第5話 人物 ~優実とは~
東が担任した優実は小学5年生で2月5日に初めて学校の門をくぐったそうです。
大粒の涙を一通りハンカチで拭ったその女性が、再び私に語り始めました。一つずつ過去の記憶を引き出しから出すように、その時系列を間違わないように引き出しを探りながら、今度は落ち着いた口調で東と優実の話を始めたのです。修学旅行の小学生が、広島の原爆記念館の前で聞く、語りべさんが話をするように、落ち着いたゆっくりとした口調で話し始めました。
そのとき優実はボブカットが少し伸びていて、灰色のヨットパーカーとジーンズをはいていました。特に前髪が伸びていて、その先は、瞼の少し先まで届き、黒髪の向こうに小さな瞳が見え隠れするほどでした。体格は5年生の平均的なそれより少し大きく、どちらと言えば早熟なほうだと思います。ただ、今どきのショートパンツにスパッツを合わせて、パーカーの上にダウンのベストを着る女の子を想像させるものではなく、男の子が好むパーカーを着た、どこかボーイッシュに見える女の子でした。校長室に通された私と優実は、まだ見ぬ担任の先生にワクワクしながら、また優実は落ち着きなく校長室のあちらこちらを見ていました。その姿は、早熟に見えるそれとは似つかわしくない、あどけなさを強調しているように思えました。もちろん、5年生の女の子ならあどけなさが残るのも当然なのですが、優実のそれは周りにいる女の子のものとは少し違うものと感じられました。例えるなら、幼稚園児か一年生が、新しい友達やおもちゃに出会った時に感じるあどけなさです。見知らぬ箱の中に何が入っているのだろうと心を躍らすような、きっとその箱には私にとって素敵なものが入っているのだと根拠のない自信に満ちたあどけなさです。
校長先生の質問に、優実は短いセンテンスで、「川瀬優実です。」「明日から」「昨日、引越しした」「うれしい」と答えました。お名前を教えてください、いつから登校しますか、いつ引越しをしましたか、新しい友達と会えるのはうれしいですかという校長先生の質問にです。
時々川瀬さんの話しは文脈が乱れ、あちらこちらに飛ぶことがある、と確かめる私がいました。
優実という女の子は、私が目にした女の子ではありませんでしたが、私は、話を聞きながらその女の子像を頭の中で自然と描いていました。
男の子がよく着るパーカーを好むことから、体の成長は5年生の平均的なものよりも早熟だけれども、まだ自分が女性であるということの意識が未熟で精神年齢の低いエネルギッシュな女の子であろう、5年生が持つであろうあどけなさとは少し違うそれを持っていることからも、その幼さを感じることが出来ました。また、前髪を伸ばしていて髪を切ろうとしないことは、その髪で自分の顔を覆い、少しでも他人に自分の顔を見られたくないという思いがそうさせていて、それは、彼女が自分に自信を持てていない証のようにも思えました、また、これから続く川瀬さんの話を興味深くさせる動機にもなりました。それと、短いセンテンスで答えた言葉からは、これから始まろうとする新しい生活に希望を見出すと同時に、今までの苦痛や痛みから逃げ出したいという思いが無意識に表れたのだと計れました。
そして川瀬さんはこう続けたのです。
すぐに東先生が校長室にこられ「はじめまして、東晃平です。」とはっきりとした口調で挨拶をされました。
先生は、紺色の三つボタンのスーツに花柄をモチーフにした少し派手めのネクタイを締めて、左手には昔で言うところの閻魔帳と子どもが書いたと思われる落書きされた使い古しの筆箱を抱えていました。黒縁の四角いメガネをかけ、髪には年齢とは不釣合いな白髪が多くありました。白髪混じりの髪を除けば、顔艶のよいガッチリした体格をしていて、年齢より若く見えるスポーツマンタイプの方でした。初めての印象は誠実で頼りになりそうな「この先生なら大丈夫」と思わせる雰囲気のある先生でした。優実もそれを肌で感じていたようで、はじめ見せていた不安げな顔が、にこやかなそれに変わる様子が見受けられました、そして、優実の眼差しがしっかりと先生のそれを捕らえていたことからも、優実も私と同じ思いなんだとすぐにわかりました。
「5年1組のみんなは優しい子が多いので安心してね、明日の用意はお母さんに伝えておくので忘れ物をしないように、明日待ってるから。」と短めに優実と話しかけてくれました。優実は同席していた私の母と先に退出し、私と東先生そして校長先生の3人がその部屋に残り、今までの私たちの暮らしについてお話ししたのです。
同じ空間で生活をしていた大学時代から、お互いに一変した生活を送っていたせいで、私と東は、この20年余りほとんど顔を合わせる機会がありませんでした。十四、五年前の東の結婚式の一度と、たまの電話連絡や年賀のやりとりだけが、お互いの存在を確認する手段でした。誠実で頼りになる雰囲気は昔と変わらないのだと安心する一方で、白髪が多い東の姿を想像すると、確実に多くの時間が過ぎていることを実感し、私の老いも感じでてしまいます、最近気になりだした白髪の存在を改めて納得するばかりです。
埼玉県の川越市で生活していたこと、持ち家のマンションに住んでいたこと、埼玉の時の担任の先生は若い女性で優実をよく理解してくれたこと、主人も私も一人っ子だったので、いとこが一人もおらず回りはいつも大人が居たということ、算数が特に苦手で九九は言えるけど定着するのに時間がすごくかかったこと、それが2年生ぐらいから顕著になってきたということ、よく友達とトラブルになって何度も頭を下げに回ったこと、そして、私と優実が受けたDVの具体的なことなど、色んなことを先生にお話しました。私は特に算数が苦手なことが気になっていましたので、先生によく指導していただくようにお願いをしました。それと埼玉での友達関係についても出来るだけ詳しくお話した記憶があります。クラスでは仲のよい友達は多くなく、いつも特定の女の子と過ごしていたこと、つまらないいざこざをすぐに起こし、時には相手を殴ったり罵声を浴びせたことなどを話しました。
私は一般企業に務め教育現場から離れたところで生活をしていましたが、世間で話題になる教育問題についてはいつも関心を持っていました。
教室を徘徊する子ども、すぐにキレる子ども、コミュニケーションをとるのが下手な子ども、不登校児童の増加、広汎性発達障害を持つ子どもの実態など新聞紙上を賑わす事象については、一定の理解をしていたと思います。
優実という子は、DVを受けていた影響で、暴力的になったり大人が使う下品な言葉を使ったりしたのか、落ち着きや集中力がなく勉強の理解が進まなかったのか?それともLD「学習障害」なのではないかな?友達とよくトラブルになったのは、両親ともに一人っ子で、異年齢の従兄弟たちが居なかったから、子ども同士のコミュニケーションが下手なのか?顔を見ぬ一人の少女を必要以上に分析し想像をしていました。そして優実という少女に不思議な好奇心を覚えつつありました。
私の想像はあくまで想像であり、その域を脱しなかったのです。
優実が起こしたトラブルを川瀬さんから聞くまでは・・・




