エンジェル・ラダー
エンジェル・ラダー。
雲の切れ間から光が地上に延びてくる現象。
「天使の梯子」とも呼ばれている。
地上に延びた光の梯子で、天使が舞い降りてくるという言い伝えがある。
長い冬
「おはよう」
美紗は水色のカーテンを開け、部屋の窓を開けた。
まだ朝日が昇りきらない淡い色の空に、ムクドリ達の群れが、朝の散歩を始めた。
冷たい空気を頬に感じながら、空に向かって語りかける。
そう、いつものように。
返事が返って来ないことは分っていながら、少しの期待を信じたことの寂しさに溜め息をつくと、白い息が雲のように目の前に漂う。
寒い冬が近づいていた。
〉〉おはようございまうす。
美紗の携帯に突然飛び込んできたメール。
この一通のメールの始まりから、美紗の心の中に冷たく積もった雪が、少しずつ、少しずつ、溶かし始めていくようになった。
愛する人を三年前に亡くし、今も立ち直ることの出来ない美紗は、孤独を紛らわすためにバーチャルなネットでの交流の世界に浸っていた。
顔の見えない『誰か』と話すことは、美紗にとって心の中を自由に話せる空間になっていたからだ。
愛する人を失った、とてつもない悲しみを癒してくれる『誰か』を探し求めていたのかもしれない。
最愛の人、敬樹。
美紗が三十年の人生の中で愛し愛された、たった一人の男性だった。
美紗のすべてを優しく包んでくれる大切な人だった。
敬樹の温かい愛に包まれて、ずっと一緒に生きていけると信じていた矢先の突然の永遠の別れだった。
それ以来、美紗はもう笑うことを忘れてしまっていた。
冷たい外の空気を感じながら、窓を閉めると、携帯のメール着信音が鳴った。
あるサイトに美紗が敬樹への思いを書き込みしたものを見てくれた、清太と名乗る男性からだった。
〉〉おはようございまうす。
突然のメール失礼します。
親しい間柄でも口に出せない言葉ってありますよね。
でも、きっと美紗さんの大事な人は、美紗さんの言えなかった言葉を 聞いていてくれたと思いますよ。
それが愛する者同士だと思います。
恋人を若くして亡くされたということで、人には言えない苦労もあっ たかと思います。
ですが、それは決して無駄になっていないと信じます。
元気を出してくださいな。
温かいぬくもりを感じた。
たった九行の言葉の中に、一人の寂しさを癒してくれる人だと感じた。
少しの時間だけでいい。
そのぬくもりに甘えることを神様は許してくれるだろうか?
美紗は清太にメールの返事を送らずにはいられなかった。
〈〈 元気がでるようなメールをありがとうございました。
前向き!前向き!と思って毎日を過ごしているけれど、沈んでばか りの日々です。
清太さんのメールで、少しだけ勇気をもらえたように思います。
どうもありがとうございました。
美紗は清太にメールの返事を送り返すと、ものの数分で返事が帰って来た。
〉〉誰かを励ましている・・・と言うことは、見方を変えれば自分自身に言い聞かせているってことも言えますので。
綺麗な朝日が昇っています。
美紗はまた窓を開けて空を見上げた。
愛する敬樹がいると信じている空を見上げた。
朝日が昇りきった空には、太陽の光と共に美紗の心の奥を静かに照らし始めた。
この日から美紗は少しずつ、笑顔を取り戻していった。
それからというもの、「おはよう」から一日が始まり、「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」、「おやすみ」まで、他愛無い挨拶メールだったが、清太とのメールのやり取りが毎日続いた。
メールを送れば、すぐに返事を送り返してくれる清太は、美紗に孤独感を感じさせなかった。
だがある日、プツリと清太からのメールが途絶えてしまった。
二日・・・三日・・・清太からメールが来ることはなかった。
もちろん、美紗が送ったメールの返事も来ないままだった。
『清太からメールが来ないことが、何故こんなに寂しいのだろう?
私とのメールのやり取りがつまらなくなったのかな? いや、仕事が忙しいのかもしれない。
何か清太さんの身に起こったのだろうか?』
清太に対する心配や寂しさに耐え切れなくなってしまっていた。
その感情がどういうものなのか・・・美紗はまだ気づいていなかった。
ただ、ひとつ言えることは、敬樹以外の人を愛さないと決めていた美紗の心が、清太のことが気になり始めていたということだった。
感情に流されるまま、美紗は殻を破り始めた。
何故か指が勝手に携帯の文字打ちを始めていた。
美紗の清太への感情が出てしまったメールだった。
〈〈こんばんは。
清太さんのメールは、ひとつひとつの言葉に、ほわっとさせられた り、癒されたり、なんか安心できて。
ここ数日、清太さんのメールが目に出来なくて、不思議なことに寂し さに苛まれていました。
一人の孤独感を清太さんの温かい言葉に、助けられていたのだと感じ ずにはいられませんでした。
会ったこともない、お互いを知ってまだ間もない。(しかもメール)
でも素直な気持ちで言わせてください。
私、清太さんのこと・・・気になっています。
メールを打ち終えると、送信ボタンを押すのに何時間、携帯と睨めっこしていただろうか。
美紗に気がなければ、清太はもう二度とメールをよこさないだろう。
また孤独な日々に戻ってしまうことが怖かった。
部屋の窓を開けて空を見上げた。
冬なのに雲ひとつない空。
「怖がらずに心に勇気を与えてごらん」
敬樹がそう言って、美紗の背中をそっと押してくれたように感じた。
・・・送信・・・
二日後、清太からのメールが届いた。
待ちに待ったメールだった。
美紗を受け入れてくれる返信なのか、それとも遠のいていく返信なのか、美紗は恐る恐るメールを開いた。
メールが送れなかったのは、出張中だったこと、携帯の調子が悪かったこと、そんなことが書かれた後。
〉〉「行ってきます!」 とか、「行ってらっしゃい!」等、些細なことかもしれませんが、
正直ちょっと忘れかけていたトキメキな部分もあります。
優しくしてあげることも、優しくしてもらうことも、そうそう無くな ってしまってい
る無機質な日々の中、普通の家庭では当たり前に交わされている会話 にさえも新鮮味を感じる今日この頃です。
とても不謹慎かも・・・という思いもありますが、日々の生活の中に 何らかの形でアクセントになっていることも事実です。
何回かのやり取りだけでとさえ思われるかもしれませんが、その人の 書いた文章、会話などで結構相手の人の様子が分かります。
がんばれ! なんてプレッシャーは書けませんけれど、気楽にまたメ ールしてみようかな? なんて気になったら、また下さいな。
あなたが元気になれるように頑張りますから。
『あなたが元気になれるように頑張りますから。』
この言葉は、美紗を受け入れてくれたという意味なのだろうか?
優しい言葉を久しぶりに感じた美紗は、涙が止まらなかった。
清太に優しさを感じて、どんどん惹かれていく自分にどうしようもなく戸惑っていた。
二人のメールのやり取りが一ヵ月続いた。
会いたい・・・そんな感情がいつしかお互いの中に芽生え始めていた。
清太の愛車はロードスターで、冬、屋根を開けて走るのが好きだと言う。
思うほど寒くは無く、むしろ夏より気持ちがいいらしい。
美紗はオープンカーに乗るのは初めてだし、清太が言う「冬のオープンカー」の体験がしてみたいと冗談で言ったら、本当に体験させてくれるというのだった。
そうして二人の初デートの日が決まった。
聞けば、美紗の家から車で三〇分程の所に清太は住んでいた。
当日は美紗の家の近くの駅前のカフェで待ち合わせをした。
『どんな人なのだろう?』
美紗は店内に人が入って来るたびに、入り口に目をやっていた。
ふと、目を外に向けた瞬間、
「はじめまして」
四〇歳前半の男性が美紗に挨拶をした。
「清太さん? あっ! はじめまして」
いきなりの清太の登場に、動揺を隠しながら平常心を装い、清太を合い向かいの椅子に誘導した。
「よく私がわかったわね。特徴など何も言わなかったのに」
「なんでだろう? 直感かな。なんかこの人だって思った。でも、もしかしたら誰? なんて変な人扱いされたら、どうしようと思ったりしたけどね」
清太は気さくに話せる男性だった。
身長一七〇センチ、中肉中背の決してカッコイイとは言えない男性だったが、グイグイと引っ張っていくような、積極性がある存在感をかもし出していた。
美紗の胸の高鳴りが、かすかに聞こえたのを感じた。
二人はコーヒーを飲み終えると、早々にお店を後にした。
駐車場に止まっている清太の愛車、紺色のロードスターに乗り込んだ。
オープンカーだと聞いていた美紗は、マフラーに手袋、ダウンコートと寒さ対策を完璧にしてきたつもりの姿に清太は苦笑した。
しかし、いちばん冷えるのは頭で、肝心の帽子をかぶってない美紗の頭に、車のトランクから帽子を取り出し、美紗の頭にポンとかぶせた。
ロードスターは街中を颯爽に走る。
清太の言う通り、真冬なのに屋根を開けて走っても全然寒くない。
冷たい風も気持ちがいいほどだった。
信号待ちで、ふと空を見た。
敬樹のいる青い空。
寂しげな顔を見せてしまったのか、清太の温かい手が美紗の冷たい手をそっと握り、
「俺のお気に入りの場所へ行こうか」
囁くように美紗の耳元で言うと、車を山道へと走らせた。
「どこへ行くの?」
「今の時期、どこまで行けるかだけど・・・」
清太は着くまで場所は明かさなかった。
山道をどんどん上ると、道路に雪がちらつき始める。
「もう少し、もう少しなんだけどな」
スタッドレスタイヤを履いていないロードスターを上手く転がしながら、なんとか清太のお気に入りの場所に着いた。
「寒いけど、降りてみよう」
そこは山の見晴台だった。
空気が澄んだ冬の景色は、下界に見える建物や、道路を走るミニチュアのような車、遠くの山々まで、はっきり見渡せる絶景だった。
高い山だから空も近い。
敬樹のいる空に少しでも近づけるように、雪のちらつく山道を無理して上って、美紗をこの場所へ連れて来てくれたのだ。
「また、会ってくれるかな?」
清太の問いかけに、美紗は静かに首を縦に振った。
山の冷たい空気が、冬の澄んだ景色と一体化するように、そっと二人を寄り添わせた。
風のいたずら
もう冬も終わる風の吹く日、清太は美紗を河原にある大きな広場に連れて行き、車のトランクからスタントカイトを取り出した。
「美紗、飛ばしてみようか!」
スタントカイト・・・早く言えば洋風の凧揚げだけど、美紗は初体験だった。
「よし! この風ならよく飛ぶぞ!」
カイトは風が強ければ強いほど、よく飛ぶらしいのだ。
童心に返ったように空高くカイトを飛ばしている清太を、美紗は微笑ましく見ていた。
「美紗、おいで。持ってごらん」
清太は美紗を自分の腕の中に入れてカイトに繋がって延びている二本の糸をコントロールするハンドルを握らせた。
「この空に文字を書いてみよう」
「そんなこと出来るの?」
清太は少し首を傾げて、ビュンビュンと風で唸るカイトを真剣な眼差しで見つめていた。
風の向きで左右に飛んでいってしまうカイトのコントロールするハンドルを持つ美紗の手を、清太は包み込むように握って空に文字を書き始めた。
~あ・お・い・そ・ら・と・・・
そこまで書いた瞬間、風がふっと止んでカイトはシュルシュルと地面に落ちていってしまった。
「なんて書こうとしたの?」
清太の顔を見てガッカリする美紗に、
「もう一度、飛ばそう!」
清太は落ちたカイトの元へ走って行った。
美紗も清太の所へ小走りで行くと、いきなり清太は空を指差して、
「美紗、見てごらん。エンジェル・ラダーだ!」
清太が指す指先を見上げてみると、青い空に浮かぶ雲の切れ間から、地上に延びる光があった。
・・・エンジェル・ラダー・・・
雲の切れ間から太陽の光が地上に延びている。
この現象にそんな夢のある素敵な名前が付いているとは知らなかった。
そして、雲の切れ間から延びる光が階段となって、空から天使が舞い降りてくる。
そんな言い伝えがあるという。
空にいる敬樹が、エンジェル・ラダーの光の階段で地上に降りてきてくれたら・・・。
空をずっと見上げている美紗の頬を涙がつたった。
清太は美紗の頬につたった涙をそっと親指で拭い、
美紗が愛した敬樹さんが、美紗にしてあげられなかったことを、出来る限り俺がしてあげるよ」
清太は美紗を優しく抱き寄せた。
桜の花が散り始める四月十日、美紗の誕生日がやってきた。
清太のもう一つのお気に入りの場所に美紗を案内した。
そこは、湖のある美しい山の山頂。
その山に行く途中には、メロディ・ラインという名の道があり、道路のデコボコと風力で「湖畔の宿」のメロディを体感できる不思議な道路だった。
車の窓を開けて二人でメロディに合わせてふざけあいながら合唱して苦笑した。
「いい歳をした男女がすることじゃないよね・・・」
湖畔のある山頂の湖のほとりに車を止めて、ロードスターの屋根を開けて夜空を見上げると、空に輝く星が湖に映し出され、上を見ても下を見ても光輝く星が楽しめる、不思議なプラネタリウムを見ているようだった。
美紗が光る夜空を愛おしそうに見上げていると、
「おめでとう」
清太は、小ぶりの可愛いピンクの薔薇の花束を美紗に差し出した。
薔薇といえば定番の赤を想像するのに、あえてピンクの薔薇を選んでくれた清太。
奇麗な赤い薔薇より可愛いピンクの薔薇。
清太には美紗が可愛い女に映っていたのだろうか? そう思うと美紗は嬉しかった。
「ありがとう。花束をもらったのなんて初めてよ。すごく嬉しい」
薔薇の匂いを嗅ぎながら、嬉しそうな笑顔で薔薇を見つめる美紗の唇を清太はそっと塞ぎ、美紗の身体の上を清太の指が踊りだした。
久しぶりの愛されているという快感。
美紗は清太を受け入れた。
清太はやさしく、やさしく美紗の身体を愛撫した後、満天の星空の下で二人は結ばれ絶頂を迎えた。
新緑が眩しい五月、ロードスターが愛車の清太は、毎年、軽井沢で行なわれているロードスターの祭典『軽井沢ミーティング』に参加していた。
今年もその季節がやって来た。
「美紗、一緒に行こうよ」
今年で清太は、この軽井沢ミーティングに参加するようになって十回目になる。
この記念すべき十回目になる軽井沢ミーティングに、美紗を連れて行くことに眼を輝かせて、清太は楽しそうに計画を練っていた。
「当日は朝五時出発だよ」
「え~、五時! 四時に起きなくちゃ・・・起きられるかな?」
低血圧で朝の弱い美紗は、早朝に起きるというのは至難の業だった。
「大丈夫、ちゃんと起こしてあげるから」
当日、朝四時に清太からの目覚ましメールが届く。
美紗はなんとかベッドから這いずり起きて、最低限のメイクと最低限のオシャレをして、ロードスターに乗り込んで、軽井沢へと二人は出発した。
しかし朝から土砂降りの雨だった。
車の屋根を開けて、朝の綺麗な空気を吸いながらのドライブの予定が、幌の屋根に雨が激しく叩きつけ、雨音のボツボツという大きな音が美紗を不安にさせていた。
「大丈夫。開会式が始まる頃には晴れるから」
清太は何か自信ありそうな口調で言った。
現地に着いても雨は相変わらず激しく降り続ける。
朝、早かった美紗は、雨の音を子守唄に聞きながら、車の中でウトウトといつの間にか眠りに落ちていた。
「お嬢様、起きてごらん」
清太の声で目を覚ますと、太陽の眩しい光が美紗の目に飛び込んできた。
眠りに落ちる前は、あんなに降っていた雨が止んで太陽が顔を出している。
千台近く集まったロードスターは、一斉に屋根を開け始めた。
清太もロードスターの屋根を開けると、雨に濡れた駐車場のアスファルトが、太陽の光に反射して辺り一面が眩しい位に輝いている。
「軽井沢マジックだよ」
清太が言った。
毎年、雨で始まる軽井沢ミーティングだけど、昼前には雨が止んで晴れることが多いらしい。このような現象を「軽井沢マジック」と呼ぶのだそうだ。
ロードスターを愛する人達の想いが空に通じているのかもしれない。
そして雨の上がった空には、清太が教えてくれたエンジェル・ラダーの光の梯子が地上に延びている。
車をこよなく愛していた敬樹。
光の梯子を伝って、この場所へ降りてくることが出来るだろうか。
ふと、遠い目をしている美紗に、
「お目覚めのコーヒーを入れてあげましょうかね」
美紗は我に返って清太を見た。
清太は持って来たカセットコンロでお湯を沸かし、珈琲を落としてくれた。
清太の入れてくれた珈琲は、美紗にはちょっと苦い大人の味を利かせてはいるものの、温かく優しい香りを漂わせていた。
珈琲を飲み終えると、二人は駐車場に集まった千台近くのロードスターを見て歩いた。
ドレスアップした派手なロードスター達が二人の目をひく。
熱帯魚・・・三流ドライバーのカーレーサーだった敬樹は、美紗をよくサーキットへ連れて行った。
そこで見たカラフルな車体をしたレーシングマシンを、敬樹は『熱帯魚』と名づけていた。
その言葉がここに並んでいるロードスター達を見て、美紗の頭の中に思い出を蘇られていた。
敬樹のことを思い出している美紗を、いつも清太は感じていた。
「美紗、ソフトクリーム食べに行こう。軽井沢名物、モカソフト! 美味しいぞ!」
まるで子供の手を引くように美紗の手を握り、清太は歩き出した。
清太は遠い目をしている美紗が、笑顔に変わるのを見たかった。
楽しい時間は早く過ぎてしまう。
丸一日清太と過ごすのは、この日が初めてだった。
夜、十二時近く、美紗の家に到着した清太は、茶色のA四サイズの封筒を美紗に差し出した。
「何?」
封筒の中を覗いて見ると、そこには原稿が入っていた。
不思議そうな顔で清太を見ると、
「俺のいちばん愛した女性のことが書かれている・・・」
清太はその女性と過ごした日々を小説として書いて、原稿を出版社に送ったことがあるらしい。
でも採用されなかったその原稿は、もう闇に葬るつもりでいたらしいのだ。
その前に美紗に知っておいてもらいたくて、原稿を読んでもらう決心をしたのだと言った。
美紗は戸惑った。
清太を受け入れ愛し始めているのに、清太の愛した女性の影を見たくなかった。
「美紗を愛してしまったから、俺の過去を知ってほしい。」
原稿を美紗に渡したまま、清太の車は走り去って行ってしまった。
去って行く清太のロードスターの赤く光るバックライトが見えなくなるまで、美紗はずっと見送っていた。
残された美紗の心の中に、夜風がいたずらを仕掛け始めた。
清太の過去
美紗は家に入ると、清太に渡された封筒に入った原稿をテーブルの上に置き、ソファーにどっさりと腰掛け、しばらくボーッとしていた。
この封筒の中には清太のいちばん愛した女性がいる。
その女性を知るのが美紗は怖かった。
どの位の時間、封筒とにらめっこしていただろうか・・・清太を愛してしまったのなら逃げてはいけない。
美紗は封筒から原稿を取り出し、一ページ目をめくった。
バツイチの清太は五年前に離婚をしていた。
JAZZの音楽が好きな清太は、お気に入りのJAZZ喫茶に当時入り浸っていた。
そこで出会った女性が、この小説に書かれている夕香だった。
お互いJAZZの話で盛り上がり、いつしか惹かれ合い、意識し合うようになっていった。
そして二人の三ヶ月間だけの燃え上がるような恋。
そこにはエロティズムな大人の恋愛が描かれていた。
そして三ヶ月間の中で清太と夕香も軽井沢ミーティングに出かけていた。
『いちばんの思い出深いひと時だった』と書かれていることから、この日に原稿を美紗に渡そうとした清太の思いが伺えた。
二人の別れは、韓国語を勉強していた夕香が韓国に旅立ち、そのまま夕香は韓国に行ったまま、音沙汰がなくなってしまったというあっけないものだった。
それから二年の月日が流れていたが、今も夕香をどこかで探し求めいてる清太が、その小説の中にいた。
美紗は最後まで読み終えると、清太にメールを送った。
〈〈今すぐ会いたい・・・。
夕香に「会いたい」と言われれば、すぐに飛んで行ったと、原稿を読んで知ってしまった美紗だったから、あえてわがままが言いたくなった。
〉〉今すぐ行くよ。
清太の愛した女性の影を知ってしまったことからの不安感、清太が美紗の元に来てくれたことの安心感から、清太の顔を見るなり美紗は涙があふれ出た。
「子供の美紗には刺激が強すぎたかな?」
子供をなだめるように、清太は美紗の頭を撫でながら自分の胸に引き寄せた。
清太から見れば九歳も年下の美紗は、子供のように映っていたのだろう。
そして二人は朝まで話した。
「なぜ、この原稿を私に読ませたの?」
「言ったでしょ、美紗を愛してしまったからだって」
「愛してしまったら、普通は昔の彼女のことは伏せるでしょ?」
「俺はそういうことが出来ないんだよ。愛した女性には俺のすべてを知ってほしい。何も隠したくはないんだよ」
「それで、清太から私が離れることになったら?」
「美紗はそういう女性じゃないと信じたから」
「それは、清太の思い込みよ。」
「美紗は・・・今も敬樹さんのことを愛しているだろ。俺は敬樹さんと張り合う気はないよ。むしろ敬樹さんのことを大切に思っている美紗が愛しいんだ。
この原稿を読ませてしまったことで、美紗が悲しい思いをするのなら、ちゃんと美紗を捕まえておくから。前にも言ったよね、美紗が元気になるように頑張るって」
印刷会社の営業をしている清太は、その日会社を休んで美紗の側にずっといてくれた。
安心した美紗は清太の腕の中で、ウトウトと眠りに落ちていった。
二人が目を覚ました頃は、もうお昼過ぎだった。
夕べから何も食べていなかったから、二人のお腹の虫が鳴いたことに顔を見合わせて笑い合った。
「あり合わせのものしかないけど、何か作るね」
誰かに料理を作ってあげる・・・そんなことは、美紗はもうないと思っていた。
ましてや男性に・・・。
「おまちどうさま」
美紗の作った料理は、残り物のひじきで作った、ひじきハンバーグとポテトサラダだった。そんな質素な手料理でも清太は「うまい、うまい」と美味しそうに食べてくれた。
家庭料理に程遠い一人暮らしの清太は、質素ながらも美紗の作った手料理はご馳走だった。
その後じゃれあいながら二人でお風呂に入り、美紗のベッドでお互いの身体を愛しんだ。
夕香の存在を知ってしまった美紗は、いつになく燃えた。
美紗の心の中に、夕香に対するジェラシーが芽生え始めていた。
真っ白な時間
清太の昔の彼女、夕香のことが書かれた原稿は清太の手で闇に葬られた。
良かれと思って美紗に見せてしまった原稿が、結果的に美紗に悲しい思いをさせてしまったことに清太は後悔していた。
全力で美紗を愛することで、美紗をいつも笑顔でいさせてあげたい。
美紗へのこの思いだけは守りたかった。
清太は美紗を連れ出した。
「夏になったら一緒に行こう」
美紗と約束していたラベンダー畑へ。
最盛期を迎えたラベンダーは、心の中を癒してくれる香りを放ち、山の斜面一面に鮮やかな紫色のじゅうたんが惹きつめられていた。
山の美味しい空気と真っ青な空、癒されるラベンダーの香りが、美紗を自然と笑顔にしていった。
美紗がトイレに行っている間に、清太は『ラベンダーソフトクリーム』と書かれたのぼりを見つける。
ソフトクリームが大好物の美紗に喜んでもらいたくて、このラベンダーソフトを買って待っていた。
ソフトクリームを持って、待っている清太を見つけると、嬉しそうな笑顔で美紗は走ってきた。
「ほら、美紗の好きなソフトクリームだよ。ラベンダー味だって」
程よい甘さと、かすかな苦味のある一つのラベンダーソフトを、花達に囲まれた景色の見えるベンチに座り、二人で仲良く食べあった。
綺麗な空気と綺麗な空、綺麗な景色が二人の心をより強いものにしていった。
二人は、このベンチで、
「車で日本一周旅行が出来たら素敵よね。」
「空中都市のマチュ・ピチュは、死ぬまでに見てみたいなあ。」
「宝くじが当たったら、高原の避暑地で二人で喫茶店を開くなんてどう?」
「緑に囲まれながら、道楽のごとく、のんびり二人でお店をやっていけたら、幸せだろうな。」
それはまるで、白いキャンパスに色々な絵の具の色を付けていくような、二人の将来の夢への語らいだった。
夢の話をしている美紗の笑顔が、清太は愛しかった。
ラベンダー畑を後にした二人は、お腹が空いたのでどこか食べられるお店を探していた。『ドイツ料理』と書かれた看板が出ている、古びた小さなレストラン。
『夢』
メルヘンのような建物やお店の名前から、夢の世界へと二人を導いてくれるような雰囲気をかもし出していた。
二人は顔を見合わせニッコリ笑って、このお店に入ることに決めた。
一つ目のドアを開けると、夢の入り口に番人のような茶トラの猫が、「夢の世界へいらっしゃい」と言わんばかりに床にゴロンと寝そべっている。
そして二つ目のドアを開けると、八十歳前半のベレー帽をオシャレにかぶり、白い口ひげを生やしたおじさんが出迎えてくれた。
お店の中には、おじさんのコレクションの古時計や珍しい缶ビールの数々、壁にはおじさんが描いた童話の世界のような絵がギャラリーのように飾られている。
まさに異次元の空間・・・夢の中にいるような気分にさせてくれるレストランだ。
メニューを広げてみると、おじさんの直筆で描かれた絵で料理の数々が紹介されていた。
その中から二人は「野戦料理」という料理に興味を持った。
「これにしてみよう」
清太が注文すると、おじさんはイソイソと厨房に入って行き、兵隊が戦争に持って行ったようなプラスチックの水筒と、氷がいっぱい入ったアルミのカップを持って来た。
これが『お冷』だった。
「野戦料理」・・・どんな料理なのだろう?
厨房からいい匂いが漂ってきた。
「お待ちどうさま」
驚いたことに、火にかけて料理をしたフライパンごとマスターは運んできた。
そのフライパンの中を覗いて見ると、黒々としたスープの中にキャベツや玉葱などの野菜と、うどんが入っていた。そして、マスターは、この野戦料理の由来を語りだした。
マスターは十五歳で志願してニュージーランドに兵隊として戦場に行っていたことがあるらしい。
「兵隊として戦場に行っていた頃は何も食べものはないからね。今みたいに野菜など入れずに蛇を煮込んで食べたものさ」
その話を聞くと、美紗はこの料理を食べるのをためらった。
うどんが蛇に見えてきたからだ。
清太が一口食べた。
「美味しいよ。美紗食べてごらん」
美紗は恐る恐る食べてみた。
「ほんとだ! 見た目と違って美味しい」
ピリッと辛さが効いたスープと甘みのあるキャべツ、喉ごしの良いうどんが食欲をそそる。
ゲンキンなもので美味しいと分かると、おじさんの野戦料理の話の由来など、気にしないで食べている美紗だった。
食後にこのお店の名物ともいえる『ドイツ珈琲』を頼んだ。
アインシュタインという名のドイツの貴族が飲んでいたという珈琲。
グラスに出ていた珈琲は、アイスだと思ったらホットで、珈琲の上には濃厚なホイップクリームが乗っていた。
早く言えばウインナー珈琲なのだけど、
「おじさんの珈琲は、豆はその辺には売っていない本場ドイツの豆を使っているよ。
珈琲の上のクリームは、混ぜないで口の上にヒゲを付けながら飲んでおくれ。」
おじさんのこだわりが、この一杯の珈琲にたくさん詰まっていた。
美味しい料理と美味しい珈琲、おじさんの話を楽しんで満足した二人は、お店を後にすることにした。
するとおじさんは、店の外まで出て二人を名残惜しそうに見送っている。
おじさんとの会話が楽しかっただけに、胸が熱くなって、
「おじさん、また来るね、いつまでも元気でお店を続けてね。」
おじさんに手を振って、またこの『夢』に来ることを誓った。
二人が山を下りて街に着く頃には、辺りはもうすっかり夜の闇になっていた。
車を走らせていると、遠い夜空に花火があがっているのが見えた。
「できるだけ近くに行って見てみよう」
清太はどんどん花火の上がる方へ車を走らせた。
近くで見ようとするほど、車はだんだん渋滞に巻き込まれていき、その車の渋滞の流れにのって、屋根の開いたロードスターに乗りながら、打ち上げ場所の最短距離に来た。
ドーンとなる音と共に、花火が上から落ちてくる。
こんな迫力ある体験は初めてだった。
そして敬樹のいる空に綺麗な花を咲かせている。
いつも涙して見ていた敬樹のいる空を、美紗は初めて笑顔で見ることが出来た。
夢のような一日を過ごした二人は、この先、幸せになれることを信じていた。
優しさの影
そよそよと風が吹く穏やかな休日、清太と美紗は公園の芝生の上に寝そべっていた。
子供の頃以来の草の香り。
風を感じながら美紗は、ヒコーキ雲が線を描いている空を眺めていた。
「そういえば、前にスタントカイトで遊んだ時、空に文字を書いてくれたことがあったね。何て書いてくれようとしたの?
あ・お・い・そ・ら・と・・・の続き。」
「そのうちまた飛ばしてみよう。その時、続きを書くよ。」
「それまで、お預けなの?」
美紗のねだるような問いかけに、清太は話を変えるように、
「美紗、Romanに行ってみようか」
Roman・・・清太の昔の恋人、夕香と出会い、いつも二人で過ごしたJAZZ喫茶だ。
夕香と別れてから清太は、二年間このJAZZ喫茶に足を踏み入れていなかった。
夕香との思い出の詰まったJAZZ喫茶、『Roman』に美紗を連れて行くことは、夕香への思いを完全に断ち切ろうとしている清太の想いが伝わってきた。
街外れの小さな二階建てのビル。このビルの二階にRomanはあった。
清太の後に付いて狭い階段を昇って行きドアを開けると、そこからはピアノとサックスの音を響かせながら、JAZZの音楽が流れてきた。
薄暗い店内に珈琲の香りを漂わせ、頭にはバンダナをかぶり、髭を生やした、ちょいワル親父風のマスターがカウンターから顔を出した。
「マスター、ご無沙汰しています」
清太がそう言いながら店内に入っていくと、マスターはすかさず、
「清ちゃん、生きていたのかい! 心配していたぞ」
「すみません、ずっと顔出さなくて。忘れられてなくて安心しましたよ」
「あたりまえだろ!」
「こんにちは」
美紗は清太の後ろから恥ずかしそうにマスターに挨拶をした。
マスターは少し驚いた表情をした後、ニッコリ笑い、清太と美紗の関係を感じ取って、清太に「うん、うん」と合図していた。
清太と夕香の一部始終を知っていて、そのことを含め清太のことをずっと心配していたマスターだから、二年ぶりに新しい彼女を連れてやって来たことに安心した様子だった。
マスターは珈琲一杯で、利尻の昆布で一晩煮込んだという大根や卵雑炊など次から次へと料理を振舞ってくれた。
そのうち歓迎会だと言ってお酒を持ち出し、JAZZを熱く語り始めた。
久しぶりにマスターとの時間を過ごせた清太は、とても楽しそうだった。
そしてマスターの温かさが、美紗をよりいっそう笑顔にさせてくれた。
それから、何度となく清太と美紗はRomanを訪れていた。
二年経っても変わらない、マスターや顔なじみのお客さんと清太を通じ、美紗はいつも楽しくここで時間を過ごすことが出来た。
そんな楽しい時間を過ごしていたある日、
「アンニョンハセヨ!」
ドアが開き一人の女性が入ってきた。
スラッと背の高い、腰まで伸びた長い黒髪の女性・・・美紗はその女性を見るなりピンときた。
マスターは一呼吸おいて、
「いらっしゃい、久しぶりだね」
「昨日、韓国から帰って来たの。懐かしくて来ちゃった」
清太の昔の恋人・・・夕香だった。
夕香はカウンターに座っている清太と美紗に気づき、一瞬顔をこわばらせた後、
「オッパ、久しぶり。まさかここで会えるなんてね」
そう言って、カウンターの清太の隣に座った。
夕香は清太のことを付き合っていた頃、『オッパ』と呼んでいた。
韓国では、実兄または大切な人に使う言葉だ。
清太を挟んで向こう側に夕香がいる。
重い空気が清太を挟んだ美紗と夕香の間を漂い、その空気に耐えられず、美紗の手がプルプルと震えだし、動揺を隠さずにはいられなかった。
夕香は話し始めた。
「韓国人の男性と結婚することになったの。そのために色々な手続きをしなくちゃだから昨日、日本に帰って来たのよ。
二週間後にはまた韓国に戻るわ。そうしたら日本にはもう来ることがなくなりそうだから、最後に日本を楽しもうと思ってね。オッパ、元気で過ごしていましたか?」
「ああ、元気だったよ。結婚するんだ。おめでとう」
「ありがとう」
夕香は美紗を見て
「オッパの彼女? オッパは優しいから、可愛い彼女がすぐ出来ると思ってたわ」
「ああ、お互い大切な人が出来て良かったな」
夕香はフッと笑った。
「清太さん、久しぶりに夕香さんに会ったのだし、色々と話したいこともあるでしょ。私、先に失礼するね」
笑顔で清太と夕香を見ることが出来ない美紗は、一刻も早くその場から逃げたかった。
「俺も行くよ、マスター、お勘定」
夕香が清太の手を摑み、引き止める姿が見えた。
美紗は席を立ち、珈琲代を置いて一人で店を出て行った。
暗い夜道を歩きながら、何度も何度も後ろを振り向き、美紗は願った。
清太が追いかけて来てくれることを・・・。
美紗のバックの中から携帯のメール音が鳴った。
清太からだ。
美紗は清太からの優しい言葉を期待してメールを開いた。
〉〉彼女が、話しがしたいって言っているんだ。
少し話をしてもいいかな?話しが終わったら、美紗の所へ必ず行く。
〈〈久しぶりに会ったのだし、ゆっくり話していいよ。
〉〉ありがとう。でもすぐに美紗の所に行くから。
夕香の手を振り切って、追いかけて来てくれることを望んでいた。
美紗が「いいよ」と言っても、「今すぐに行くから待っていて」・・・そんな言葉を期待していた。
美紗の心は揺れていた。
これからどんな顔をして清太に会うことができるだろう?
ジェラシーに満ちた顔を清太に見られたくない。
美紗は清太からの優しい言葉でメールが来るのを、携帯を手に握ったまま家路へと歩いていた。
一時間後、携帯のメール音が鳴る。
清太からだ。
〉〉今、どこにいる?
〈〈家にいます。
〉〉わかった。今から行くね。
美紗は返信をしなかった。
会いたいのに、今すぐ清太の胸の中で安心したいのに、夕香の存在が美紗に自信をなくさせていた。
家のチャイムが鳴った。
清太だ。
美紗は戸を一枚挟んだ外にいる清太にメールを送った。
〈〈今日はとても疲れました。もう寝るので、おやすみなさい。
〉〉美紗が不安な気持ちでいるなら話したい。
〈〈大丈夫。今日は誰とも話したくない。
〉〉わかった。今日は帰るよ。明日朝メールするから。おやすみ。
声を出せば聞こえる距離なのに・・・ドアを開ければ清太の胸に飛び込んで行ける距離なのに・・・あえて二人はメールという静寂の距離で話した。
追いかけて行きたい気持ちを抑えて、美紗は涙を流しながら、清太の去っていく足音が聞こえなくなるまで、玄関のドアに耳をあてて聞いていた。
美紗は眠れずに朝を迎えた。
携帯のメール音が鳴る。
清太だ。
〉〉おは!
いい天気だね
美紗の気持ちを知ってか知らないか、清太はいつもと変わらない言葉でメールを送ってきた。
美紗は返信をすることを拒んでいた。
〉〉まだ、おやすみみ中かな?
〉〉生きてるか~い?
清太は美紗が返信をするまで、メールを送り続けている。
返信しようと何度も文字を打っては、美紗は送信することは出来なかった。
「元気です」
その一言だけでも清太を安心させてあげることは分かっているのに・・・。
美紗が返信をすれば、二人の関係は修復できることは分かっているのに・・・。
美紗は夕香の影が切り離せなかった。
美紗を元気にしたくて、おどけたメールを送り続けていた清太だったが、返信のない美紗の様子から清太も心配になってきた。
ガラスの心を持った美紗の口をどうしたら開かせることができるだろうか。
清太は美紗にありのままの思いのメールを送った。
〉〉思わぬところで、悲しませちゃったかもだね・・・。
美紗の愛した敬樹さんのように、上手く美紗を掌の上で遊ばせてあげ ることは中々出来そうにないけれど、それでも出来る範囲、美紗がのび のびと飛び回れるようにしてあげたいと思っています。
喧嘩しながら乗り越えてゆくことも多く あるかとも思います。
いつも美紗が笑って居られるように頑張るからね。
清太の美紗を思う温かいメールに、美紗の心がやっと開き始めた。
〈〈清太・・・寂しい。
何か一つの不安を抱えると、何もかもが不安になってしまう。
自分に自信がないから、清太が遠くに行ってしまいそうで・・・。
失うことが怖いから、臆病になってしまいます。
心が痛い。
自分でもどうしていいのかわからない。
黙っていることしか今は出来ないの。
〉〉美紗が自信がないからという部分だけど、今の美紗を見ていても 充分に自信を持っていれば良いのにと思うよ。
俺は美紗が笑顔で居てくれることが嬉しいんだよ。
後は、そういった一つ一つの出来事をどう自分で解釈するかだよね。
プラス方向に(もしくは、気にしないで)とるか、逆にネガティブな方向に解釈するかで、その差は尚大きいものとなってしまうよ。
曇ったから悪い日だとか、風が吹いたから縁起が悪いって風にね。
そんな風に何もかも自分にとって、悪いような不安要素として解釈され てしまったら、そうそう入ってゆけなくなってしまうよね。
美紗の心の中にも。
その一歩は踏み出して貰えないと手が届かないよ。
逃げるだけじゃ、駄目なこともあるよ。
〈〈ごめんなさい。昨日、清太を引きとめた夕香さんに嫉妬していた。
醜い私を清太に見せたくなかった。
私にとって清太は、再び生きる喜びを与えてくれた。
失いたくないと思った。
私を清太の腕から落とさないようにして。
〉〉神様がした、ちょっとした悪戯だったのかもね。
夕香さんは過去の人です。
今は美紗のことだけを見ているよ。
俺の腕から落ちないように美紗もしっかり捕まっているんだよ。
この先ずっと清太のことを信じて、共に人生を歩いて行きたい・・・美紗はそう思った。
お互い、わだかまりもなくなった二人の絆はよりいっそう深まっていった。
夕香が韓国に行く予定の二週間後まで、二人はRomanに行くのを控えていた。
もしかしたらまた夕香に会ってしまうことで、美紗の心が不安定になるのを清太は避けたかった。
そんな折、Romanのマスター主催のJAZZコンサートが、お店の近くのコンサートホールで開催されることを聞いて、清太と美紗はコンサートへ出かけた。
JAZZを生の演奏で聞くのは初めてだった美紗は、ピアノの旋律とサックスの奏でる音に、心の奥底まで癒された。
二時間あまりの時間は美紗を夢の世界へと導いていってくれた。
このJAZZコンサートをきっかけに、清太ともまた一つ、距離を縮められたようで嬉しかった。
次の日、コンサートに招待してくれたお礼に、マスターの好きな日本酒を持って美紗はRomanに訪れた。
いつもの薄暗い狭い階段を昇ろうとした時、上から降りてくる人がいた。
すれ違いが出来ないほどの狭い階段だから、下りてくるまで美紗は階段の下で待っていた。
「待っていただいて、ごめんなさい」
下りてきた女性は、もう韓国に帰ったと思っていた夕香だった。
お互い、数秒間の沈黙の後、夕香が美紗に言った。
「少し、時間いいかしら?」
『逃げてばかりではいけない』・・・清太が教えてくれた言葉に美紗は夕香と向き合おうと思った。
それが悪い結果になったとしても、清太を信じた美紗だから、乗り越えていけると自信がもてたからだった。
美紗と夕香は、Romanの近くの公園へ向かった。
「韓国へ帰ったとばかり・・・」
「マスター主催のJAZZコンサートが聞きたくて、帰国を遅らせてしまったの」
あのコンサート会場に気づかなかったとはいえ、夕香も来ていたのだ。
「先日はオッパを引き止めてしまってごめんなさいね。
・・・私ね、韓国人と結婚するなんて嘘なの。オッパの隣にいる美紗さんを見て、思わず嘘をついてしまったの。」
「清太さんのことがまだ好きなのですか?」
「オッパはずっと私を待っていてくれると思っていたから・・・。
あの日、オッパに言ったの。私とまた付き合ってみないって。愛し合ってみないって。私の体に触れたら、オッパは私の所に戻ってきてくれるような気がして・・・意地悪をしてみたの。
そしたらオッパは何て言ったと思う?」
美紗は必死に夕香の話を堪えて聞いた。
「美紗を笑顔にさせていることが、今の俺の幸せなんだって。美紗から笑顔を失わせることは絶対にしたくないって。結婚を控えている君がそんなことを言うなんて思わなかったって。
私、失望されてしまったみたい」
夕香の頬に涙が伝った。夕香は清太のことを今でも愛しているのだと感じた。
夕香は話を続けた。
「一つだけお願いがあるの。美紗さんは恋人を亡くしているとか・・・美紗さんはまだその人のことを愛していると思うの。
気を悪くしたらごめんなさい。その人を愛したままの思いでオッパとお付き合いをするというのは、オッパを悲しませることになるんじゃないかしら。
オッパをあなたの恋人の代わりにしないでね。その人がいない寂しさをオッパで紛らわせないでね・・・。
オッパは優しいから、二年前の私のように傷付けることはしないでね。」
夕香に返す言葉は何も無かった。
今日、これから韓国に旅立つという夕香は、涙を拭いながら公園を後にして去って行った。
しばらく美紗は呆然とその場に立ち竦んでいた。
そして夕香の言葉が胸をナイフで切り裂かれたように、痛く、痛く美紗にのしかかってきた。
敬樹はこの世にいないとはいえ、敬樹のことを今でも愛しながら清太を愛している自分。
美紗を大事に思ってくれる清太の優しさに甘えていたのだと、少なからず美紗は気づいていた。
だが、そんなズルい自分に気づかないふりをして、心の奥底に閉じ込めて鍵をしてしまっていた。
そのことを夕香にズバリ言われたことで、その鍵を開けて美紗は自分のしていることを考え始めた。
空からポツポツと雨が降り始めた。
美紗の心の内を代弁するかのように、敬樹が空から雨を降らし始めていたようだった。
忘れられない記憶
美紗は雨の中、マスターにお礼のお酒を届けにRomanに戻った。
お店のドアを開けると、いつものJAZZの音楽と共に清太の声がした。
「美紗、もう来ているかと思ったよ」
今日、Romanに行くと清太に言っていたから、美紗の来る時間を見計らって清太も来てくれたのだった。
「雨に濡れちゃって・・・マスター、この前のJAZZコンサート、素敵でした。すっごく感動しました。
これ、コンサートに招待してもらえたお礼です。お口に合うかどうか・・・」
美紗はマスターに持って来たお酒を差し出した。
「大吟醸だね。嬉しいね~。早速頂こうかな」
マスターは嬉しそうに、厨房にコップを取りに行った。
美紗は清太を見て、
「私、びしょ濡れになっちゃったから、お店の中が濡れちゃうと悪いし、このまま帰るね」
「じゃあ、送っていくよ。マスター、また今度。」
マスターは慌てて厨房から出てきて、
「もう帰っちゃうのかい? 寂しいね~。美紗ちゃん、お酒ありがとね」
マスターに軽く会釈をして二人は店を出た。
狭い階段を下りると、雨が来た時よりも強くなっていた。
「濡れついでにこのまま家に帰るね。送ってくれなくて大丈夫だから。マスターに付き合ってあげて。」
「何か、あった?」
「・・・何も・・・」
清太はそれ以上何も聞かなかった。今は何を聞いても美紗は話すはずがないと思ったからだ。
清太は美紗に傘を差し出した。
「これを差してお帰り」
「ありがとう」
美紗は清太から傘をもらい、ひとりで家へ帰って行った。
心が寂しいはずなのに、いつものように涙が出ない。
秋の冷たい雨に打たれながら、久しぶりに空を見上げた。
敬樹のいる空・・・。
美紗の顔に強く雨が落ちてくる。
涙が出ないのは、敬樹が美紗の代わりに雨という涙を沢山降らしているからだと思った。
『オッパを恋人の代わりにしないでね。 寂しさをオッパで紛らわせないでね』
夕香の言った言葉が美紗の頭の中に木霊のように響いていた。
『私は敬樹と清太のどちらを愛しているのだろう?』
清太からのメールが届く。
〉〉大丈夫かい?
〈〈一緒に行ってほしい所があるの。
〉〉いいよ。
美紗は決心した。
二度と訪れることはないと誓ったあの場所へ、清太と行ってみようと。
その場所に行けば、答えが見つかるかもしれない。
美紗にとっては、とても辛いあの場所へ。
二日後、二人の予定が合ったことから、その場所へ出かけることになった。
そこはサーキットだった。
敬樹が何で死んだか清太は知らないままだった。
美紗が言わないから、あえて聞くことはしなかった。
そのことを聞くことで、美紗に笑顔が消えてしまうのが、清太にとってはいちばん悲しいことだったからだ。
美紗が笑顔で言える日まで、触れないでいようと思っていたからだ。
美紗は話し出した。
「三年前、このサーキットで敬樹は逝ってしまったの。
なかなか結果の出ないカーレーサーの敬樹は、やっと決勝に出られた大事なレースだった。 あの日は雨で、視界が悪い上に路面状態も悪くて・・・スピンをする車がほとんどだったの。
心配で・・・心配で・・・パドックの上から敬樹が帰って来るのをずっと見ていたわ。
敬樹は私の目の前を何度も走り抜けて行った。
無事に帰って来て。そのたびに祈っていた。
あと三周・・・三周走りきれば、敬樹は上位ではないけれど、チェッカーフラッグを受けることが出来る。
でも・・・敬樹は帰って来なかった。
イエローフラッグが出て・・・どこかで車がクラッシュしている知らせが入って・・・その車が敬樹だった」
「美紗、もういいよ。辛いなら話さなくていいし、聞かなくていいから」
「お願い、話させて!」
初めて見る、美紗の感情的な様子に清太は少し驚いた。
「わかった、話してごらん。ちゃんと聞くよ。」
「敬樹の車はクラッシュしてしまって、身動きがとれなくなった所に後続の車が二台も立て続けに突っ込んできて、敬樹の車は跡形もない位に大破してしまったの。
車の中に残された敬樹は・・・。
敬樹はちゃんと帰って来てくれると思った・・・私、ずっと待っていたの。」
涙を流しながら美紗の目が見つめる先が、敬樹の事故現場だと清太は悟った。
「わかった・・・よく話せたね。よく頑張ったね。」
清太は美紗を優しく抱きしめた。
美紗は清太の腕の中で、気が抜けたようにスルスルと地面に倒れこんでいってしまった。
倒れこんだ美紗を支えた清太は、美紗の身体が熱いことに気づいた。
夕香と公園で話した二日前に雨の中、濡れて帰ったことで体調を崩したせいか、美紗は熱が四〇度近く出ていた。
そのまま清太は美紗の家に連れて帰り、ベッドに寝かし看病をした。
うわ言のように「敬樹」と呼び続けている美紗。
その度に清太は敬樹であるかのように手を握り、美紗を安心させていた。
「気が済むまで、敬樹さんを思い出して下さいな。
そして現実の世界に戻った時には、俺が待っているからね。」
一晩熱にうなされ続けた美紗は、清太のおかげで熱も少し下がって、正気を取り戻していた。
朝、目を覚ました美紗に、
「おは! 気分はどう?」
清太は美紗のおでこに手を当てて、
「大分、下がったようだな。看病した医者が良かったな。
お粥作ったけど、食べる?」
いつもと変わらない清太の優しさに、美紗は目から涙が溢れ出した。
「ごめんなさい、私、敬樹のことが忘れられない・・・、敬樹を今でもとても愛している・・・、そのことを誤魔化して、私、清太に甘えていたの。
敬樹を超えて誰かを好きになることは、出来そうもない。」
二人の間に少しの沈黙が続いた。
清太は美紗の肩を抱き、静かに話し始めた。
「美紗が愛した敬樹さんのことを思うことは大切だし、決して忘れてはならないことだと思うよ。
ただ、楽しかったことだけでなく、辛かった思い出まで、思い出となると美化される。
そんな良かった思い出を心のどこかに大切にしまった中で、現実の世界に生きられればと思うよ。
亡くなった相手の思い出には決して勝てないから。
現実の人間には当然嫌な部分もある訳だし、それを同じ土俵で考えることは 無理があると思っている。
時間と共に良い思い出になってゆく部分てあると思うよ。」
「もう、優しくしないで。清太は敬樹を超えることは出来ない。
私、あの雨の日、夕香さんと話したの。夕香さんはまだ、清太のことを忘れないで愛している。
私よりずっと・・・。
夕香さん、結婚するなんて嘘なのよ。清太の隣に私がいたことで、ついそんな嘘が口から出てしまったんだと思う。
夕香さんは、清太ともう一度やり直そうと思って韓国から帰って来たんじゃないかな?
敬樹を愛している私より、夕香さんの方がずっと清太を幸せにできるかもしれない。夕香さんの所に行ってあげて。」
「美紗はそれでいいの?」
美紗は首を縦に振った。
「そうか・・・わかった。」
清太はそれだけ言い残すと、美紗の部屋から出て行った。
一週間後、清太からのメールが届く。
ラベンダー畑に行った時、撮ってくれた一枚の写真と一緒に。
〉〉美紗を心から笑顔にさせてあげることが出来なくて残念だと思っている。
写真に写っている美紗は、いつも口を噤んでいたね。
ファインダーの中のあの美紗の顔を、笑顔に変えてあげなきゃと思い続けて頑張ったけれど、とうとうしてあげられることは出来なかった・・・ごめん。
美紗が敬樹さんの思いを大切に思うのは忘れてはならないことだと思います。
その大切な思いを抱いたままで、またメールをくれることを祈りつつ、待っていますね。待たせて頂いてもよいですか・・・。」
清太が送ってくれた画像を見た瞬間、美紗は愕然とした。
「こんな顔の私をいつも見ていたの!」
口は間一問に噤んで、大好きな清太といるのに全然輝いていない自分。
あんなに楽しませてくれたのに・・・謝るのは私の方よ・・・ごめんなさい。
その日以来、美紗は清太にメールを送ることはしなかった。
ただ、いつの日か、清太に心から笑顔で会える日が訪れるなら、その時送ろうと出す当てのないメールを打って保存をした。
その後、二人はお互いに連絡を取り合うことはなかった。
冬の花火
清太との別れから一年半の月日が流れていた。
美紗は人に幸せを与えることで、自分も幸せになりたいと思い、今まで勤務していた会計事務所の仕事を辞めて、ウエディングプランナーの仕事へと転職をした。
この仕事に就いて一年が経ち、幸せなカップルの笑顔を見ているうちに、美紗も心からたくさんのカップルの幸せを願い、自然に笑顔が出来るようになっていた。
仕事を終えた夜の帰り道、街中を歩いていると打ち上げ花火の音が聞こえた。
冬なのに花火?
でも空気が澄んでいて綺麗に見えるんじゃないかな?
美紗は夜空に上がる花火を捜した。
だが、音だけでビルの谷間からは、いくつかの星が見えるだけで、花火は姿を現さなかった。
美紗は感じた。
心から笑顔を取り戻した美紗の元には、もう空には敬樹を感じられなくなっているのかもしれない。
敬樹は安心して美紗の元から離れていったのかもしれない。
花火の音しか聞こえない夜空に向かって、美紗は敬樹と最後の会話をした。
「敬樹、今までたくさん心配をかけてごめんね。
泣いてばかりで、敬樹に心配ばかりかけてきた私だけど、もう大丈夫。ちゃんと前を向いて歩いていけるようになりました。きっとこれから先の人生を、心から笑顔で楽しんでいける自身がついたから。
敬樹、ありがとう」
心から敬樹を安心させることが出来た美紗は、休みの日、清太と初めてデートをした山の見晴台に来ていた。
冬なのに春を思わせる暖かな日だった。
美紗はコートのポケットから携帯を取り出し、久しぶりに清太のアドレスを開いた。
一年半前保存をして、送らないままだったメール。
美紗は敬樹を思い出に変えて、心から笑顔になれる日が訪れたなら、このメールを清太に送ろうとあの日、保存をしたままだった。
〈〈お元気ですか?
清太は今、何を思い、何を感じて過ごしていますか?
幸せな毎日を送っていますか?
清太は風のような人でした。
風さんが私にくれたもの。空を泳ぐ雲と一緒に、暖かな優しい風を私の心の中に運んで来てくれ た。
私にたくさんの生きる勇気を与えてくれた。
人に愛されることの幸せを再び味あわせてくれた。
言葉では言い表せないくらい感謝してる。
一度も言うことが出来なかったけれど、こんなに遅くなってしまったけれど、ずっと、ずっと言いたかった言葉です。
清太、心からありがとう。
美紗は携帯の送信ボタンを押した。
〉〉おはようございまうす。
あ・お・い・そ・ら・と・い・っ・し・ょ・に・ふ・た・り・で・ あ・る・い・て・い・こ・う。
スタントカイトで空に書けなかったラブレターだよ。
おかえり。美紗、ずっと待っていたよ。
清太からの相変わらず早い返信だった。
空を泳いでいる雲が近い。
その雲の切れ間から、す~っと地上に延びてきた光。
エンジェル・ラダー。
美紗は携帯を抱きしめ、清太が教えてくれたエンジェル・ラダーの空を愛おしく眺めていた。
END
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。




