七曜の盟約
野本の戦いから三月ほど経った。
ようやく落ち着きを取り戻した大国玉の荘園は、夏の陽に照らされていた。
堰から流れる水音が絶え間なく響き、青々とした稲が風に揺れている。
藤原国豊は、成家・兼遠を伴い、荘園の館へと歩を進めた。
内門が開くと、質素な直垂ながら、山の根のような揺るぎなさを湛えた男――
平真樹が立っていた。
真樹は深く頭を下げた。
だが、その眼は国豊の一挙手一投足を逃さぬ、武門の者の眼であった。
「大掾殿。よくぞお越しくだされた。」
声は低く、礼の奥に慎重な探りが潜んでいた。
国豊もまた、静かに一礼した。
「お初にお目にかかります。大国玉の殿の御名は、常陸国内に遍く響いております。」
真樹は、わずかに口元を歪めた。笑みとも、苦みともつかぬ表情だった。
「この度は下総の将門公に助勢を頂き、我が荘園はひとまず安堵を得ました。」
国豊は静かに頷いた。
庭の水田に目を向ける。
風に揺れる稲の波が、どこか落ち着かぬ。
「大国玉殿の荘園は、常陸の穀倉地。戦火に見舞われず、何よりでした。」
真樹は静かに頷いた。
国豊は続けた。
「民のために、将門殿にお会いなされたと聞き及びました。」
真樹は苦笑した。
「民の命は、武門の面子より重いものでしてな。」
その言葉は柔らかいが、その裏には“其方はどうか”と問う鋭さがあった。
国豊はきっぱりと返した。
「確かに、民の命には代えられませぬ。大国玉の殿は、正しきことをなされた。」
真樹の眼に、わずかな安堵が浮かんだ。
国豊は続けた。
「しかし、将門公に追われた源護殿は、娘婿である平良正殿の水守館に身を寄せているとか。」
真樹は、しばし沈黙した。
その沈黙こそが、坂東の空気の重さを物語っていた。
「大掾殿……源護殿の怨みは深い。良正殿もまた、兵を挙げると聞きます。」
国豊は真樹の横顔を見つめた。
「良正殿は将門公の叔父――。
同じ皇統の血を引きながら、なぜ争わねばならぬのでしょうか。」
その言葉の奥には、“大国玉の主は、将門公をどう見るか”という問いが潜んでいた。
真樹は、静かに口を開いた。
「大掾殿……坂東の民は、将門殿をただの武家とは見ておりませぬ。」
国豊は息を呑んだ。
「妙見菩薩の御使い、七曜の破軍星の化身――。
そう囁く者が、日に日に増えております。」
国豊は静かに頷いた。
その胸の奥に、小さな火が灯るのを感じた。
それは憧れとも、嫉妬ともつかぬ、武門の男としての本能が震えるような熱であった。
(……あの御方のように、迷わず道を選べれば。)
そう思った瞬間、自らの弱さを見透かされたようで、国豊はそっと視線を落とした。
真樹は、国豊の心の揺れを見逃さなかった。
「大掾殿は、密の教義はご存じか。」
妙見菩薩――善悪を見通し、天地の秩序を司る尊き仏。
北斗の七曜は、妙見の七つの力を象徴すると伝わる。
国豊は答えた。
「京にいた頃、聞いたことがあります。
――破軍の星は、乱を呼び、古きを壊し、新しきを開く星だと。」
真樹は、国豊をじっと見つめた。
「七曜は、利・義・理・知・愛・疑、そして“開”。
――妙見菩薩の七つの力を表すと申します。」
真樹の声は、風に揺れる稲の音に溶けていった。
「我らは、その七つの道の間を、常に揺れ動きながら生きております。
時に欲に聡く、時に勇を奮い、時に規律に縛られ、時に学び、時に疑い、時に愛する。
――どれが正しいというものではない。」
国豊は、真樹の言葉を聞きながら、自らの胸の内にある七つの影を見つめていた。
―利(欲望)に聡い自分。
―義(正義)に憧れる自分。
―理(規律)に縛られる自分。
―学びを求める自分。
―疑い深い自分。
―誰かを守りたいと願う自分。
そして…
―何かを開きたいと願う、自分。
(……私は、どれでもあって、どれでもない。)
その揺れこそが、自分の“地の道”なのだと、国豊は初めて気づいた。
真樹は続けた。
「しかし、将門殿は違う。あの御方は幾多の柵を超えて、ただ一つの力
――徹底して正義を体現される御方。
だからこそ、民は惹かれ、為政者の一門は恐れるのです。」
国豊は、静かに言った。
「……あの御方のように、迷い無く“義の一本道”を進めれば、と思うことがあります。」
真樹の眼が、国豊を射抜いた。
「妙見菩薩は七つの道を示し、我らに問うておられるのでしょう。
――そなたは、どの道を歩むのか、と。」
国豊は、胸の奥に痛みを覚えた。
「私は……迷うことが多すぎる。判断一つで、どれほどの者が泣くかと思うと、心が揺れ、足が止まるのです。」
その声は、静かで、深い痛みを含んでいた。
真樹は深く頷いた。
「破軍の星の進むべき道は、破軍の星が歩む。我らは大地に足を着け、民の重さを背負いながら揺れ動くしかありますまい。」
国豊は、わずかに目を伏せた。
(将門殿のように一徹にはなれぬ。
――だが、私には私が歩むべき「大地の道」がある。)
真樹は、その沈黙を破った。
「大掾殿。なればこそ、我らは地に生きる者として、
――この常陸で、地の道を共に歩みましょう。」
国豊は顔を上げた。
「将門殿のように天命に従って歩む御方とも、源護殿や良正殿のように怨焔の妄執に呑まれる者とも違う、中道を。」
真樹は静かに言った。
「妙見菩薩が示す七つの力を結び、極端を捨てて「共に生きる」のです。」
国豊は、静かに頷いた。
「承知いたしました。
――常陸の民を護る道を、共に探りましょう。」
その瞬間、国豊の胸にひとつの痛みが走った。
(破軍の星は天を進む。私は地を歩む。だが――地を這う者にしか見えぬ道もある。)
国豊は、胸の奥に走った痛みを、もはや恐れとは思わなかった。
それは、自らの道を歩み始めた者だけが抱く、静かな覚悟の痛みであった。
斯くして、常陸大掾・藤原国豊と大国玉の主・平真樹との同盟は成立したのである。




