第10話 ~死因~
「多重人格ってご存知ですか?」と聞かれ、「知っていますよ」と冷静に答えることはできませんでした。この母親が抱えてきた苦悩と女の子の不幸を想像するれば、もうこれ以上話を聞くことはできなと誰もが思うはずです。少なくとも私はそう思ったのです。
私がその質問に答えることができないまま下を向いていると、私の肩を叩く人物が居ました。
「中谷、久しぶりだな」
と声をかけてきたのは、大学時代の友人の馬場でした。
「失礼します。またお会いできたらいいですね・・・」
その雰囲気を感じ取った川瀬さんは、静かにその場を去って行かれました。馬場は川瀬さんの存在を気にしている様子も無く、久しぶりに会う級友との再会を楽しんでいるだけでした。
馬場も教師をしていたので、大学を卒業してからも東とは頻繁に付き合いがあったそうです。そして、3年ほど前から現場を離れ、東の勤める八王子市の教育委員会で指導主事としてがんばっているとの事でした。
「委員会なんて詰まらんよ、よっぽど現場のほうが遣り甲斐がある」
「でも、出世コースじゃないのか?委員会に行くって事は?」
「まあそんなとこだけど・・・ところで、中谷。東のことは聞いたのか?」
「えっ?・・・聞いたって?何のことだよ?」
「聞いてないのかよ・・・東の死因を?」
そういえば、大阪で東の訃報を聞いてときも、死因を聞いていなかった、あまりに突然だったから動揺していたこともあるし、とにかく新幹線に飛び乗ってこの場に来たからそれを意識していなかった、そんな自分にようやく気づきました。
「俺は立場上情報が入ってきたんだけどさ、まだ、確かなことは言えないのだけどね。」
「えっ、それってもしかして・・・事故とか病気じゃないって事かよ」
「そうなんだ、『飛び込み』の線が強いらしいよ。俺だってそうは思いたくないし、大学時代の東を知っているだけに、そんな柔なヤツじゃないのも分かっている。でも・・・確かな情報筋からの話だとそうらしいよ。」
馬場は、昔から少しいやみな感じがする男でしたが、相変わらずそのままの人間でした。もし、東の死因がそうならば、東の相談にのるとか、何かの手段を講じることができなかったのかと馬場を責める気持ちが沸々と沸いてきました。
「東の親父さんは教育長だっただろ、だから、身内から『飛び込み自殺』が出たと世間に知られないようにあちこちに圧力をかけているみたいだよ。最後の最後まであいつもつらいよな、親父の呪縛から逃れられないというか・・・」
「おい、そんな風にあいつのこと言うなよ」
ますます馬場に対する苛立ちが大きくなり、同時に東の親父さんの伝手か何かを使って委員会に入ったんじゃないかと思ってしまうほどでした。
「あいつはここ2年ほど苦しんでいたらしいよ、子どもや保護者対応にもね・・・俺が力になってあげればよかったんだけど・・・俺も委員会に入ったばかりで何かとあってさ・・・」
その鼻につく言い回しがどうしても気に入りませんでしたが、今の私にはこの男しか情報源がありませんでした。
「いわゆる『モンスター』ってヤツか?」
「そうそう、それそれ」
「あいつが担任していた子どもが、おかしくなったのも原因じゃないかって言われているよ」
「おかしい?それって・・・精神が・・・ってことか?」
「正解!」
嫌な思いが私を襲いました。もしかすると、飛び込み自殺の原因の一つがあの母子が関わっているのでは、川瀬さんを初めて見たときの今にも崩れ落ちそうな様子や彼女から聞いた話のすべてが私の中で一つになろうとしていました。
「東は東急で飛び込んだらしいよ。」
「東急?って、東急電鉄かよ、あの子の親父が勤めているところだろ・・・」
「おい、あの子?ってだれだよ?」
私は、馬場との会話に集中できずにいました。川瀬さんとの話がそれを邪魔するのです。一つ一つが繋がっていくことに恐怖に似た感情を覚えながら。
「おい、中谷。聞いてるのかよ?」
ハッとして、私は馬場の言葉で現実に引き戻されました。そして、「川瀬優実」と馬場にあの子の名を告げていました。
馬場は私の口元を覆いながら、囁くように言いました。
「どうしてお前がその名前を知っているんだ。」
馬場は今までの調子のいい様子から一変しました。それはまるで、トップシークレットとして扱われる人物の名前を部外者が知っていることの驚きと決して気軽にその名前を口にするのではないと警告しているようでした。
「おい、どうして委員会の一部の人間しか知らないあの子の名前を・・・どうしてお前が知っているんだ?」
「とにかく、この手をどっかにやってくれないか。」
頻りに、馬場はあちらこちらを見渡し、通夜の待合室であるこの場がこれからの二人の会話に適した場所なのかを確かめていました。
「ここじゃ、何だから・・・俺の車に移ろう」
馬場は焼香も済ませず私の袖口をつかみ、車まで連れて行きました。
馬場との話が進むにつれ、私の悪夢は現実のものになっていきました。