第7話 ~WISC Ⅲ~
「WISC-Ⅲ(うぃすくさーど)って、知っていますか?」
と唐突に川瀬さんが私に話しかけてきました。
私も一時は教師になろうと志した者として、WISC-Ⅲ(うぃすくさーど)が何であるかくらいはわかっていました。それは、知能検査の一つで、言語性検査と動作性検査がそれぞれ6種類と7種類からなるものです。軽度発達障害を持つ児童が、どの領域が得意で、または苦手なのかを判断するための検査としてよく使われています。IQなどもこの検査からわかります。この検査結果をもとに世の中の先生たちは、有効な支援はどのようなものかと考えたり、実践したりしていると聞いたことがあります。
「ええ、名前は聞いたことがあります。知能検査の一つですよね」
「そうです。東先生から受けてみないかと言われたことがありまして・・・」
その時の状況を少しずつ思い出すように、そして諦めに似た感情を言葉に表しながら、川瀬さんは続けました。
「優実が6年生になってからです。どうも算数が苦手みたいで、学習に着いていけないようだと東先生から言われました。もちろん、優実の算数の成績を振り返ってみると多分そうだろうなと思っていましたが、そんなに遅れているのかという疑問も私の中にはありました。私なりに娘がわかっていないところを教えたり、川越に住んでいたときは家庭教師を頼んだりと努力はしてきたのです。」
その川瀬さんの言葉には、私は悪くない、夫のDVのせいで落ち着いた環境で勉強できなかったからだ、絶対私は悪くないと訴えるそんなニュアンスが含まれていました。
「先生に勧めていただきましたし、優実の苦手なところを客観的に判断して、日ごろの指導に役立てたいとも言ってくださいましたので、不安はありましたが検査を受けることにしたのです。しぶしぶ了解した、と言う感じです。」
「お母さん、相談があるのですが・・・、優実ちゃんの勉強のことです・・・算数が苦手の様ですよね。私としては、授業中はもちろん、放課後も残ってもらって補習を進めているのですが、中々定着しにくいという現実があります。来年は中学生にもなりますし、学習面に不安が残ります、とても心配しています。そこで、優実ちゃんのために客観的な検査をしてはどうでしょう?そうです。知能検査を受けてみませんかということです。いえいえ、そういうことではありません。優実ちゃんに知的障害があると申しているわけではありません。他のお子さんも算数が得意だったり、国語が得意だったり、またその反対もあります。優実ちゃんにもそういう得意不得意があると言いたいのです。ただ、算数の何が得意で苦手なのかの明確な判断が出来ていません。現時点ですと、私の経験や勘に頼っているところが多いです。私としては、ベストな方法で彼女に学習支援をしていきたいと考えています。つきましては、検査を行うことで、彼女の苦手な部分を明確にして、それに適した指導を行いたいと思っているのです。いかかでしょう?ご了解いただけませんか。」
と東先生は誠実に優実のことを考えておっしゃってくれました。
「検査を受けその結果も聞きました。検査をしてくださったドクターから優実がまじめに検査を受けていたことや、とてもお話好きでかわいいお嬢さんですねとおっしゃってくださった時はすごくほっとして、うれしく思ったことを覚えています。ただ、結果に関しては・・・」
そう川瀬さんが声を詰まらせたことで、予想していた結果、母親として予想したくはなかった結果が示されたことは、私はすぐにわかりました。
・言語性検査が「知識」「類似」「算数」「単語」「理解」「数唱」の検査項目があること
・動作性検査が「絵画完成」「符号」「絵画配列」「積木模様」「組合せ」「記号探し」「迷路」の項 目があること
・群指数という知能のより分析的な解釈を可能にする指標が4つあること
・言語理解、知覚統合、注意記憶、処理速度がその4指標であること
私がWISCⅢのことを脳裏に浮かべていると、川瀬さんがさらに検査について語ってくれました。
「特に娘の場合は、言語理解と知覚統合と言われる領域が遅れていると言われました。」
「具体的にはどういうことなのですか?差し支えなければ・・・」
と私が川瀬さんに問い返すと彼女は顔を歪めることなく教えてくれました。
「言語理解というのは、言葉の意味理解と考えれば分かりやすいそうです。そうですね、たとえば・・・『とる』という単語がありますよね、この単語を使って短文を作ってください。」
「ええ、わかりました。『荷物をとる』、こんな感じでいいですか?」
「そうです。そんな感じです。他にありませんか?」
「そうだな・・・ああ、『相撲をとる』とか『写真をとる』それに『出前ですしをとる』とか・・・いや~、『とる』と言う言葉にはいろんな意味があるんですね、なかなか意識しないとでてこないな・・・」教師を志した者として改めて日本語の奥の深さと難しさを感じながら、照れ隠しする私がいました。
「そうでしょ、日本語って難しいですよね。意味理解は、『とる』と言う単語には複数個の意味があり、それを用途ごとに使えるかという理解度だそうです。優実はその力が不足しているみたいです。あの子にとって『とる』の意味は一つだけと思っているのでしょう。一番ポピュラーな『荷物を取る』だけだと思います。こう言えばわかり易いですか?」
「よくわかりました。じゃあ・・・知覚統合というのは?」
「それは、視覚的な長期記憶や短期記憶に代表されるそうなのですが、ドクターはこう言う例で説明してくれました。」
「黒板をノートに写すでしょう、その時って、私たちは1、黒板を見る。2、書かれた文字や数字を覚える。そして、3、ノートに覚えたことを書く。という手順を自然と行ってノートをとるでしょう。あら?また『とる』って言葉が出ちゃったわ、おかしいわね。・・・脱線してごめんなさい。優実はその私たちが自然にやっている行為・動作が苦手らしいの、何度も何度も黒板を見ないとノートに写せないと言うことなの。だから・・・ノートを書くのも遅くて・・・丁寧に書く子がどうしても遅くなってしまうときってあるけれど、優実の場合は『丁寧に書くから遅かった』ということじゃなかったみたい。」
「その検査で苦手なところがすごく具体的にわかるんですね。少しカルチャーショックを受けました。」
「東先生もこの結果を受けて、思い当たることがあるとおっしゃっていました。それは・・・」
「お母さん、優実ちゃんって、独特の表現を使いますよね。たとえば、おじいさんのことを『たけし』と呼び捨てしたり、自分のことを『わし』と呼んだり、他には・・・そうですね、私が『この問題点を前向きに考えてね』というと『先生こっち向いて考えていい?』と聞きなおしてみたり・・・」
なるほどとおもいました。一人称を表す言葉には、「わたし」「ぼく」「わし」「おれ」などがあるけれど、「わし」は年長の男性がよく使う言葉であるのに、一人称で使う言葉として理解している点や、祖父に対して親しみや尊敬の意味をこめて「おじいちゃん」「おじいさん」と呼ぶことをしないところ、具体的な方向を向く(前を向く)のではなく、積極的にとか諦めずという意味が、「前向き」には含まれていることをわかっていないことなど、まさにこれが言語理解の落ち込みであることをです。
もし、その子が、祖父のことを『たけし』と呼んでも、「甘えん坊の子どもだな」とか、自分のことを『わし』と言っていても、「最近の小学生はあんなふうに言うんだ」ぐらいにしか思わないと思います。そこに、まさか「発達障害における言語理解の落ち込み」といういかにも難しい単語を頭に浮かべることなど到底できないと思います。そして、普段からこの独特の表現を聞いているお母さんにすれば、なおさらそうでしょう。
「東先生、優実の落ち込みは何が原因なのでしょう?やはり、幼い頃から父親のDVで心も体も大きなダメージを受けてきたからでしょうか、私はそう思うのですが・・・何が悪かったのですか?」
「『今の子どもたちの中には、LD(学習障害)やADHD(注意欠陥・多動症)、自閉症、アスペルガー症候群など、軽度、重度問わずさまざまな発達障害を持つ子どもたちがいます。特に軽度発達障害と分類されるのもは、普段の生活だけでは判断しづらいものもあります。ただ、その原因は先天的なもので、家庭環境やその他のストレスによるものではなく、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されています。つまり、お父さんからのDVが直接の原因となるものではないと思われます。』そう東先生がおっしゃいました。」
「・・・」
川瀬さんが下を向きながら、じっと黙ってしまいました。このとき、私は何となく川瀬さんが何を言いたかったのか分かったような気がしました。
それは女性であるが故の思いです。そんな女性の思いを少しだけ理解できたよう気がしました。
子どもには父親と母親の遺伝子がちょうど半分ずつ受け継がれます。運動神経がよくても悪くても、それは両親のそれに起因していますし、体が大きいとか、生まれ持っての気質などもそうかもしれません。ただ、子をわが身から産み落とした母親にとっては、先天的な原因と決められると、すなわちそれは母親自身の過ちであると決められた事に同じなのです。父親の思いとは真逆の方向で・・・。妊娠中はアルコールを取らなかった、もちろんタバコも、ブランデーの入ったケーキも食べなかったし、妊娠中毒症にもかかっていない、それなのになぜ?という思いになってしまうのでしょう。きっと、川瀬さんはそんなことを私に告げたかったのだと思います。