第4話 人物 ~東 晃平とは~
彼、東晃平の父は、東京都世田谷区の教育長を3期歴任され、紫綬褒章を授与されるほどの逸材ですばらしい教育者でした。当然、東もその父の姿を見て育ったわけですので、誰もが親のあとを継ぎ、立派な教育者になるものと誰も疑いませんでした。また、彼もその期待にこたえようと東京学芸大学に入学し、教育者になるべく日々邁進していました。
そのころ、一浪し本学に入学してきた私と出会うことになるのです。
東は一人っ子で、教育者である両親の愛情を独り占めにして大きくなりました。一人っ子といえば、甘えたで、我がままというフレーズがすぐに思い浮かびますが、彼の場合、そのフレーズは特に当てはまりませんでした。少し寂しがりやの一面を持ち合わせていましたが、我がままというものとは違いました。高校時代に東京選抜に選ばれ、夏のバスケットボール高校選手権でベスト4を勝ち取るなど、学芸大に輝かしい実績をぶら下げ入学してきました。私はというと大阪の公立高校でがんばってきたのですが、彼のような輝かしい功績を残すことが出来ないまま、学芸大に一浪で入学したのです。
講義も同じものを取り、彼が彼女を作ったなら私も作る、彼が彼女と別れたなら私も別れると、いつも同じリズムの中にいたように思います。一緒に笑い、一緒に泣く、そして同じ空間を共有しながら私たちの青春の時間は過ぎていきました。東の大学4年間は、兄弟が出来たような気持ちになっていたのかも知れません。双子の兄弟といってもいいかも知れません。時には私が兄で、時には彼が兄というように。
教育とはこうあるべきだ、私ならこの方法で教授するが君はどうだなどと、何もわかっていない二人が教育観や教育実践方法などを熱く語り合っていました。エネルギーに溢れる若者が理想を求めまっすぐに進んでいく姿、それが当時の二人にはありました。恋愛では当時の若者としては真面目で、ルックスやセックスをただ望むのではなく、人間性を重んじる姿勢が二人にはありました。特に東はその傾向が顕著で、何ヶ月もプラトニックを通し、お互いが求め合うまでじっくり待つタイプの若者でした。
大学4回生になると彼がバスケットボール部の主将を務め、私が副主将となりました。二人の間では、そうなることがごく自然で、数年前から決まっていた約束事のように思っていました。彼が部員をまとめ、華麗なプレーを実践することでチームを引っ張っていく、そして私がそのサポートをする。ごく当たり前の姿がそこにはありました。華やかで輝く魅力を彼は持ち合わせ、誰しもを虜にする能力があったということでしょう。私もその虜になった一人であったのかもしれません。
こんな想い出があります。4回生の最終リーグ戦で、我がチームは大敗してしまいました。実力は私たちのほうがはるかに勝っていると考えられました。相手というとランキングも私たちより下位にいるチームとのゲームでした。あまりにも情けない結果とお粗末な内容で私たちは負けてしまったのです。その不甲斐なさは今でもはっきり思い出されるほどで、言葉にするのもつらく思えるほどです。東がどんなに悔しくまた腹立たしく感じていたことでしょう。真一文字に口を閉じ、一言も言葉にしない様は、部員たちにその高ぶる東の感情を感じさせるには十分でした。
その次の日、東は頭をすっきり丸めてきたのです。それまでは、軽くウェーブがかった、清潔感のあるミドルヘアーでした、スラムダンクの登場人物のようにツッパッたものではなく、その逆をイメージさせる髪型でした。その髪を丸めたのです。東にとっては、やり場のない感情をどうにかしたかったのでしょう。その一つの方法としてこの断髪式があったんだと思います。当然部員たちは、私も含め、驚くばかりでした、何が起きたのかわからない空気が当りに満ちていました。この時、東は部員たちに何を望んでいたのでしょう。彼は、それをはっきりと伝えませんでしたが、私を含め部員たちの心には届いていたように思います。
今だからそう思うのかもしれませんが・・・
次の日、また驚くことがありました。正確には驚いたのは部外の人だったと思います、部員はというとそうする事が主将である東の気持ちに答える一番の方法と知っていたからです。
私を含めた部員全員が頭を丸めてきたのです。何か浪花節臭いような出来事でしたが、当時の私たちは真剣で、気持ちを一つにするというか、男気を出すというか、けじめをつけるというか、東には他者にそうさせてしまう力があったのです。それが彼の一番の魅力だったと思います。
最終リーグ戦も終わり、卒業、就職と時は流れました。東は当然のように教師になり、私は一般企業に就職しました。それぞれがお互いの道でがんばりことを約束し、私たちの4年間は終わりを迎えました。




