第12話 ~われ思う~
私はこう思うのです。
偶然にも、私は優実という少女の壮絶な人生を知ることになりました。そして、その少女の人生に大きな影響を与えた東という教師が、私の親友であることも偶然のように思えます。
私がこの世に生まれ東という人間に出会ったこと、東が教師になりあの学校に勤務していたこと、あの子が悪魔に犯されてしまったこと、そして、東とであったこと。これは必然という偶然なのでしょう。
人との出会いだけではありません。私たちが生きていること、そのこと自体が必然という偶然なのではないでしょうか。その偶然とは何者なのでしょうか。何の因果関係もなく、予期しないことが起こることを『偶然』と一般的には定義されています。つまり、『偶然』とは予期せず起こる現象を示していることになります。しかし、この偶然を「予期しないことを起こさせる力」と私は考えてみたいのです。その偶然という力が私たちに働き、予期しないことが起きる、私たちには、私たちが感じることの出来ない不思議な力が働いているのかもしれないと考えることはできないでしょうか?どんな文明を使っても、どんな英知を集めても、その力に影響を与えることができない、そんな力を『偶然』と呼ぶことはできないでしょうか。
『偶然』は私たちに影響を与えるるが、私たちは『偶然』に影響を与えることができない。そんな力を感じたことはないでしょうか。
東は、多くの子どもたちを教育し、そして支えてきました。彼の教師人生は、まさに努力とバイタリティという信念の賜物であったに違いありません。彼は、その信念を絶対的な存在で、何事にも通用するもであると信じていたと思います。そう信じることが、彼を次へと動かす原動力になっていたからです。ですから、彼は、以前の優実を取り戻すため、自分の信念を信じて彼女のところへ行ったんだと思います。いままで彼がそうしてきたと同じように。
しかし、東の思いや信念は彼女には通じなかった。
東は、今まで感じたことのない無力感に苛まれ、自分の存在すらも疑うようになってしまった。そして、自分の存在を確かめるために彼はある方法を実践したのではないでしょうか。なぜなら、他者の他者であることを認識できた時、はじめて自分の存在に気づくことができると東は分かっていたからです。自分の存在を疑い始めた東は、それを確かめるために賭けに出たのではないでしょうか。自分の命を自ら絶つことで、存在していたはずの自分を他者に知らしめ、そうして、他者に『確かに東は存在していた』と感じさせることが、唯一、他者の他者である東の存在を明らかにすると考えたのでしょう。だから、自ら命を絶ち、その行為自体を優実へのメッセージに代えたかったのかもしれません。
優実が東が死んだという事実を知り、彼女の中で東という人間が存在していたと気づけたとき、彼女が以前の優実に戻れるのではないかと考えたのではないでしょうか。東の死が、自我の同一性を呼び戻す手段になると考えたのだと思います。
私はそう思います。そして、そう信じたいです。
東は、『偶然』という私たちにはどうしようもできない力に対して、挑戦をしたのでしょう。
偶然という力に影響された『自分』と『優実』のために・・・。
それぞれの自我の同一性を取り戻すために・・・。