第九章 満ちる星影 【4.風が嘲る道】
【4.風が嘲る道】(ふうがあざけるみち)
鬼怒川の水音は、遠ざかるほどに逆に大きく響いてくるようだった。
それは、良正の胸に残る恐怖が、耳の奥で反響しているかのようであった。
良正には、それが自分を追ってくる“敗北の足音”のように聞こえた。
(……逃げても、逃げても、あの黒い影が追ってくるようだ。)
晩秋の川は冷たく澄み、その流れは、戦場の喧騒を洗い流すかのように、ざわりざわりと一定の調べを刻んでいる。
しかし良正の耳には、その静かな水音が、なぜか次第に大きく、重く響いてきた。
良正は、自らの胸に湧き上がる恐怖を抑えきれなかった。
湿地を蹴る馬の蹄が泥を跳ね上げる。その泥が鎧に当たるたび、良正の胸に冷たい痛みが走った。良正は、馬の腹を必死に蹴りながら、背後に迫る黒騎馬の幻影を振り払おうとしていた。
(……威勢を上げて戦場に馳せたこの身が、今や、どす黒い血と泥土に塗れ、日の光を怖れる地這や這虫のように惨めな姿ではないか…)
晩秋の風は冷たく、木々の枝を鳴らし、遠くで鳥が一斉に飛び立つ音がした。
良正は、戦場で見た光景を思い返した。
黒い影が川を裂き、湿地を駆け抜け、自軍の陣形をいとも容易く穿ち、背後に回り込み、兵たちの心を折っていく。
(小次郎の軍は百余騎に過ぎぬ。それなのにあの突撃は、まるで厄災ではないか。)
鬼怒川沿いの道は、落ち葉が積もり、馬が駆けるたびに舞い上がる。
その舞い散る葉が、まるで良正の敗走を嘲笑うかのようにひらひらと空を漂った。
馬の息は荒く、蹄が落ち葉を蹴り散らすたび、乾いた音が晩秋の林に吸い込まれていく。
冷たい風が、敗走する良正の頬を切るように吹きつけた。
その風には、落葉の匂いと、戦場に残った血の鉄臭さが混じっていた。
(……あれは“武神”だ。天の理が、あの男に宿っている。)
良正の胸に、敗北の痛みがじわりと広がった。
馬の蹄が落ち葉を踏む音だけが、良正の周囲に残された唯一の現実だった。
風は冷たく、木々は葉を落とし、空はどこまでも高く澄んでいる。
その静けさが、良正には耐え難かった。
(私は……何を守ろうとしたのだ。源護殿の怨みか。一門の面子か。それとも――自らの立場か。)
晩秋の風が、その問いを冷たく吹き払う。
馬の息が荒くなり、良正の呼吸も乱れていた。
晩秋の空気は乾き、その冷たさが良正の胸に突き刺さる。
その瞬間、良正の胸に、これまで感じたことのない“恐れ”が生まれた。
(小次郎は義に徹した。私は……利と怨の間で揺れ、結局、何も貫けなかった。)
その言葉は、敗走する良正の胸に深く沈み、抜けぬ棘のように残った。
野本での敗走から水守館に辿り着いた良正の胸の奥では、未だに鬼怒川の水音が反響していた。その音は、敗北の痛みと、将門という“破軍星”の影を思い出させる。
(……あれは人ではない。あれは妙見の遣い、軍神だ……勝てる訳がなかろう…。)
良正の心には、恐怖と屈辱が深く刻まれていた。
その頃、
川曲の戦場には、黒騎馬の蹄が刻んだ深い溝が残されていた。
名もなき多くの兵の屍が、野辺の露と消えた。
湿地は乱れ、葦原は倒れ、鬼怒川の水は赤く濁っていた。
風が吹き抜けるたび、枯れた葦がざわりと揺れ、まるで坂東の地そのものが呻いているようであった。
将門は、戦場の向こうを静かに見つめていた。
(……これは始まりに過ぎぬ。)
破軍星の影は、すでに坂東一円に広がりつつあった。
一方、国豊と真樹は、「妙見の七曜」を胸に、“地の道”を結ぶ覚悟を固めていた。
そして良正は、敗走の中で初めて、自らの弱さと向き合うことになった。
天の道。
地の道。
人の揺れ。
それらが交錯し、坂東の地は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。
だが、坂東の風は静まるどころか、むしろ次なる嵐の匂いを運んでいた。
――坂東に満ちる星影は、この日を境に、もはや誰にも止められぬものとなった。




