死ねない理由とブタの願い
ざわざわ、が騒がしい時に用いられる擬音ならば、この教室内はせいぜい、さわさわ、と言ったところだろうか。
高校の教室に違う制服の生徒が何人も集まっているというのはなかなか違和感のある光景だ。しかも、制服ごとにグループを作っているのだから殊更そう思う。
とはいえ、俺も同じ制服同士でグループを作っている一人だ。グループと言ってもたった二人、しかも男二人の寂しいグループだが。
「午後から面接かー。まぁ、俺達は家が遠いから先にやらせてくれると思うけどな!」
椅子をこちらに向けて弁当を食べている友人、谷坂は、楽しみで仕方ないと言った様子で言う。
「余裕だな、お前は。俺は筆記が微妙で、合格するかは面接次第って感じなのに」
朝、コンビニで買ったベーコンエッグを齧りながら返すと、谷坂は得意げな笑みを浮かべる。
「そりゃ、記念受験だからな! さっきの試験なんて全然分からなかったぜ!」
県内にある公立校では下の上、よくて中の下であるこの高校を受けても記念にならないと思うが、今さら何を言っても遅いので黙っておく。
「ま、二標と違って俺は私立に受かってるし、なんつーの? 王様気分って奴?」
こちらに向けた箸先をちょいちょい揺らしながら偉そうに言う谷坂に「あっそ」と返してからもう一度ベーコンエッグを齧る。
「面接経験者としては、一番気を付けるべきは――」なんてご高説を垂れ始めた谷坂。それを聞いているふりをしながら、谷坂の肩越しに、一人の女生徒を盗み見る。最近では女子中学生や女子高校生と目を合わせるだけで不審者扱いされるらしいが、流石に中学生男子には適用されないだろう。
その女子生徒は俺達と同じように二人組で昼食をとっている。学生服の俺達から見ると、少し大人っぽい感じのするブレザー姿だ。
一人はこちらに背中を向ける形になっているので顔は見えないが、もう一人は生原命だった。結構整った顔立ちをしている。こちらまで聞こえてくるほど大きな声で話している女子を相手に聞きに徹しているのを見て、タイプがまるで違う二人だと分かるが、その方が案外仲良くなりやすいのかもしれない。いつの間にか話が脱線して、何故か『好きな芸能人ランキング』を話している谷坂をチラッと見ながらそう思った。
それから数十分後。昼食を終えてからも延々と話し続ける谷坂と俺の横を、生原命が通り過ぎて、そのまま教室から出て行った。それを目で追って、ドアが閉められてから視線を前に戻すと、にやけ顔と目が合う。
「なんだよ」
「いや、珍しいじゃん。二標が女を目で追うなんて」
「人をホモみたいに言うな」
「そういうわけじゃねーけどさ。二標って他人に興味ないタイプだろ?」
どうなのだろう。そんなことはないとも、そうかも知れないとも思う自分がいる。
「さっきの女子は確かに美人だったけど、あのくらいなら俺らの中学にもいるしさ。とうとう二標もビビッと来るもの感じて恋にフォールしたのかなってな」
生原に対して少し失礼な事を言っている気がするが、自覚は無いのだろう。
そのまま自分の初恋について話し始めた谷坂の後方、生原が席を立って一人になった女子の元に、同じ制服の女子が三人ほど寄っていった。その三人は、どこからどう見ても生原のように大人しそうなタイプには見えない。男の目から見ても分かるくらい濃い化粧、妙に似合わない黒髪。おそらく普段は茶色か金色をしているのだろう。髪を染めるあたり殊勝だと言えなくもないが、午後から面接もある入試試験に化粧はどうなのだろう。特別な事情でもない限り、まだ必要とする年齢でもない。
「クロセも大変だよねー。相変わらず、あいつの友達やっててさ」
三人の中でおそらくリーダー格の女子が、生原の友人、クロセの肩に肘を置いて、笑いながら言う。
「……しょーがないじゃん、親同士が仲良いんだし」
「まー、そうだよねぇ。そうじゃなきゃ、誰があんな奴と。全然喋んないし、一緒にいて全然楽しくないでしょ?」
「うん、まあ、そうだね」
クロセは疲れたように笑いながら、大きな溜め息をこぼす。その声は相変わらず大きく、照れを交えながら恋愛話に一人で花を咲かせていた谷坂も思わず口を止めた。
「女、こえーな。俺も彼女に裏ではあんなこと言われてんのかな」
後ろをチラリと見てから、声を潜めてそう言う。
もちろん、俺が知っているはずも無く、「さぁ」とだけ返すと、ハッと何かに気付いたような顔をした。
「言っとくけど、俺はあんなこと思ってないからな」
「あんなこと?」
「全然喋らないからつまらない、とか」
だから心配すんな、と言わんばかりに歯を見せて笑顔を浮かべた谷坂はグッと親指を立てる。
「こっちが口をはさむ隙もないくらい喋った挙句に『つまらない』なんて言われたら俺でもキレるぞ」
「そ、そっすよね……」
呆れて返事をした俺に対して、いやぁ、あはは。なんて照れを誤魔化すように笑う。どちらかといえば、こいつの方が俺の悪口を言っていてもおかしくないのだが、そんなことは無いだろうと思えるから不思議だ。
だからこそ、俺は今もここでこうしているのだし。
しかし、俺にとっての谷坂がそういう存在であるように、生原もあの女子に対して同じような事を思っているのだとしたら、未だに続く陰口(というには声が大きすぎる気もするが)には多少同情する。
『同情は恋になるけど、恋は同情にならないよね』
先程、谷坂が、恋がどうこう言っていたせいか、そんな言葉を思い出した。
はて、何の言葉だったか。誰かに直接聞いたのか、ドラマかなんかで聞いたのか。
それを口にした人物が言いたかったことは『元が同情でも恋になってしまえばそれは純粋な恋なのだ』という事だったらしいが、それを聞いた俺にはよく意味が分からずに何も反応しなかったと思う。
教室のドアが開いたのは、そんな事を思い出していた時だった。
何となく反射的に顔を向けた俺や谷坂、そして陰口を言っていた女子達も少し驚いたように、だが平然を装って入口を見た。
だが、そこにいるのが他校の男子生徒だと分かると、すぐに陰口を再開する。
「やだよなぁ。ああいうの」
谷坂は泥が口に入ったかのように舌を出しながら顔をしかめる。
「そういうのも陰口だけどな」
口にしてから、少し意地の悪い事を言ったと自分で思う。案の定、谷坂は珍しく不満そうな顔をした。
同意が欲しかった気持ちは分かるけど、俺はお前ほど素直に生きてはいないんだ。誤魔化すくらいは許して欲しい。
「冗談だ。お前のは陰口とは言わないよ」
多分な。ま、人殺しを殴ったら罪になる時代だ。案外、谷坂の言葉も『してはいけないこと』に該当するのかもしれない。
「そっか」と安心した表情をする谷坂。
その時、冷たい空気が頬に触れた。
空気が流れてきた方を見ると、教室の入り口が開けっ放しになっていた。先程の男子生徒が閉めなかったようだ。
閉め忘れた、とは考えにくい。元々開いていたわけでもないし、何よりこの季節だ。そうなると、これはわざと開けっ放しにしていると考えるべきなのだろう。
理由は、深く考えるまでもない。
先程の男子生徒は知っていたのだろう。
自分の後に、この教室に入る誰かが――生原命がいたことを。
クロセ達、女子四人の声は相変わらず大きく、それは教室内にいればどうしても耳に入りそうなほどだった。
生原は静かに教室に足を踏み入れ、彼女達の会話を耳にする。
「てか、一緒の高校入りたいとか、ほんとメーワクだよね。そのせいでクロセ、入りたくもない公立校の試験受けなきゃいけなくなったし」
「クロセや私達の頭でこんなところ受かるわけないのにねぇー」
無表情から無表情へ。
何が変わったかは分からなかった。それが表情の微妙な変化なのか、それ以外の何かなのか、それすら分からない。
だが、生原命の何かは確実に変わった。
その時、女子達四人の中の一人が生原の存在に気付き、他の三人に教えようとする。だがそれよりも早く生原は身を翻してゆっくりと教室を出て行った。その足取りは軽くも重たくもなく、不気味なまでに普通だった。
生原の手によってドアが閉められてから、谷坂と目を合わせる。
嫌なものをみた。と言わんばかりのしかめ面だ。
「女、こえーな」
「お前の彼女はここまでひどい奴じゃないと思うから安心しろよ」
話したのは二回か三回程度なので実際のところは不明だが、年上でしっかりして良そうな人だったし、さばさばした性格で、もしかしたら俺や谷坂よりも男らしいかも知れない。
しかし、あの四人を一般的な女性と見られるのは世の女性方も流石に嫌だろう。
谷坂は「そうかなぁ。そうだといいなぁ」と呟いてから席を立った。
「便所?」
短く訊くと、「いんや」と首を横に振る。
「さっきの女子、探してくる」
「なんでお前が?」
「だって、あんな奴らのせいで、面接ドタキャンして試験に落ちるなんて馬鹿らしいだろ」
「勝手に戻ってくるかもしれないだろ」
まぁ、来ないと思うけど。
「いや、来ないね。さっきの顔、『もういいや』って色々諦めた感じだったから、多分ほっといたら家に帰っちまうと思う」
もういいや。か。なるほど。確かにそう言われてみるとそんな表情だった気がする。正解なのかもしれない。後半部分は、おそらくハズレだが。
「それに、あの女子がここに受かれば、仲良くなれるかもしれないじゃんか? そろそろ二標にも初恋の甘酸っぱさを経験する時期が来るぜー」
「俺の初恋は幼稚園の頃だぞ?」
「何!? 初耳だ!」
「初口だからな。甘酸っぱい、というか、薬品臭い初恋だったなぁ……」
「幼稚園児の頃からどんな恋愛してんだ……」
律儀にツッコんでから、谷坂は「んじゃ行ってくる」と右手をシュタッと上げてから教室を出て行った。
残された俺は……、さて、どうしたものか。
面接が始まるまで眠っていようかと思ったが、クロセの動揺する声、他の三人の「いいじゃん、ほっとけば」という声が耳障りだったので、気分転換がてら校内を散歩しながら面接の復習でもすることにした。
腰を上げ、谷坂が出て行ったばかりの入り口を通って廊下に出る。
頭の中で作り上げた仮想面接官が俺に質問をしてくる。
長所は話を黙って聞く事が出来ることです(ただ単に話すのが面倒なだけ)。
短所は、行動するのを少しだけ面倒に感じてしまう事がたまにあることです(普段は『少し』どころではない)。
趣味は読書。好きな本は人間失格です(昨日、ようやく読み終えて記憶に新しいため)。
質問の受け答えを一通り確認してから、ふと思い付く。
いくら質問が上手く出来ても、その他が駄目では減点されてしまう。
階段を上がりながら、中学校で練習した事を思い出す。
例えば、面接室に入るとき。
まず軽く二回ノック。
どうぞ、という声が聞こえたら中に入り、ドアをちゃんと閉めて、面接官に体を向けて一礼してから、失礼します。
多分だけど、あいつ――谷坂はこれが出来ない。それどころか、その場所にすら辿り着けていないだろう。
踊り場を回って、階段の上に顔を向ける。
俺が試験を受けていた教室があるのは最上階。つまり、そこから階段を上がっても、小さなスペースと屋上へ続くドアしかない。
ノックもせずドアノブに手をかけて小さく回す。何の抵抗もなく、ドアはすんなり開いた。
ぶお、と吹いた強い風を体で受けながら屋上に足を踏み入れる。
その姿を最初に捉えたのは右目の端っこだった。
確かここの屋上は生徒にも解放されているはずだが、しかし受験生である俺……達がここにいるのはマズいだろう。
しかも一人は、俺より背の高いフェンスの向こう側にいる。
屋上の縁に立って真っ直ぐ前を向いている生原の顔はほとんど見えないが、さっきと同じ無表情だろうな、となんとなく思った。
「おい」
フェンスから二メートルほどの距離まで近付いて声をかける。俺がいることに気付いていたのか、それか元より興味など無いのか、生原は驚いた様子もなく振り向く。ただ、その表情は少し不思議そうだった。
「飛び降りる気か?」
その問いに、生原は屋上の下――ここから飛び降りたら、校舎の裏くらいに落ちるだろう――を覗き込んでから再び俺を見て、小さく頷いた。
「今日はやめて欲しいんだけどな」
後頭部を掻きながら言う。頭が痒いわけではない。自分のことながら何か誤魔化している気がしたが、その何かは分からない。
首を傾げる生原に、その理由を説明する。
「俺の家からこの学校まで来るのに一時間半かかるんだよ。お前が飛び降りたら絶対に午後からの面接は中止。また後日って事になるだろ?」
つまり面倒なのだ。それくらいは口に出さずとも分かるだろう。
生原は俺をじっと見てから納得するように小さく頷いた。
「よく、そんな遠いところに通う気になったね。寮とかないでしょ、ここ」
あ、喋った。反射的にそう思う。
呟くような小さな声。しかし、その澄んだ声は風に乗ったおかげかまっすぐと俺の耳まで届いた。
「一応、受かったらここの近所に住んでる親戚の家に世話になる事に決まってる」
「ふうん」
「てなわけで、出来れば飛び降りないでほしい。愚痴ぐらいは聞いてやるぞ? 俺は話すより聞く方が好きだし」
「……ナンパ?」
「成否で相手の命に関わるナンパは嫌だな」
少し茶化すように言うと、生原は微かに笑みを浮かべて、体をこちらに向けた。
「じゃあ愚痴、聞いてもらおうかな」
人生って結局どうなったらいいと思う?
生原はそう切り出した。
「結婚して子供作って子供が自立して孫が出来て家族に囲まれて老衰で死ねばいいの? それで幸せなの? それが『幸せ』なの?」
あくまで静かに、生原は言葉を続ける。
「幸せの形は人それぞれって言うけどさ、一般的にはそんな人生が幸せなんだよね? でもさ、それなら結婚して子供作って子供が自立した時点で死んじゃってもいいと思わない? ううん、むしろ、子供が出来て孫が出来て、それがどうなるの? どうせ死んじゃうなら一緒じゃない? 永遠の命が欲しいとかそういう事は関係なくて……。むしろ、永遠の命があったところで『だからなに?』だよね。生きてる意味が分かんないんだもん。
大人に訊いて見ろ? だめだめ。同年代の人以上に話になんないよ。
そりゃ、大人だし、私と同じような事を考えた事がある人もいると思うよ?
でも、結局答えは出てないんだもん。なんとなく生き続けて、なんとなく意味っぽいものを自分で作って満足してるだけ。
生きていくうちに分かる。意味を探すために生きてる。よく聞くけど、あれって結局は分かんないってことだよね。
言葉に出来ない? それって結局は『意味っぽい』ものを意味だと思い込んでるからじゃないの? というか、形どころか言葉にも出来ないもののために生きてるとか失笑ものだよね。それこそ、『それでどうなるの?』だよ。
中途半端に年取ってる人ほど若い人の生き方にダメ出しするけどさ、あれって結局は自分の生き方を美化したくて周りを、というか、格が下な人を見下してるだけでしょ?
ゲームばっかりしてたらロクな大人になれないぞ、漫画ばっかり読んでたら人生損してるぞ、趣味のない生活なんてつまらないだろう。
じゃあ貴方の生きがいはなんですか?
そう聞いたら、大抵の大人は家族って答えるよね。それか仕事。
つまらないと思わない?
偉そうな事言っときながら、誰も趣味とか答えられないんだから。結局は『それっぽい』事を言ってるだけだって思っちゃわない?
楽しく毎日を生きることが生きがい、なんて、ポジティブというよりはただの馬鹿な答えを言う人もいたけど、毎日楽しく生きて、それでどうなるのって聞いたら答えられないよね。
うん、私も分かってはいるよ。生きてる意味をちゃんと答えられる人なんていないって事くらい。人はなんで死んじゃいけないの? っていう子供の疑問と同じくらい困る質問だよね。
っていうか、なんで? を何度も続ければ、いつか答えられなくなるから、こういう質問は一つの終着点なのかもね。
っていう、こんな考えも大人達はなんとなくでも分かってくれると思うんだよね。だって昔は私と同じ子供だったんだもん。
でも、自分がすぐに考えるのを止めたように、一時的な――思春期らしい考えとか中二病とかそんな風に見て、結局は考えようとしないの。一時的な物じゃない、私は小さな頃からずっと考えてるって言っても誤魔化される。だって、答えがないって分かってるから。
だから私が勝手に答えを出したの。
ない。っていう答えを。
生きる意味も、理由も、価値も、幸せなんてのも、全部、ないって。
だったら死んじゃってもいいと思わない? 少なくとも私は思うよ。自ら死を選ぶのは人間だけ、って聞いたことある? 生物の中で自殺をするのは人間だけで、それはとってもいけない事のように言われてたけど、なんで?
大体、人は死を都合良く神聖化しすぎなんだよね。自殺なんて特に、だよね。それで困る人がいるっていうの分かってないのがタチ悪いよね。
私? 私は分かってるよ。私が死んだら誰かに迷惑がかかるって事くらい。その方がタチ悪い? でも誰に迷惑がかかろうと私には関係ないもん。その時には死んでるわけだし。
……あぁ、そっか。死を神聖化する人は自殺したりしないから関係ないんだね。だから人の迷惑も平気で出来ちゃうわけだ。
でもさ、自殺はしょうがないじゃん。この国は当分安楽死を認めてくれそうにないんだから、中学生が死ぬなら自殺しかないでしょ。大人になったら安楽死が出来る国に行って死ぬ、とか出来るけどさ。
私としてはそれがベストかなぁ。
自分で死のうとする、ってのは何度やっても怖いし、こうして衝動に任せてやっちゃうしかないんだよね」
ふぅ、と生原は疲れたように息を吐く。教室での口数が少ない様子からは想像出来ないほど、吐き出すように口から出た言葉の数々。反論したいところや疑問に思う個所もあったが、それよりも喋りすぎたことによって貧血でもおこして倒れたりしないかと少し気になった。この状況だとそれは洒落にならない。
俺と同じで無口そうなやつだと思っていたので、静かに、だがこれほど勢いよく喋ったのには少し驚いた。しかし、これがどのくらいの期間溜めこんでいた愚痴なのかと考えると、少ないように思えたから不思議だ。
「衝動って、何の衝動だ?」
訊くが、答えは分かっている。
その事を察していて必要が無いと思っているのか、それともただ単に口にしたくないだけなのか、生原はじっと俺を見たまま口を開こうとしない。
先程の愚痴を思い出す。
人が生きている意味。
それは生きていれば誰もが考えるであろうことで、生原が言ったように、良い言い方をすれば中学生らしい、中二病な悩みなのだろう。
だけど、普通はそれで死のうとは思わない。思っても、行動に移す理由にはならない。生きている意味が分からなくても大抵の人は気にせずに生きているし、これも生原が言ったようにそれぞれ意味を見つける。生原からすればそれは自分を誤魔化すための『意味っぽい何か』らしいが。
「じゃあお前がこうして今も生きてるのは、何か『意味っぽいもの』があるからなのか?」
生原は反応しない。
その代わりに、ポケットから何かを取り出した。
カッターナイフ。
生原が指を掛けると、カチカチという音とともに刃が出てくる。
「おいおい、試験受けに来たのに、警察に事情聴取とか勘弁してくれよ」
俺の言葉に小さく笑みを浮かべると、生原はカッターナイフの刃を手首に当てて、ゆっくりと引いた。
ぷち、と。気味の悪い音がした。
漫画やアニメの残酷描写のようにプシューッと血が噴き出たりはしない。血がツーッと手首を伝い、滴になって屋上の床に落ちる。
おそらく、そこまで深い傷でもないのだろう。古傷を開いただけなのかもしれない。
生原の手首は、リストカットの痕で若干変色していたから。古いものから、新しいものまで見える。もしかしたら、手首以外にも同じような痕があるのかもしれない。
「落ち着いた」
手首を見ながらそう言う生原に、俺は溜息がてら返事をする。
「貧血とかで倒れんなよ」
「大丈夫」
頷きながら言う。
「私、結構頑丈だから」
「そうは見えないけどな」
手首から滴る血を見ながら、俺はそう返した。
さわさわ、ではなく、ざわざわと複数人の話し声がどこからか聞こえてきたのはそんな時だった。知っている声はないが、結構な人数がいそうだ。
どこから? ……下?
嫌な予感がして、生原に「なぁ」と話しかける。
「もしかして、下に人とか集まってたりするか?」
俺に呼びかけられて首を傾げていた生原は、キョトンとした表情をしてから屋上の下を覗きこみ、再び俺を見てコクリと頷いた。
「下にもいるし、教室からも顔出したりしてる」
「マジかよ」
「パンツ見られてる」
「こっち来い」
生原は素直に従って、屋上の縁から降りてフェンスに手を掛ける。だがよじ上ってこちら側に来る気はないらしく、そこで動きを止めた。まぁそこならパンツも見えないだろう。もっとも、逆光にこの高さだから下からじゃあ見えないと思うが。
フェンスに手をかけているせいで制服の袖が若干下がって血が滴る手首が見えている。ブラウスとか真っ赤になっているんじゃないだろうか。
ポケットからハンカチを取り出して渡す。
「ありがとう。男子にしては可愛いハンカチだね」
四隅に小さな花がデザインされているハンカチを受け取って手首に当てながらそう言う。
薄い黄色――このハンカチの持ち主である叔母曰く、カナリヤ色というらしい――のハンカチは、あっという間に赤黒く変色していく。
「注目されると、まずい?」
血が滲んでいくハンカチを見つめていた生原が、静かにそう尋ねながら顔を上げた。
「まぁな。俺、頭悪いから午後からの面接が勝負って感じだし、あんま騒ぎとか起こして心象悪くしたくはないわな」
「ふうん」
興味なさげだ。分かっているのだろうか。巻き込まれた俺以上に生原は心象が悪いと思うのだが。少なくとも、問題児だと思われるだろう。
「じゃあこうしようか」
生原は無表情のまま、提案する。
「とりあえず、こっち来てよ」
「俺が?」
「うん」
「心中とか勘弁だぞ」
ここで突っ立っていても仕方がないので、何か案がある事を信じてフェンスに手を掛ける。
「心中の意味分かってる?」
フェンスをよじ登っている俺に、生原は呆れたように問う。
「は? 一緒に死ぬことだろ?」
「相思相愛な二人が、ね」
「そうなのか。そりゃ失礼」
自分のことしか考えていない俺達にそんな言葉が当てはまるはずも無い。あまりに場違いな言葉過ぎて、少し笑ってしまった。
「よっと」
フェンスの向こうに足を付ける。
もちろん、そのスペースは狭い。生原の横でフェンスに寄り掛かっている今の状態から一歩前に出れば屋上の縁に乗り、さらに一歩前に出ればあの世に逝ける。自殺した者はあの世に逝けない、とかいう宗教があった気がするが、その場合はどこに行くんだったか? 無明地獄でも味わうのかな。
「さっきまで下にいた、何人かの教師が校舎に入っていったから」
俺の横、膝を立ててしゃがんでフェンスに寄り掛かっている生原が何気ないように口を開く。
「多分、そろそろ来ると思うんだよね」
「ここに?」
「自殺しようとしてる中学生を放っておいて職員室でお茶会してくれてればいいけどね」
もちろん、そんなはずも無いだろう。
「で、どうすんだ? 二人して死のうとしてるように見られてもおかしくないと思うけど」
生原は無表情のまま俺を見上げてから、ゆっくりと立ち上がる。百五十センチ半ばくらいだろうか。並んで立った際に身長を予想する。
「君は、自殺しようとしていた私を説得した」
俺と自分を順番に指さす。手首にはいつの間にか真っ赤になったハンカチが巻かれていた。
「事実通りじゃないか」
「今日は自殺すんな、またここに来るの面倒だから。これを説得って言うならそれでもいいけどね」
確かに、そんなこと言ったと知れたら普通にお叱りを受けそうだ。
「君はここに来て、私の悩みを聞いた。どんな悩みか聞かれたら、誰にも言わないと約束したから言えない、って感じでよろしく。私もさっきの事を見ず知らずの教師に言う気はないから。それで、悩みを聞いた君が上手い具合に慰めて、私は自殺を止めた。まぁ、事実とは少し違うけど、あながち嘘ってほどでもないでしょ」
「俺がこっちに来た理由は?」
「大人たちが細かい事を気にしなくなるほどの、ドラマチックな演出のため」
服、汚れちゃったらゴメンね。そう言って生原は俺の胸に飛び込んできた。両手で俺の制服の裾を掴んで、前頭部を胸のあたりに当てる。そこから伝わってくる他人の温もりが妙に気持ち悪かった。
そのタイミングで、屋上のドアが開き、数人の教師が屋上へ入ってきた。
慌ててしまう気持ちは分かるが、自殺者の説得に大人が複数人で来るなど馬鹿げた行動だと内心で呆れてしまった。
紆余曲折、というほどでもないが、そんな事があって俺は無事その高校に入学できた。自殺騒動を起こした生原も合格したことは制服採寸や物品販売の時に姿を見かけたので知っていた。
入試の時の事もあり、担任に生原の事を気にかけてやってくれと言われてしまったこともあり、そして互いにクラスで孤立していた事もあり、俺と生原はなんとなく行動を共にするようになった。生原にとっては一人の方が良いのかもしれないが。
入学から二か月が経った今では、県外からきて知り合いがおらずクラスで孤立していた生徒や少人数のグループとも話をするようになって、友人と呼べるクラスメイトも増えたと思う。もちろん、それは生原も同じだ。むしろ、そういう人物を集めたのが俺だったため、一緒にいた生原も中心人物になっている。特に、女子達の間では。
結局この高校に落ちて私立校へ行った谷坂のように馬鹿で騒がしい人物は少なく、比較的大人しく、やんちゃもしないような生徒の集まりなので賑やかとは言えない雰囲気だが、しかし俺や生原にはそのくらいがちょうどいいと思う。
今日の昼休みも、食堂の一角に集まって四人で食事をとっていた。
俺の隣には男子、前の席には生原が座っていて、その隣に女子。まるで合コンのような並び方だが、もちろん大人しいメンバーがそれを意識しているはずも無く、いつも自然とこうなるのだ。
「二標君、今日も独創的な料理だね」
俺が弁当を開けると、隣の寺前が苦笑しながらそう言った。
寺前は俺と同じ様なたれ気味の目をしているのに、そこから感じる印象はまるで違う。俺はダルそうな目で、寺前は穏やかそうな目だ。その印象通り性格も穏やかな奴で、こいつとは一緒にいて疲れない。悪く言えば毒にも薬にもならないつまらない奴なのかもしれないが、『独り身グループ(命名生原)』には大人しいくせに毒要素の強い奴が多いため、中立とはいえなかなか貴重な存在と言えるだろう。
「交換してやろうか?」
「遠慮しておくよ」
俺が弁当をよせると、その分だけ自分の弁当を遠ざける。
気持ちは分かる。まともに食べられそうなものが白米だけという悲惨な状態の弁当だ。それ以外は、肉? だと思うものや、謎色のドレッシングがかかっているサラダ? などがある。
「うわー。すごいね、それ。二標君が作ったの?」
一緒に昼食を食べるのが一ヶ月ぶりの仁木谷はテーブルに手を付いて身を乗り出し、感心するような声をあげる。
肩に届かない程度の薄い茶髪が揺れて、いい匂いがこちらまで届いた。
仁木谷は『独り身グループ』の中ではダントツで賑やかな奴だ。
性格もいいし、容姿も上。普通ならば俺達と同じ『独り身グループ』に入るような奴じゃあないのだろうが、本人が多人数で行動するのが嫌いだというので仕方ないのだろう。
昼食を共にするのが久し振りなのも、普段、俺や生原はもっと大人数で食事をしているからだ。大人数といっても多くて七人。普段は四、五人といったところだが、仁木谷の限界行動人数は自分を含めて四人までらしい。
「俺にここまで食材を台無しにする才能はない」
大学三年である従姉が一週間前に帰ってきて以来、俺の昼食はいつもこんな感じだ。料理を作ったら彼氏にドン引きされたから見返したいと言っていたが、なかなか改善は見られない。
それまでは学校で買うか、俺が自分で作る(と言っても夕飯の残りがあったらそれを詰めるだけ)。たまに叔母が作ってくれる事もあった。
お世話になっている叔母のために言っておくが、叔母の料理は美味しい。従姉の料理を食べてから一段と美味しくなった気がする。とはいえ従姉の料理も食べられないほどではないし、腹を下したりも(今のところ)ない。
何よりも自分で弁当を用意するのは面倒だし、身銭を切って昼飯を買うよりは何倍もマシ。てなわけで今日も有り難くいただきます。
家に帰ったら感想を求められるだろうし、今のうちに考えておこうか。
独創的、斬新など、俺のボキャブラリにある都合のいい言葉はほとんど使ってしまったように思う。
だが、美味いと言ってしまえば、この料理で満足してしまいそうだし、それが原因で彼氏と喧嘩したり、最悪別れたりされては後味が悪い。この料理は先味も後味も悪いが。
「従姉のお姉さんが作ってくれてるらしいよ」
「へぇー。叔母さんは料理上手なのに……」
黙りこくった俺の横と斜め前で会話が繰り広げられる。
「母親が料理上手だと、娘はかえって料理をしなくなるって聞いたことあるよ」
と言うのは寺前。
「そうなの? じゃあ逆もまた然り? お母さんが料理下手だと娘は料理をするのかな」
「どうなんだろうね」
どこかで聞きかじった程度の知識で詳しくは知らないらしく、寺前は苦笑を浮かべてから生原に顔を向けた。
「生原さんは料理とかする?」
食堂で買ったラーメンを無表情のまま啜っていた生原はゆっくりと顔を上げる。
どこからどう見ても料理が出来る女子には見えない。というか、彼女が包丁など持っていたら家族は気が気でないだろう。
だが、俺の予想に反して生原は首を縦に振った。
「たまに、だけど」
内心驚きながらも、その姿を想像してみる。私服――いつだか『独り身グループ』で遊びに行った時に着ていたロングTシャツに膝丈のふんわりしたスカート――を着ている生原に無地のエプロンを補完して、ついでに頭には三角巾をかぶせる。そこまではよかったが、どうしてもそこからは無表情のまま手首をカットする生原しか想像出来ない。これは想像力があるといっていいのかないというべきなのか微妙なところだ。
「やっぱりお母さんと一緒にやったりするの? 教えてもらったりとか」
寺前の質問に無表情のまま頷く。生原の母親とは、俺も面識がある。
『独り身グループ』で遊びにいった際、帰りが遅くなり、生原を家まで送ったことがあった。その時に生原の母親と顔を合わせたのだ。普通の人だった。少し変わっている娘が同年代の友達と遊びに出掛けていた事を喜ぶ、普通の母親だった。母親の存在は、生原が自殺を止める理由にならないのだろうか。なんて思った。
そんなことをぼんやり考えているうちに、話題は親の職業に移っている。
「そういえば、二標君の叔母さんって何やってる人なの? 主婦? あ、料理人とか?」
仁木谷の予想は残念ながら両方ハズレだ。
「看護士。県立病院に勤めてる」
「白衣の天使!」
何か感じるところがあったのか、仁木谷は興奮した様子で言う。
「五十近い叔母様天使だけどな」
「構わんよ!」
何がだ。
「ていうかさ、やっぱり男子ってナース服とか好きなの?」
「男って言っても色んな奴がいるからな。女子だって全員が全員、執事服が好きなわけじゃないだろ?」
「好きだよ!」
「いや、お前はそうなのかもしれんが」
まぁ、個人的な好みでいえば好きに入るのかもしれない。からかわれるのが目に見えているので口にはしないけど。
「僕も好きだよ、ナース服」
穏やかそうな笑みを浮かべながらさらっと言う寺前。言っていることは変態なのに、そう感じないからズルいと思う。というか、
「僕『も』ってなんだよ。俺まで一緒にすんな」
「……仁木谷さんと同じでって意味だったんだけど……」
苦笑する寺前から顔を逸らす。完全に墓穴掘った。
「なーんだ。みんなナース服大好きなんだ!」
嬉しそうに言う仁木谷。あまり大きな声を出さないでほしい。
お前も勝手に仲間入りしてるけどいいのか。そんな意味を込めて、向かいの生原に視線を送る。
だが生原は気付くことなく、お盆を持って席を立った。
「ねぇねぇ、二標君ってどんなタイプの女の子が好きなの?」
コスプレ好きの話から性格的好みに変わったらしく、仁木谷が若干声をひそめながら訊いてくる。
「好きなタイプ……。幼稚園児の頃の初恋相手は年の割に落ち着いたタイプだったな」
むしろ、あれは無気力とか無感情というべきなのかもしれないが。
「じゃあ嫌いなタイプは?」
「すぐ自殺する奴」
即答すると、仁木谷は苦いものを噛み潰したような顔を、寺前は気まずそうに苦笑を漏らした。
当然といえば当然だが、生原が入試の日に起こした自殺未遂事件は学校中に知れ渡っている。ついでに俺のことも。
入学してしばらくはその事について話を聞かれたりもしたが、適当な返事をしていたらそのうち人も寄りつかなくなった。おそらく生原も同じようなものだろう。
「洒落になんないブラックジョークだよ、二標君」
ジト目で言う仁木谷。
「嘘じゃないけどな」
「二標君と生原さんって仲が悪いことはないよね?」
寺前が苦笑を浮かべたまま尋ねてくる。
「別に普通だと思うけどな」
空容器の返却口にお盆を乗せる生原の後ろ姿を見ながらそう返す。
「なのに嫌いなの?」
「別に生原の事は嫌いじゃない。好きなところも嫌いなところもあって、つまりは普通だ」
「じゃああの自殺未遂がなければミコっちの事は普通に好きだったりする?」
生原に聞こえないように右手を口の横に当てる仁木谷。
あの騒動が無ければ、か。仁木谷の言いたいことはつまり『生原がどこにでもいる普通の女子だったら』ということだろうから、そう考えさせてもらおう。
「さぁな。分からん」
興味すら持たなかっただろうな。
俺は多分、そういう奴だ。
手ぶらで戻ってきた生原が向かいの席に座る。
仁木谷のいう『生原命、普通の女の子バージョン』を想像していると、ふと目が合って、生原は小さく首を傾げた。
そして同日の夜、俺は生原の母親から連絡を受けたのだった。
従姉と一緒に近所の大型書店に行った際、自殺や自傷行為についての本を読んだことがある。
パラパラと流し読みしていく中で目に止まったのは『自殺企図と自傷行為の区別』という文字だった。
死ぬ意図がなければ自傷行為。死ぬ可能性がある事が分かっていれば自殺企図。
生原の行動に当てはめるならば、入試日、屋上であのまま飛び降りて死んでいれば自殺。飛び降りても死ななければ自殺企図。この場合は自殺未遂と言った方が正しいのだろうか。そこらへんはなかなか曖昧だ。結局、死ぬ意図のない自傷行為だけで収まったわけだが。
自殺企図に自傷行為。実際、その二つの判別はなかなか難しいという。判別方法は『死ぬ意図の有無』。つまり、自殺や自傷をした本人次第だ。だから、難しい。そんな行為をした者の言葉を心から信じることが出来るはずも無い。
入試日の生原の行動は、結果的に自殺念慮、そして自傷行為。後項は自己毀損と言っていいのかもしれない。自殺しないための自傷行為。そう見えなくもなかった。
自傷行為として一般的に知られているのはやはりリストカットだろう。手首を傷付けるという行為には何かしらの精神的見解もあるらしいが、実際は手首内側だけではなく、腕や足、腹部などにも傷をつける人もいるらしい。生原はどうなのだろう。長袖姿しか見た事が無いので分からないが、もうすぐ夏服に衣替えの時期だ。生原の事だから傷痕を隠したりはしないのだろうが。
その本を読んだ中で他に気になった項目は、『連鎖的自傷行為』だろうか。自傷行為をする者に触発されて他の者も同じ行為をしてしまう事がある、という内容だったはずだ。これは特に若者にいえる事らしく、『独り身グループ』は大丈夫だろうか、なんて心配になったりもした。生原ほど行動的ではないにしても、同じような悩みを抱えているものなら何人かいそうだ。
過去には病院や学校で自傷が流行したり、大人数で自傷行為を行うためのパーティが開催されたりしたこともあると記述されていた。想像したら、下手なホラー映画の何倍も恐ろしい、というか、悍ましい光景だった。
しかし、やはり思春期、青年期というのは同年代の友人を求める時期でもあるという。そして、友人の存在が不安を払拭し、自傷者に精神的安定を与え、ひいては自傷行為の治療になるのだという。
でも、それは生原にとって生きる意味にはならないのだろう。それは俺もなんとなく分かる。
『だから何?』
結局は、それなのだ。
生きる意味を生原に与える事は出来ない。
だから俺は、死ねない理由を作ったのだ。
風に靡く髪押さえたまま、生原は俺をじっと見る。風でめくられたスカートの中がチラチラ見えるのだが、それは気にしていないようだ。
「死ぬ気は、ないよ」
表情を動かさないまま端的にそう言った。
そんな事は言われなくても、血で赤く染まっている両手を見れば分かる。生原はまた、自殺しないために自傷をした。だから正確には『死ぬ気は無くなった』なのだろう。
「死にたくなった理由は? 雨が降ってたから、なんてどうしようもない理由は勘弁してくれよ?」
雨の日に自殺者が増える事は統計的にも判明しているらしいが。
生原はうっすらと笑みを浮かべる。貼り付けたような笑顔だった。
「すぐ自殺する人は嫌いなんでしょ?」
「……勘弁してくれよ」
「君のせいって言ってるわけじゃないよ? ただ、今の環境を作ったのは君だから、その君に嫌われたらすんなり死ねるかなーって。でも、自殺するために自殺するってなんか変だし、どうしても『独り身グループ』の人を思い出しちゃうし」
生原が入試の日までに死なずにいた理由。それは、偽りであったにせよ、大切に思える友人がいたからだ。それは『生きる意味』にならないが、『死ねない理由』にはなる。
「でも、死ねなくなったのは君のせいだよ? 入試の時、私は別にショックで死のうって思ったわけじゃないんだから。あの友達がいなくなったら――、例えば死んじゃったり、友達辞められちゃったりしたら死のうってずっと昔から考えてたんだよ? 自殺に失敗して、あの友達と知り合った五歳の頃から、ずっと」
知っている。五歳の時、生原はマンションから飛び降りて重傷を負った。そして、入院したのは県立病院。偶然、その頃病院にいた俺も生原の姿を見た事があったし、五歳で自殺未遂というのは流石に看護師である叔母も珍しく思った。そのうえに同時期に同じような事件があったため、余計にその事を詳しく覚えていた叔母に、入試の後、話を聞いたのだった。
『なんとなく』
当時の生原は飛び降りの理由を問われると、そう言ったらしい。
その後、母親の知人の子供――おそらくこの子供がクロセなのだろう――と交友関係が出来てからは自殺未遂も無くなり、自傷行為の頻度も少なくなったらしい。
入学してから生原に話し掛けて、『独り身グループ』を結成したのは、新たな『死ねない理由』を作るためだ。前のように一枚の壁ではなく、何十にも重ねて厚い壁を作るべく。そしてそれは成功した。俺という一枚の壁が崩壊しかけても、生原は一歩を踏み出すことが出来ずにいる。出来れば壁から手でも出てきて自傷行為を止めてくれれば言う事なしなのだが、そこまでの壁はまだ現れない。
「入試の後、またすぐ死なれても困るから半年くらい我慢してくれって言うから仕方なく従ったらいつの間にか友達作られるし……。君って、ブタ?」
酷い言葉が聞こえた。本人は死にたがっているのに、それを邪魔しているのだ。恨みたくなる気持ちは分かるけど。
「太ってもないし、豚っ鼻でもないと思うけどな」
「そう言うことじゃなくて……、どっかの外国ではブタって幸せを運ぶ動物って言われてるらしいよ。そういうこと」
へぇ、と返す。知らなかった。じゃあ『このブタ!』という日本では暴言極まりない言葉も、外国では褒め言葉……にはならないよな。
「ま、君はどっちかというと幸せの押し売りだけど」
「そりゃ、心外だ。別に俺はお前を幸せにしたいなんて思っちゃいないぞ。俺がそんなこと出来るとも思わないしな」
自殺、自殺予防の研究の権威として知られているシュナイドマンは、自殺の理由を、死ぬことより苦しみから逃れるため、と言ったらしい。
では、生原にとっての苦しみとはなんだろう。
「とりあえず、死ぬ気ないならさっさと帰るぞ。お前んちのおばさん、心配してたし。てか、その手でフェンス登れるか?」
「うん。痛いけど大丈夫」
ガシッとフェンスを掴み、ゆっくりと登ってこちら側に戻ってくる。ここのフェンスをよじ登るのはこれで四回目という事もあり、少々手慣れた様子が感じられた。それもどうかと思うが、フェンスから落ちるのではないかと心配するよりは精神的に楽だ。
屋上の床に足を降ろした生原は、ゆっくりと俺と向き合う。その手首からは相変わらず血が流れている。
「ハンカチとか持ってないのか? 悪いけど、俺は持ってきてないぞ」
そう訊くと、生原はおもむろにポケットからハンカチを取り出した。それは俺が入試日に渡したカナリヤ色のハンカチだった。洗濯しても血は落ちなかったらしく、赤黒い色に変わってしまっているが。
あの後、返さなくていいと言ったので、生原が持っていることには何の問題もない。
「血拭き用ハンカチ」
「有効活用してくれてるようで何よりだ」
呆れながらそう返すと、生原はうっすらと笑みを浮かべた。
「じゃあ帰るか。こんな時間だし、家まで送るよ」
生原が頷いて俺の横に並んでから、二人で非常階段に向かって歩き出す。
生原にとっての苦しみ。
それは、何の意味もないこの世で生き続ける事なのではないだろうか。
そして生原にとっての幸せとは――。
だから、ブタになってやる事は出来ない。
何故なら俺は――
君の不幸を、今も願っているのだから。