1.音のない部屋で
◆音のない部屋で◆
薄い防音扉が閉まると、外の雑音はすっと消えた。
かわりに、空調の低い唸り声だけが、静かな空気の底をくすぶっている。
スタジオに入るのは、今日で数回目だ。
もう慣れてもいい頃なのに、床に敷かれた黒い防振マットを見るだけで、胸の奥がわずかにざらつく。
ベースケースを壁に立てかけながら、遥は息を整えた。
アンプの電源はまだ入ってない。
それでも金属のノブに触れると、ひんやりとした重みが指先にまとわりつく。
隣では、哲央がドラム椅子の高さを微調整していた。
その手つきは落ち着いているのに、指先だけがほんの少し早い。
焦っているわけでも、不安なわけでもない。ただ、音を鳴らしたくて仕方ない、そんな動きだった。
決まった肩書はない。けれど、
叩く音だけは、初めからまっすぐだった。
「……今日は、ちゃんと形になるといいな」
ぼそりと言ったその声も、机の脚のように地に足がついている。
遥は、うなずく代わりに、ベースケースを抱え直した。
――スタジオの空気は、冷たい。
冷房の冷たさではない。
本番前の、音がまだ存在しない時間だけが持つ、独特の張りつめた冷たさ。
”ギィ……”
扉がわずかに軋む。
ほんの少しだけ外の空気が流れ込み、それと一緒にユキが入ってきた。
ギターケースを背負い、薄い譜面ファイルを手に。
いつも通りの静かな表情のまま、照明の光を一瞬だけ見上げる。
自然光は存在しないのに――なぜか、光という言葉が似合った。
「お疲れ。遅れてごめん」
短く言ってから、視線を巡らせる。
「……哲央、セット終わった? 遥も、準備できてる?」
声は静かだが、空気の底を揺らす力があった。
それだけで、何かが始まる予感がする。
遥は、まだ一音も出していないのに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
ここから、何かが生まれる。
それはまだ形になっていない。
けれど確かに、始まりの気配だけは、そこにあった。
◆言葉になる前の音◆
ユキの手から渡された薄いファイルには、譜面と呼ぶにはあまりに粗削りな、五線譜とコードの断片が鉛筆で書かれているだけだった。
だけど、その走り書きの一音一音は、なぜか息をしているみたいに見えた。
「……あのさ。とりあえず、一回弾いていい?」
ユキは、いつもの静かな声で言う。
誰も返事をしない。否定する理由なんて、最初からなかった。
スタジオの蛍光灯が、わずかに低く唸る。
アンプのスイッチが入る「パチ」という音のあと、空気が静かに張った。
音が、鳴る。
一音目は、驚くほど小さかった。
なのに、耳ではなく胸の奥に届いた。
力強さではない。
派手さでもない。
初めて聴くはずなのに、どこか懐かしい。不思議な旋律。
それは”始まりを予感させる音”だった。
遥は、いつの間にか息を止めていた。
瞬は壁にもたれ、自分のギターを抱えたまま、何も言わずに聴いている。
目を閉じコードのない旋律の構造を探るように、指先をゆっくりと動かしている。
哲央はスティックを膝に乗せたまま、一定のテンポを刻んでいる。
まだ曲の形もないはずなのに、ユキの”音の呼吸”だけで、テンポが生まれていた。
晃だけは、何も持たず、ただその音を聴いていた。
腕も組まない。茶化しもしない。
ただ、じっと静かに立っていた。
わずかに腕が震えた。
そして、小さく呟いた。
「……歌える」
晃自身が、一番その言葉に驚いた顔をしていた。
ユキは手を止めずに、静かに言う。
「ああ、歌ってほしいから、曲を作ってるんだよ。」
瞬が小さく息を吸ってユキを見た。
持っていたギターのネックを握り呟いた。
「……さすがだな」
哲央が、スティックを膝にトンと当て、問いかける。
「……歌詞も何もないのに、音だけで渡すつもりだったのか?」
ユキは、その問いかけに顔を上げた。
ほんの少し考えてから、静かに答える。
「言葉にしてしまうと、狭くなりそうで」
ユキは自分のギターを見つめ、軽く弦に触れる。
「言葉にしてしまうと、意味が決まってしまうから。最初は、音だけで渡したかった」
(ああ、そうか。ユキくんは晃くんの声、瞬くんのギター、哲央くんのドラム、そして私のベース。ユキくん、そこまで見てくれるだ)
そのとき、遥は自分の膝の上にあるベースを見下ろした。
まだ何も弾いていないのに、指先が、少しだけ熱い。
まだ、何も始まってないのに、
もう戻れない気がした。
ユキの音が鳴った、その瞬間。
ただの練習スタジオは、自分たち五人だけの、”始まりの場所”に変わっていた。
それはまだ、曲でも、形でもない。
けれど、
もう”音”としてここに存在している。
誰も言葉を足さなかった。
足せるものなど、そもそもなかった。
(……あの時の音に、似ている)
初めて”音に救われた夜”のことを、遥はふと、思い出していた。




