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MONDE ー光を鳴らす物語ー  作者: ぽちな
第一部 始まりの光―プロローグ
1/22

1.音のない部屋で

◆音のない部屋で◆


薄い防音扉が閉まると、外の雑音はすっと消えた。

かわりに、空調の低い唸り声だけが、静かな空気の底をくすぶっている。


スタジオに入るのは、今日で数回目だ。

もう慣れてもいい頃なのに、床に敷かれた黒い防振マットを見るだけで、胸の奥がわずかにざらつく。


ベースケースを壁に立てかけながら、はるかは息を整えた。


アンプの電源はまだ入ってない。

それでも金属のノブに触れると、ひんやりとした重みが指先にまとわりつく。


隣では、哲央てつおがドラム椅子の高さを微調整していた。

その手つきは落ち着いているのに、指先だけがほんの少し早い。

焦っているわけでも、不安なわけでもない。ただ、音を鳴らしたくて仕方ない、そんな動きだった。


決まった肩書はない。けれど、

叩く音だけは、初めからまっすぐだった。


「……今日は、ちゃんと形になるといいな」


ぼそりと言ったその声も、机の脚のように地に足がついている。

遥は、うなずく代わりに、ベースケースを抱え直した。


――スタジオの空気は、冷たい。

冷房の冷たさではない。


本番前の、音がまだ存在しない時間だけが持つ、独特の張りつめた冷たさ。


”ギィ……”


扉がわずかに軋む。

ほんの少しだけ外の空気が流れ込み、それと一緒にユキが入ってきた。


ギターケースを背負い、薄い譜面ファイルを手に。

いつも通りの静かな表情のまま、照明の光を一瞬だけ見上げる。

自然光は存在しないのに――なぜか、光という言葉が似合った。


「お疲れ。遅れてごめん」


短く言ってから、視線を巡らせる。


「……哲央、セット終わった? 遥も、準備できてる?」


声は静かだが、空気の底を揺らす力があった。

それだけで、何かが始まる予感がする。


遥は、まだ一音も出していないのに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


ここから、何かが生まれる。


それはまだ形になっていない。

けれど確かに、始まりの気配だけは、そこにあった。


挿絵(By みてみん)

◆言葉になる前の音◆


ユキの手から渡された薄いファイルには、譜面と呼ぶにはあまりに粗削りな、五線譜とコードの断片が鉛筆で書かれているだけだった。


だけど、その走り書きの一音一音は、なぜか息をしているみたいに見えた。


「……あのさ。とりあえず、一回弾いていい?」


ユキは、いつもの静かな声で言う。


誰も返事をしない。否定する理由なんて、最初からなかった。


スタジオの蛍光灯が、わずかに低く唸る。

アンプのスイッチが入る「パチ」という音のあと、空気が静かに張った。


音が、鳴る。


一音目は、驚くほど小さかった。

なのに、耳ではなく胸の奥に届いた。


力強さではない。

派手さでもない。


初めて聴くはずなのに、どこか懐かしい。不思議な旋律。

それは”始まりを予感させる音”だった。


遥は、いつの間にか息を止めていた。


しゅんは壁にもたれ、自分のギターを抱えたまま、何も言わずに聴いている。

目を閉じコードのない旋律の構造を探るように、指先をゆっくりと動かしている。


哲央はスティックを膝に乗せたまま、一定のテンポを刻んでいる。

まだ曲の形もないはずなのに、ユキの”音の呼吸”だけで、テンポが生まれていた。


あきらだけは、何も持たず、ただその音を聴いていた。

腕も組まない。茶化しもしない。

ただ、じっと静かに立っていた。


わずかに腕が震えた。

そして、小さく呟いた。


「……歌える」


晃自身が、一番その言葉に驚いた顔をしていた。


ユキは手を止めずに、静かに言う。


「ああ、歌ってほしいから、曲を作ってるんだよ。」


瞬が小さく息を吸ってユキを見た。

持っていたギターのネックを握り呟いた。


「……さすがだな」


哲央が、スティックを膝にトンと当て、問いかける。


「……歌詞も何もないのに、音だけで渡すつもりだったのか?」


ユキは、その問いかけに顔を上げた。

ほんの少し考えてから、静かに答える。


「言葉にしてしまうと、狭くなりそうで」


ユキは自分のギターを見つめ、軽く弦に触れる。


「言葉にしてしまうと、意味が決まってしまうから。最初は、音だけで渡したかった」


(ああ、そうか。ユキくんは晃くんの声、瞬くんのギター、哲央くんのドラム、そして私のベース。ユキくん、そこまで見てくれるだ)


そのとき、遥は自分の膝の上にあるベースを見下ろした。

まだ何も弾いていないのに、指先が、少しだけ熱い。



まだ、何も始まってないのに、

もう戻れない気がした。


ユキの音が鳴った、その瞬間。

ただの練習スタジオは、自分たち五人だけの、”始まりの場所”に変わっていた。


それはまだ、曲でも、形でもない。

けれど、


もう”音”としてここに存在している。


誰も言葉を足さなかった。

足せるものなど、そもそもなかった。



(……あの時の音に、似ている)


初めて”音に救われた夜”のことを、遥はふと、思い出していた。




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