っているが、着物を着慣れていないせいか歩き方がどこかぎこちなかった。残念な人だ。とはいえ、そんな歩き方のおかげか従姉の周りは少し人が避けるようにしていて、人酔いしやすい俺や、簡単に人混みに流されそうな妹からすれば有り難かった。

「お兄ちゃん、なにお願いしたの?」

 俺の左手を掴んでいる妹が見上げながら訊いてくる。ちなみに妹の左手は従姉と繋がっていて、両親は少し寂しそうにしている。夫婦で繋げばいいと思う。

「色々だけど、俺は普段からお願いしまくりだから叶えてくれないかもな」

「ふーん」

 興味なしか。

「お姉ちゃんは?」

「え。えーと、私も色々かな」

 なんとなく想像出来てしまう。なんだかんだで、従姉と彼氏は仲が良いからな。

「ふーん。わたしはね、お兄ちゃんのかのじょと会えますようにってお願いしたよ!」

「もっと贅沢なお願いすればいいと思うけどな」

「だって会ってみたいんだもん」

 一昨日の夜、電話で話をして以来、妹は生原に懐いている。一体、なんの話をしたのかは教えてくれないが、どこが好きなのか聞いたら『声!』と即答した。そこらへんはやはり俺の妹というところか。

 風の強い屋上でも、話し声が飛び交う教室でも、生原の声は小さくともよく通る。

「あ」

 階段を降りきったところで聞こえた小さな声に、反射的に視線を向ける。

 そこには、約一週間振りに見る生原の姿があった。

 横には生原の母親がいて、今から参拝へ行くらしく、階段を上る人の流れの中にいる。

 少し遅れて、娘の声に反応したらしく、生原の母親が俺を見た。

「あら」

 娘と同じく、よく通る声を持つ母親は、驚いた表情をしてから優しい笑みを浮かべた。

 俺が立ち止まると、手が繋がっている妹と従姉はもちろん、前を歩いていた他の三人も足を止める。

 叔母が両親に生原の母親を紹介しているのを見てから、俺は生原と向き合う。服装はタイトジーンズに暖かそうなパーカー。着物じゃなくて残念だ。

「よっ。一週間振り」

「うん。明けましておめでとう」

「あぁ、明けましておめでとう」

 続いて従姉と挨拶している生原を見ていると、腰あたりに何かが当たるのを感じた。

 振り向くと、いつの間にか従姉と手を離していた妹が背中に張り付いていた。

「どうした?」

「……お兄ちゃんのかのじょ?」

「そうだけど」

 妹は俺の背中から顔だけ覗かせて生原を見ている。どうしたのだろう。生原は恋人贔屓を無しにしても子供に怖がられるような容姿ではないと思う。腕の傷を見れば分からないでもないが、当然長袖に隠れていて見えない。

 妹は人見知りをするタイプではないと思うし、つまりは……。

 挨拶が終わったのか、従姉は叔母と両親の方へ歩いていった。そして生原がこちらを向くと、妹は再び顔を引っ込めた。

 もちろん生原もそんな妹に気付いて、少し困ったような表情を俺に向ける。

「照れてるだけだ」

「そうなの?」

「多分」

 背中に隠れている妹を見ながら「ふーん」と呟いてから、生原は目線を上げて俺を見た。

「二標君の妹なのに可愛いね」

「俺の妹だからな」

 そう返すと、生原は微かに笑みを浮かべた。妹、よく見ておけ。生原の笑顔はレアだぞ。最近はそうでもないけど。

「お兄ちゃんは可愛くないし」

 下後方から不満そうな声が聞こえる。

「そりゃそうだ。俺はカッコいい兄だし」

 生原が露骨に嘲笑する。その笑顔は嬉しくないしレアでもない。

「お兄ちゃんはヘンタイだいまじんだし」

「変態大魔神?」

 生原が不思議そうに反復すると、妹がひょこっと顔を出した。

「うん。ヘンタイだいまじん。おふろに入るときとか、すごいヘンタイだいまじん」

「ド変態超魔神なんだね」

 そういう生原は怖いくらい笑顔だ。

「うん。かのじょもお兄ちゃんとおふろ入るときは気をつけてね」

「うん。気をつけるよ」

 いや、まぁ、その会話で二人が仲良くなってくれるならいいさ。

「というか、それは一緒に風呂に入ってもいいって暗に言ってんのか?」

 俺としてはとても純粋な疑問だったのだが、生原は汚いものを見るような目を向けてきた。妹もどこか呆れ顔だ。お前が言いだしたことだろう。責任取れ。

「どへんたいちょうまじんだからね」

「そうだね」

 いや、うん。いいんだけどさ。


「そういえば、さっき仁木谷さんと寺前君を見たよ」

 妹の頭を撫でながら、生原が思い出したように言う。

 十分も経てば二人はすっかり打ち解けていて、妹は俺の背中から移動して、生原に背中を預ける形で柔らかく抱かれている。

 俺達三人から少し離れたところでは、俺の母親と生原の母親が話をしている。先程までいた叔母、従姉、父親は先に行ってしまったらしい。

「仁木谷と寺前? 二人一緒に?」

 頷く生原。

「へー。あの二人って付き合ってるとかじゃないんだろ?」

「うん。この前、仁木谷さんと会った時に何も言ってなかったから、多分」

「それなのに元旦から一緒に初詣か」

「私達は明日なのにね」

 これは、あいつらが恋人っぽいのか、それとも俺達が恋人っぽくないのか、どっちなのだろう。まぁ、仁木谷や寺前の家は親戚が集まったり家族で初詣に行ったりしないだけかもしれない。仁木谷なら家族との予定を蹴ってでも寺前と来そうだが。

「なんなら俺達も今から初詣行くか?」

 本気と冗談半分半分の言葉に、生原は小さく首を振った。

「これからお母さんと、近くに住んでる親戚の家を回るから駄目」

「そうか。そりゃ残念……と、そういえば」

 先程から話が弾んでいるらしい母親二人に目を向ける。

「俺の親と生原の親、知り合いなのか? 初対面じゃないみたいだけど」

 先程両親が、叔母に生原の母親を紹介された時、

『生原さんってやっぱり生原さんだったのね』

『もしかして山岸さん?』

 という会話が聞こえたので、知り合いであることは間違いないだろう。

 山岸というのは母親の旧姓だ。そのことを考えると、二人は十年以上前に知り合って、それ以来会っていなかったということか。

「なんか、そうみたいだね」

 どうやら生原も知らないらしく、小さく首を傾げていた。

「『山岸』って二標君のお母さんの旧姓でしょ? じゃあ学生の頃の友達とかじゃない?」

「あー、そうかもな」

 そう答えながらも、それはなんとなく違う気がした。二人の話し方は学生時代の友人同士のものではなく、主婦同士の会話に見えたからだ。もっとも、大人になれば誰もがそうなるのかもしれない。まだ経験していない年齢のことなど、十六年しか生きていない俺達は想像するしかないのだから。



 母親同士の会話は三十分以上、生原の腕の中で妹が瞼を重そうにし始めるまで続いた。

 それから生原親子と別れて、俺達三人は先に行った叔母達の後を追っている。

 生原の母親に『かのじょとお兄ちゃんを交換してほしい』と眠そうな目で頼んでいた妹は、俺の背中で完全に寝てしまった。よくこんな騒がしい中で眠れるものだ、と思ったが、普段は夜の九時には寝る妹が、新年ということで日を跨ぐまで起きていたのだから、こうなるのも当然かもしれない。もともと昼寝好きというのもあるが。

「そういえば、母さんって生原の母さんと知り合いなの?」

 眠っている妹を見て笑みを浮かべている母さんに、気になっていたことを聞いてみる。

 母さんは少し気まずそうな笑みを見せると、「うん。そうなの」と頷いた。

「覚えてるか分からないけど、八年くらい前まで、お母さん病気で通院してたのよ。生原さんのお母さんは、その時に知り合った通院仲間ね」

 それは覚えている。母さんから直接聞いたわけでも病院についていったわけでもないが、たまに薬品の匂いを服につけて帰ってくることがあったからだ。この歳になっても忘れずにいるのは、その匂いを纏っていたときの母さんはいつもと違って優しく穏やかだったからだろう。

 そして、その時に通っていたのが精神科であることを知ったのは、小学校高学年の頃、暇をつぶせないかと親の部屋を探索していて、おそらく当時母さんが服用していた薬を見つけたことがきっかけだった。

 薬の袋に記されていた日付から昔のものだということは分かったが、なかなか衝撃だったように思う。

 それはそうと、その頃に知り合ったということは、かなり期間が絞れるのではないだろうか。

 母さんが何年間通院していたかは分からないが、少なくとも前の父親と離婚した後のことだろうから、十四年以内の話だ。そして、母さんは生原の母親の旧姓を知っていた。そのうえ、生原の母親も母さんを旧姓で呼んでいた。つまり、知り合った時は二人とも独身だったのだ。そして十四年以内ということは、二人とも未婚ではなく、離婚後になる。

 いつだったか生原の母親に聞いた話によると、生原の両親が離婚したのは十一年ほど前。生原が飛び降りをした半年前だという。母さんが再婚したのは、俺が自殺未遂をした一年後だった。二人が知り合ったのは、その一年半の間。そして、それから会っていない。母さんが八年前まで通院していたと言っていたから、おそらく生原の母親が通院を終えたのだろう。

「生原のお母さん、病気だったんだ」

「うん。ちょうど離婚された頃で、やっぱり疲れが溜まってたみたい。身体にも、心にもね」

「ふぅん」

 その言い方からして、生原の母親は母さんと同じ精神科に通っていたと考えるべきだろう。それに、お互い、離婚や子供の事で頭を悩ませていたであろう立場だ。意気投合するのも頷ける。

 そんな俺の思考を読んだわけではないだろう。

「生原さんなら、大丈夫よ」

 母さんは前を向いたまま、寂しそうな笑みを浮かべたままそう言った。

 何が、と聞こうと顔を上げると、母さんは再び口を開いた。

「私とは違うわ」

 そう断言する母さんを見てから、背中で眠っている妹の顔に目を向ける。

「今は、同じ母親だよ」

 母さんはもう一度寂しそうな笑みを見せる。

「ありがとう」



 一学期、書店で自傷行為について調べた際に、児童虐待についての書籍が目に止まった。

 手に取らなかったのは、もう自分には関係がないことだからか、それとも思い出したくないからか。

 虐待に関する相談は年に五万件を軽く越えるとニュースか何かで聞いたことがある。その数は昔と比べると何倍にも増加しているらしい。相談する人が増えたのか、それとも虐待そのものが増えてしまったのかは分からないが、前者は少なからずいるだろうと思う。

 俺も、相談しなかった一人だった。

 いつから虐待を受けていたのかは覚えていない。ただ、五歳の時の自殺未遂を機にそれは無くなった。もっとも、今の父親と知り合ったのも同時期の話らしいので、どちらが主たる理由になったかは分からない。

 まぁ、そんなのはどちらでもいい。重要なのは、今、母親がしっかり母親をしているということだ。

 しかし、だからといって親という立場にいる人にたいする不信感がなくなるわけではない。いくら時が経っても、完全に消えることはないとも思う。

 そのせいだろうか。そのせいだと思いたい。

 娘の背中を押す、母親の姿を想像してしまったのは。




「学校にでも行くか」

 二標君がそう提案したのは、今年二度目の初詣……あれ? 初詣じゃないのかな、これは。少なくとも初じゃない。まぁいっか。今年二日目にして早くも二度目の参拝を終えた後の事だった。

「学校? なんで?」

「学校の近くのスーパーに上手いたこ焼き売ってる屋台があるだろ? あれ買って、学校で食べるなんて良くないか?」

 少し意外に、というか、怪しく思う。だって、普段の二標君ならムードもへったくれもなく『寒いし暖かいところ行って温かいもの食うか』なんて言う。

 今年の夏にも同じような違和感を持ち、見事なまで思惑通りに動いてしまったので、少し警戒気味だ。

「勝手に入っていいのかな」

「中には入らないって。屋上に行くだけ」

 それも駄目だと思う。それに、

「この時期に?」

 寒いよ? と暗に言う。だけど、二標君は口角を上げて笑うと「この時期に」と言った。

 寒いのは好きじゃないけれど、今日は風も穏やかだし、寒い中で暖かいたこ焼きを食べるのもいいかもしれない。真夏にクーラーをつけて毛布をかぶって寝るとか、真冬にコタツに入りながらアイスを食べる、みたいな贅沢。それに比べたら随分とエコだ。

「うん。いいよ」

 でも、この新年二日目の時期にたこ焼き屋はやっているのかな?


 やっていなかった。

「そうか。今日は一月二日か」

「そうだね」

 スーパーの入り口でそんな抜けた会話をしてから、仕方なく近くのコンビニで肉まんやカレーパンを買ってから学校へやってきた。

 たこ焼き屋がやっていなかった段階で諦めないなんて、ますます怪しい。妙に機嫌が良さそうなのも怪しい。というか、二標君が怪しい。

 真意を探れないものかと、じっと横顔を見つめるけれど、なかなか見慣れない穏やかな笑顔からは何も読み取れない。私の考え過ぎじゃないかとすら思えてくる。こやつ、やりおるわ。

「どうした? さっきから人の顔睨んで」

 前を向いたまま、二標君は苦笑を浮かべた。気付かれていたみたいだ。睨んでいるつもりはなかったけど。

「あぁ、もしかして腹減ったのか?」

 なんと答えようか考えていると、二標君は左手に持っているコンビニ袋を胸の高さまで上げながらそう言った。お腹は空いているけど違う。

「ううん。でも肉まん頂戴」

「腹減ってんじゃねぇか」

「カイロ代わりにするの」

 歩き食いなんて行儀の悪い真似はしない。祭り以外では。

 二標君は、手袋を付けていない私の手を見てから「なるほど」と言って、コンビニ袋から肉まんを一つ取り出した。

 学校のすぐそばにあるコンビニで買ったから、まだ暖かい。冷えた手で触ると熱く感じるほどだった。すっかり冷たくなっている頬やおでこに肉まんを当てたかったけれど、絶対に変な目で見られるからやめておこう。

 校舎裏、いつだったか一人で上がって二標君と降りた非常階段を、今度は二人で上る。

 教師も生徒も誰一人いないであろう学校は、昼間だというのにとても静かで、遠くから聞こえる――普段はうるさくしか思わない車の排気音が妙に心地良く聞こえた。

 カンカンカンと非常階段を踏む音は一つ分でいい気がして、二標君の足と合わせて階段を上る。すぐに気付いて変なリズムで登り始めた意地悪な二標君は少し子供っぽかった。やっぱりムードってものを分かっていない。私が大きな水筒入りの手提げ袋を持っていても気にしないあたり、異性の扱い方も分かっていない。私もそこまで分かっていないし、二標君に限らずそんなことをされても困るけど。自分の荷物は自分で持ちたい派だから。

 屋上は相変わらず殺風景だった。緑色のシートが一面に敷かれていて、ベンチなどはなくて、あるのは塔屋が二つだけ。一つは階段室だけど、もう一つが何のための建物なのかは知らない。なんか大きな機械があるんだろうなぁとは思うけど。

「寒いな。雪降ってないだけマシか」

 気温のわりには青色を覗かせている空を見上げながら二標君は言う。

 一週間くらい前に少しだけ降って以来、天気予報に雪マークは出てこない。マンションの自室から飛び降りた五歳の私を生かしたのは、木と雪だったらしいから、雪はなんとなく好きじゃない。二標君を生かしたのはなんだったんだろう。ただ運が良かっただけか、それとも私みたいに何かに生かされたのか。

 雪だったらいいなと思った。もしそうなら、少しは雪が好きになれそうだから。

 私と二標君はフェンスにもたれる形で腰を下ろす。数メートル前には、階段室がある塔屋の側壁がある。

「ここならあまり風が当たらないだろ」

 二標君は確認するように言いながらコンビニ袋を探る。私は「そうだね」と返事をして、鞄から水筒を取り出した。

 先程のコンビニで買った紙コップに温かいお茶を注ぎ、乾杯したわけでもないのに二人一緒に飲んだ。

「ふはぁー」なんて気の抜けた溜め息まで重なって、ドラマで見るような仕事帰りにビールを飲んだおじさんっぽかった。

 しばらくボーっと空を見上げていた私達だったけど、二標君がふいにコンビニ袋を手にとった。

「せっかくの肉まんが冷たくなってもアレだからな」

 もう少し静かに空を眺めていたかったけど、確かにそれもそうだった。

 二標君からおしぼりを受け取って、代わりに肉まんを返す。肉まんに触った手を綺麗にするのは少し順番が違った気がしてけど、右手は非常階段の手すりを触っていたせいか赤錆がついていた。

 二人並んで蠅のように手を掃除する。それが終わると、二標君が

「何から食う?」

 と聞いてきた。

「じゃあ、極上肉まん」

「いきなり良いやつ選びやがったな……。安いもんから食うべきじゃないか?」

「二つあるから」

「一つは俺のだ」

 顔をしかめる二標君。

 予想通りの反応が可笑しくて笑うと、二標君は更に顔をしかめた。

「じゃあ俺も先に極上肉まん食うかな」

 取り出した極上肉まんを私に手渡してから、またコンビニ袋を探る。

 そんな二標君の横顔を見ていたら、何となく聞いてみようかという気になった。

「それで、今日はどうしたの?」

「どうしたって、何がだ?」

 極上肉まんを取り出しながらすっとぼける二標君。そんな態度はいつものことなので気にもならない。

「こんなところに来るなんて二標君らしくないし」

「生原の趣味に合わせたつもりだったんだけどな」

「……悪趣味」

「お互い様」

 二標君はテンポよく返事をしてから極上肉まんを口に運んだ。

 それにつられるように極上肉まんにかぶりついたところで、話を誤魔化されたことに気付いた。

「それで、こんなところにきた理由はなんなの? 二標君がお昼ご飯のためにわざわざこんなところに来るなんて、よっぽど説得力のある理由がないと納得出来ないよ」

「寒がりな生原への嫌がらせ」

「……なるほど」

「納得すんなよ」

 呆れたような顔を見るに、冗談だったみたい。本気で納得しかけていた。危ない危ない。

「説得力のある理由か……」

 早くも極上肉まんを食べ終えた二標君は、カレーマンを袋から取り出しながら呟く。そうやって思考を巡らせている時点で本当の理由を言う気がないのはバレバレなのだけど、それを指摘したところで本音を漏らすわけじゃないから、言葉の続きを待ちながら肉まんを頬張る。美味しい。一個二百円もすることはある。

「生原に死ぬ気がないことを確かめるため、とか」

 ふーん。

「それじゃあ五十点。今はないけど、ずっとないわけじゃないだろうし」

 特にこの時期はそういう気持ちになることが多くなる。二標君はどうなのだろう。

「じゃあさ、俺が『一緒に死んでくれ』って言ったら、ここから飛び降りるか?」

「飛び降りない。と、思う」

 多分。と心内で付け足す。でも、飛び降りない自信はある。だって、ここから飛び降りるということは私にとっても二標君にとっても幸せなことだから。でも、小悪魔系ならぬ魔女系性悪女の私が願っているのは二標君の不幸だ。

「そうだよな。俺だって飛び降りない」

 二標君はそう言ってからカレーマンを食べる。

 断言出来るあたり、やっぱり二標君は私よりしっかりしているんだと思う。

「死ぬとしたら、誰も見てないところで死ぬ。彼女の目の前で死ぬなんて、トラウマ残すような死に方するわけない」

 しっかりしてはいなかった。でも、確かにその通りだ。

「そうだね。家族とか友達とかの前では死にたくないかも。五歳の私はそんなこと考えなかったみたいだけど」

 もっとも、だからこそ私はこうして生きているわけだ。

「あぁ、生原が飛び降りた時、救急車を呼んだのは生原の母さんだったんだっけか」

 世間話をするような軽い口調の二標君だったけど、何故かその声は先程よりも真剣なものに聞こえた。

「うん。前も言ったけど、高いところから景色を見るのが好きだったんだよね。それで、暇な時はマンションのベランダから景色を見たりしてたんだけど」

「五歳の身長で景色なんて見えるもんなのか?」

「普通は見えないよ。だから、いつもベランダに置いてあった椅子の上に立ってた」

「危ないな」

「危ないよね」

「死のうって思ったのは、飛び降りた時が初めてか?」

「うん。衝動的にやっちゃった感があるし」

 そう答えてから、ふと思った。

 一見、ただの思い出話(と言えるほどほのぼのした内容ではないけど)だけど、もしかして何か探られている? 数種類の肉まんが入っているコンビニ袋からお目当てのものを探すように、何かを見つけようとしている?

 そんな少し間抜けな例えが頭に浮かんだ時、二標君がゆっくりと腰を上げた。

 どうしたのだろうと、極上肉まん最後の一口を食べてから見上げると、二標君は私を見下ろしながら何かを企んでいそうな笑みを浮かべた。

「フェンスの向こう側、行ってみないか? 十ヶ月振りにさ。って、生原は半年振りくらいか」

 そう言うと、答えを待たずにフェンスに足をかける。

 スイスイと上っていく二標君を見てから、自分の服装に視線を移す。

 重ね着しているせいでふっくらした上半身(決して正月太りではない)に、下半身はロングスカート。膝丈の制服スカートならまだしも、流石にこれは上りにくい。

 でもそういうとこは気が利かない二標君だ。さっさと向こう側に足を付けると「来ないのか?」と不思議そうにこちらを見る。行くなんて一言も言ってないのに。

「あぁ、そうか」

 私が不満そうな顔をすると、流石の二標君も気付いたらしい。

 私に背を向けて、「よし、いいぞ」と言った。何をしているのだろう。

「なにしてるの?」

「え? さっきの視線は覗くなって意味だろ?」

 あぁ、スカートだからかな。気を遣うところが少しずれている。

「違うけど……」

「え? 覗いていいのか?」

 振り向いた二標君は珍しく純粋な、少し期待混じりの目をしていた。そんな眩しい表情をこんな不純な形で見てしまったことが残念でならない。

「まぁ、とりあえずあっち向いてて」

 少し残念そうな顔をする二標君に奇妙な罪悪感を持ったけど、私は悪いことなんてしていないはずだから気にしない。

 二標君が背を向けたことを確認してから、膝くらいまでスカートをたくし上げる。冷たい空気が足に触れた。タイツを履いてはいるけど、寒いものは寒い。

 フェンスを掴み、服が引っかからないように気をつけながらゆっくりと上る。ふと、学校の周りにある家が目に入った。

「こんなところにいて、近所の人に通報されたりしないかな」

 よいしょ、とゆっくり降りながら訊くと、二標君は背中を向けたまま「大丈夫だろ」と言った。

「いつまでもこうやって突っ立ってたら通報されるかもしれないけど、フェンスに寄りかかってしゃがんでおけば下からは見えないと思うぞ」

「それならいっか……。よいしょ。はい。こっち見ていいよ」

 服のシワを叩いて直しながら言うと、二標君はくるっと振り返り、私の隣に腰を下ろした。

「寒いな」

「寒いね」

 そんな意味のない、会話とも言えない話をしながら、私も腰を下ろす。

 久し振りになる屋上からの景色は、半年前とほとんど変わっていなかった。でも、学校の近くのコンビニが潰れたり、ずっと更地だった場所に動物病院が出来たりと、細かい違いなら何カ所か見つけられる。

「コンビニが潰れたところ、少し前から工事してるよな。またなんか店が建つのか?」

「みたいだね。コンビニの前は蕎麦屋だったっけ? その前がビデオレンタル屋で、その前は怪しいマッサージ屋だったよね」

「へぇ。結構な店が潰れてんだな。立地が悪いわけじゃないだろ?」

 初耳だったらしく、二標君は少し驚いたように言う。そっか。二標君はもともとこの町にはいなかったんだった。

「うん。車だと反対車線からは少し入りにくいけど、そこまでじゃないし」

「でも潰れるのか」

「蕎麦屋は美味しくなかったし、ビデオレンタル屋は品揃えが悪かったとか理由はあるんだけどね」

「マッサージ屋は?」

「怪しかった」

「なるほど。コンビニは?」

「さぁ。コンビニは分かんない」

 お客さんは入っていたし、何か問題があったようには思えなかったけど。

「でも普通はなにか理由がないと潰れないよな」

「うん。最初から潰れる目的で建てたっていうなら別だけど」

 でもそんな筈はない。本質的に死を求めている私達と違って、コンビニが潰れたことにはちゃんとした理由があるのだろう。

 何気ない会話を交わしながらボーっと景色を見ていると、二標君がフェンスから背中を離した。

 しゃがんだまま足だけ動かして(ペンギンみたいだった)、脹ら脛ぐらいの高さの段差で止まると、そこに手を付いて下を覗き込んだ。

「相変わらず高いな」

 二標君と同じようにペンギン歩きをして隣まで行って、下を覗き込む。

 木も雪もない地面に吸い込まれそうな感覚が襲ってきて、すぐに顔を上げる。

「二十七メートルってここより高いよな?」

 二標君は平気らしく、まだ下を見ている。

「うん。多分」

「よく生きてたな」

 その点に関してはお互い様と言いたかったけれど、黙って頷くだけにした。

「よし、そろそろ戻るか」

 しばらく地面を眺めてから、二標君は立ち上がりながらそう言った。

 私も頷いて、ゆっくりと立ち上がる。

 こうして風を全身に受けると、入試の時のことを思い出す。

 二標君も言っていたけれど、あれから十ヶ月。私の置かれている環境は随分と変わってしまったように思う。二標君はどうなのだろう。それと、私自身は何か変わったのかな。

「生原、あの建物、なんだ?」

「え?」

 二標君の人差し指の先を追って、体ごと振り返る。

 どれ? そう訊く前に、二標君の声が耳に届いた。

「生原。先に謝っとく」

 続いて、背中に掌が当たる感覚。

「悪い」

 その掌は勢いのままに背中を押して、私は宙に投げ出され……………………え?

 落ちていく。頭から。遙か下の地面に向かって。

 妙に遅く感じる時間の中で、顔を上げて私が押された場所を見てみる。

 そこには好きな人がいた。大切に思っている人がいた。でもその人は、落ちていく私を見ながら何の感情も顔に出していなかった。それが当然であるかのように、私を見下ろしていた。

 そんな表情に恐怖を覚えて目を逸らすと、地面が目の前に――――――――

「生原!」

「え?」

 突然の大声に、体がビクッと震えた。

 いつの間にか私は屋上に膝をついていた。二標君はそんな私の両肩を掴み、本当に珍しく心配そうな顔をしている。

 屋上。フェンスを乗り越えたところ。

 自分のいる場所、古傷以外怪我のない身体を確認してから、私は二標君を見上げた。

「落ちてない?」

「あぁ、落ちてないし落としてもない。背中押してすぐに服掴んだから落ちてない。そもそも、ここから落ちるほど勢いよく押してない」

 まるで言い訳をするように早口で言う二標君は、これまた珍しく慌てた様子だった。

「二標君、どうしたの?」

 普段と違う二標君に、私まで心配になってくる。

 だけど、そんな私の心境に反して、二標君は少し呆れたような表情をした。

「どうしたの、じゃないだろ。彼女に泣かれたら流石に焦るっての」

 泣かれたら? 彼女って、私のことだよね?

 完全に脱力していた左手を、そっと顔に近付ける。

「それともアレか? 入試の時みたいな泣き真似か? それ」

 左手が頬に触れる。濡れていた。そして、流れてきた雫が左手の人差し指に当たった。

 私は泣いていた。ううん、泣いている。現在進行形で、しかもいつ止まるのか分からないくらいの勢いで。

 そう自覚した瞬間、涙で視界がぼやけて、二標君の顔にモザイクがかかったようになった。

 こんな表情の二標君はレアなのに、もったいないなぁ。

 そんなことを考えられるくらい心中は冷静なのに、涙は止まる気配がない。

 拭うこともなく涙を垂れ流す私と、そんな自分を冷静に見ている私が、そこにはいた。

 もちろんこの私は後者で、気持ち悪いくらい自分を客観的に見ることが出来ている。

 でも、泣きたくなる気持ちは痛いくらいに分かるんだよ? さっきの光景は、そのくらい衝撃的だったから。

 顔は見えないけれど、二標君が更に慌てる様子が伝わってきた。

 泣いているのは二標君のせいじゃないよ。と言えれば、せめて、『違う』の一言が言えればいいのに、何か喋ろうとしても、私の口から出るのは嗚咽だけだった。




 一月九日。

 昨晩雪が降ったらしく、うっすらと雪が積もっている道を自転車で進む。

 二週間振りとなる登校だ。冬休み中に一度だけ行っているため、学校に行くこと自体は一週間振りとなる。

 一週間前のことは……、やはり少し反省するべきだろう。ちょっとしたショックを与えれば昔の記憶が戻らないかと思ってやったことだが、結果的に生原を泣かせただけだったのだから。

 あの後すぐに、屋上へ教師がやってきた。のちに聞いた話だと、生原の心配が的中して、学校の近所に住んでいる人が屋上にいる俺達を発見、教師に連絡を入れたのだという。

 その教師が屋上に来たとき、俺達はまだフェンスの向こう側にいて、泣きじゃくる生原をどうしようか右往左往していたところだった。

 俺以上に慌てていた教師に、死ぬ気がないことを伝えたまではよかったが、何故生原が泣いているのかという質問に正直に答えた結果、そりゃあもう凄い剣幕で怒られた。

 もちろん保護者には連絡がいき、両親と生原の母親の前で『生原を落とすフリをした』と説明することになり、あの時は流石に死にたいと思った。死なないけど。死ねないけど。

 もっとも、保護者が来る頃には生原もようやく泣き止んでいて、いつもの冷静な口調で俺をフォローしてくれたから、そこまで責められることはなかった。一番感情的に怒っていたのは教師だったのではないかとすら思う。

 しかし、なんだかんだで警察沙汰にならなかっただけ運が良かったと言えるだろう。不幸中の幸いというやつだ。

 目的地である生原家が視界に入ったのと同じタイミングで、玄関先に生原が出てきた。

 向こうもすぐに俺に気付いて、肩の高さまで片手を上げる。カーディガンの袖が余っているせいで指先しか見えないが、相変わらず手袋はつけていないみたいだった。

「おはよ。今日も自転車で来たんだね」

 家の前で止まって、自転車を降りると、生原がよく通る声でそう言った。

「このくらいの雪なら、まだ、な。凍った水溜まりとか地面が分かりにくくて何度か転びかけたけど」

「雪が積もったらどうするの? 徒歩は……大変だよね」

 並んで歩き出しながら生原が尋ねてくる。

 確かに、自転車で二十分の距離を歩くのは大変だろう。

「家の近所にバス停があるから、そこからバスに乗るつもりだ」

 もちろん自腹なので、高校卒業までの三年間は出来る限り雪には自重してもらいたい。今日くらいの雪ならいいけど。

「じゃあそうなったら迎えには来れなくなるね」

「まぁ、集合場所はバス停に変わるな。そこにいなかったら家まで行くけど」

「バス停って、学校前の?」

「この住宅街の入り口にバス停ってあるよな? そこのバス停だ」

 ふーん、と興味なさそうな声を出す生原。普段通りの反応だが、一週間前のこともあり、怒っているのかも知れないと不安になる。あの翌日に、落としたフリをした理由は電話で説明した(いつものように誤魔化そうとしたが、無言の圧力で白状させられた)が、直接会うのは今日が初めてだ。

 生原も、いくら俺の親の過去があんなだからといって、自分の親まで疑われたら怒りたくもなるだろう。

 でも、それでも。まだ俺の中で生原の母親への疑いが晴れた訳じゃあない。

 黒瀬という『死ねない理由』としてとても大きな存在がいたにも関わらず、生原の腕に傷が増えていったこと。

 それは、黒瀬の存在よりも僅かに、だが確かに大きい『死ぬ理由』があったからではないだろうか。もちろん、俺達が本質的に持っているものとは別の、しっかりとした理由が。

 そこで思い出したのが、一学期にふと思った疑問。

 あんなに仲の良い母親が、生原にとっての『死ねない理由』にならなかったこと。

 そして叔母に訊いた、生原が自殺した時の状況は、部屋には生原と母親が二人きり。生原が飛び降りた瞬間の目撃者は無し。

 それでも普通は、そんな事を考えたりはしないんだと思う。

 ただ俺の中には、おそらく一生消すことが出来ない親への不信感があり、そんな穿った見方をしているから、そんな想像をしてしまったのだろう。



『飛び降りた時の記憶がないって言ってただろ? だから、もしかして生原は自分で落ちたんじゃなくて誰かに落とされたんじゃないかと思って……』

 六日前、二標君はそう切り出すと、自分の昔話と推測を話してくれた。

 すごく言い辛そうにしていたから、訊かない方がいいのかな、なんて考えていた矢先のことだったので、少し驚いた記憶がある。

 隣を歩いている二標君は見た感じすっかり元通りで、安心したような、少し残念なような、微妙な気持ちになる。あんなに慌てている二標君はレアだから。

 でも、そう考えるとあの時の私も結構レアだったと思う。

 だって、泣き真似以外で泣いたのなんていつ振りだろう。

 中学校、小学校と記憶を遡っても、自分が泣いている姿は出てこない。ということは、やっぱり五歳の時以来だと思う。

 病院で目を覚ました時、私は何故か涙が止まらなかった。担当してくれていた医者は、長い間意識を失った患者さんにはよくあることだと説明してくれたけど、多分あれは違う。

 あの時の私は、微かに覚えていたんだと思う。

 背中を押される感触、それと同時に耳に届いた、

『ごめんね』

 という聞き慣れた声を。

 そして今の私は、その時の事を完全に思い出している。二標君のせいというべきなのか、二標君のおかげというべきなのかは未だに判断に困っているけれど。

「二標君」

 さっき話に出たバス停を通り過ぎたところで、私は二標君に声をかけた。

 この数日間、思い出したことを言おうか迷っていたけど、実際に会ってみたら、なんとなく二標君になら言ってもいい気がした。

「二標君の推測、多分、ほとんど当たってる」

 二標君は一瞬だけ足を止めたが、すぐに普段通り歩き始めた。

「思い出したの。二標君の、おかげで」

 二標君は前を向いたまま「そうか」とだけ言った。

 一応『おかげ』ということにしておこう。死ぬ理由を消されてしまったのは有り難くないけど、忘れっぱなしでいるよりは良かったと思えるから。

 つまり、今回も二標君の思惑通りに事が進んでしまったみたいだった。

 まぁ二標君も色んな人に怒られたり叱られたりしていたから、今回は文句も言わないであげようと思う。



 自分の思った通りに事が進むというのは、普段なら気分がいいものであり、刺激を求めている時には味気なく感じるものだ。だが、珍しいことに、今回の件に関してはどちらも当てはまらない。

 だから俺の口からは「そうか」なんて気の利かない返事しか出なかった。

『思い出した』という言葉が真実ならば、これから生原の自傷行為はなくなるだろう。何故なら生原は、どう見ても『死ぬ理由』にはならないであろう今の母親を知っている。

「なんでお母さんはあんなことしたんだろう」

 生原は無表情のまま、ふと思い付いたように疑問を口にした。

「こればっかりは本当に推測、ってか都合の良い想像でしかないけどな。生原の母さん、昔、精神的に疲れてた時期があったらしい」

 俺の母親に聞いた話をする間、生原は頷く程度の反応しか見せない。

 話をしているうちにいつの間にか学校の近くまで来ていて、周りには他の生徒の姿もちらほら出てくる。あまりこういった話をするのに適さない状況になってきたため、簡単にまとめてしまうことにした。

「つまり、生原の母さんは、本当に生原のことを殺したかったわけじゃあない。ただ本当に、色々と参ってたんだろう。と、俺は思う。実際、救急車を呼んだのも生原の母さんなわけだしな」

 生原は少し俯いて「本当に、都合の良い想像だね」と言った。

「でも結構自信あるぞ。妹くらいなら賭けてもいい」

「最低なお兄ちゃんだね」

 ジト目を向けられた。その方が妹も喜ぶと思うのだが。

「ま、賭け自体成立しないか」

 そう言うと、生原は小さく首を横に振った。

「いいよ。賭けにのってあげる。私が勝ったら、妹くれるんでしょ?」

「あぁ。何人でもやる。で? 俺が勝ったら生原はどうする?」

 生原はふっと鼻で笑うと、俺を見上げて、いつもより少し力強い眼でこう言った。

「二標君のお願い、なんか一つ聞いてあげる」

 そうして浮かべた笑顔を見ると、たまには素直に彼女の幸せを願いたくなった。

 でも、死ぬ理由が一つ減ったところで、生原や俺の本質的な部分が変わったわけではない。俺達にとっての幸せと不幸が反転することなど、おそらく無いのだろう。

 でも、それで良いと今なら思えた。どうせ俺達の進む先には、抗いようのない幸せが待っている。

 だから、今は不幸を満喫するとしよう。

 いつか幸せになる時まで一緒にいられたら、それは不幸中の幸いだ。

「じゃあ、賭け成立な。今のうちに心の準備しとけよ」

「ちなみに何お願いする気なの?」

 無表情に戻って尋ねる生原に、俺は笑みを向ける。

「ド変態超魔神的なお願い?」

「違う」

 学校の前でそんなこと言うな。

 俺が顔をしかめると、生原は再び笑みを浮かべた。

 そうして俺は、君の不幸を今日も願う。


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