88 怒らせちゃった!?ガマンの限界!?
気がついたら、水龍さまのお腹の中で生きていた。
ぬるい水に抱かれるような、やさしい闇。息は苦しくない。体も、もう魚の形じゃなくて――ただの“たましい”のようだった。
「お前は、何者なら素直になるのだ?」
水龍さまの声は、遠くの滝が響くみたいに、胸の奥に落ちてきた。
(……消化されてないんだな、オレ)
「どういう意味!?」
思わず怒鳴り返す。声は泡みたいに広がって、すぐ溶けた。
「おのれに聞いてみろ。お前の名は?」
名。
そんなの――。
「オレ……オレは……ブルーギル。名前なんて、なかった」
しん、と水が止まったような気がした。
「そうか……記憶がないのだな」
「記憶……?」
「お前は、囮鮎で、青鮎で、闇精霊だったカゲミだ」
胸が、バクンと跳ねた。
「……カゲミっ!オレ、やっぱりカゲミだったのか……!」
ブラックバスのオルグも、あの人間も、そう呼んでいた。
意味の分からなかった名前なのに――今は、なぜか体が勝手に震えた。
名を口にした瞬間、水龍さまの周囲の水がふわりと揺れた。まるで肯定するように。
水龍さまは、静かな瞳でこちらを見つめる。
「しばらく、ここにとどまることを許す。次第に思いだし、自分を形作るであろう」
その言葉は、水温のようにじんわり体へしみ込んでいった。
「……思いだすって、何を?」
自分でも気づかないほど、小さな声が漏れた。
「お前が“誰”であったか。何を望み、何を恐れ、何を失ったのか――すべてだ」
水龍さまの声に合わせるように、どこか遠い、水底の記憶がかすかに揺らめく。
鮎として泳いだ日々の光。囮として必死に流れを切った痛み。闇に溶けた、黒い意志。それから――あの青い瞳。
(……全部、オレなのか?)
水龍さまの腹の中は暗くて広い。なのに妙に安心して、眠気が襲ってきた。
「おやすみ、オレ……。カゲミ……だっけか」
たしかに、ここなら思いだせる気がした。
水龍さまは、ぐうっと目を細めた。腹の内側に広がる水の世界に、ふっと別の景色が映る。
――転スイ門。
瀬音たちが、わいわいと楽しげに酒盛りしている。
「アヤツ!ちゃっかり酒を呑んでおるではないか!?シヴァ・テンスイめ……!」
低く、どすんと響く怒りの声。その一言で、水龍さまの腹の内に広がっていた静かな水脈が、ぐらりと揺れた。
「……我の分は残しておかないと許さん!」
怒りが水面を震わせる。眠るカゲミの周囲――青白い空間のなかに、ぼこぼこと濁流が立ちのぼった。さざ波が大きくふくらみ、まるで小さな嵐だ。
その濁流がゆっくりと渦を巻くと、近くの砂地にぽつぽつと芽が生えた。みるみるうちに草木となり、淡い光を宿しながら茂っていく。
「……なんだこれ……寝てるだけで緑生えてってる……」
と、半分夢の中のカゲミがぼんやり呟く。
水龍さまは鼻で笑い、すっと転スイ門の方へ意識を向けた。
「我の腹の内も思念よ。さて――高みの見物をさせてもらうか」
水の中に、ふわりと斜めに浮かびながら、遠くの宴を眺める水龍さまの眼差しは、怒っているようでいて、なんだか少しだけ楽しそうだった。
カゲミは、草の生い茂った水底の上で、うつぶせのまま半目を開けた。
「……うるさ……。なんだよ、これ……川の音じゃねぇし……」
頭上では濁流がごうごう渦巻いている。水龍さまの怒りは収まっていなかった。
「安心せよ、カゲミ。我は少し腹を立てておるだけだ。お前は眠っていろ。記憶が戻るのは――これからよ。」
「いや眠れねぇんだけど!?この騒音で!!」
水龍さまは、ふむ、とゆるやかに首をかしげた。青白い鱗が水光をまとい、静かに揺れる。
「では、もっと静かな濁流にしてやろう」
「静かな濁流って何だよ!!意味わかんねぇよ!!」
と、必死に訴えたその瞬間――水龍さまの瞳がふっと細められる。怒りではなく、どこか“覚悟”のような光が宿った。
「たしかに。 では……思いだせ。すべてを」
低く響く声が、空間そのものを震わせた。
――グワァァァァッ……!!
怒号のような濁流が、しかし恐ろしいほど整った軌道で渦巻き、カゲミの身体――いや、魂そのものにぶつかってくる。
泡がぱちぱちと弾け、光の粒が白い雨のように降りそそぐ。
「う、わ……っ、な、なんだこれ……!」
目を開けていられない。けれど、逃げることもできない。
水龍さまの怒りは、もはやただの“激流”ではなかった。その中心にあるのは――“呼び覚まし”、そして“願い”。
濁流が、カゲミの胸の奥深くに触れた瞬間。
――ドクン。
青い影。透きとおる流れ。尾びれをふる、小さな鮎。自分の名を呼ぶ声。
忘れていたはずの記憶が、水底から浮かびあがるように、ゆっくりと開いていく。
「……あ……れ……オレ……」
言葉にならない息が漏れる。
水龍さまは、その様子を静かに見つめた。
「覚醒せよ、カゲミ。囮鮎であり、青鮎であり――闇精霊であった、お前自身を。」
その宣言が響いたとたん、カゲミの全身を覆う光が、ぱっと弾け飛んだ。
「今度こそ成就するがよい。影巫女――カゲミよ」
ニヤリ、と牙をむき、カゲミに告げた。
水龍さまはニヤリと牙を見せ、告げた。
呼び起こされたのは恐怖ではない。
眠りを破り、真の名を掘り起こす――再誕の衝撃だった。
”それを全部飲み切ってみろ。我は許さんぞ”
”未開封の酒があるなら、こちらへ送ってこんか!”
”くっ!我は、甘じょっぱに目がないのを知っておるくせに”
”ずっと聞こえてないフリをする気か!それでも神か!!”
……気づけば、水龍さまがずっと思念をシヴァ・テンスイさまに送りまくっていた。
(こわ……水龍さま、なにやってんだ……)
カゲミは半分呆れ、半分尊敬しながら、濁流がうねうねする様を見ていた。




