86 キュリシアを忘れちゃった!?外来種の再会!?
青鮎には、古くからこんな伝承がある。
「青鮎を見た者は、大切なものを失うが、大切なことを知る」
一見すると悲しい言葉だ。けれど川の世界では、“失う”ことは終わりじゃない。流れ落ちたものは、次の流れを生む。別れは、芽生えの前ぶれにもなる。
青い光は、未来を選ぶ魂の色。流域の願いを映し、川の記憶を運び、見る者の胸に痛みを落としていく。その痛みは、時として“愛しさ”だったり、“憧れ”だったり、“誰かを思う強さ”だったりする。
そして――その痛みに気づいたとき、初めて「大切なこと」を知る。
セセラギも、俺も。
それぞれの流れの中で何かを失い、何かを見つけ、誰かを思う痛みと温かさを知った。
青鮎の伝承は、悲しくなんてない。それは“流れ続ける命”の物語であり、“つながりを選ぶ心”の証だから。
いつからなんだろう。
――いつから「セオトの隣にふさわしいのは人間なんだ」なんて、そんな風に思うようになったんだっけ。
「……セオトを守りたい。それだけで良かったはずなのに……俺、いつの間にこんな考えしてんだよ……」
胸の奥がじん、と熱い。闇精霊としての体は、何も変わらず軽いはずなのに、心だけがやけに重かった。
そうだ。囮鮎として生きていた頃――あの流れの中で。
「……俺も、セセラギのような青鮎になりたかったんだよな」
セセラギの背に寄り添って泳ぎ、相棒としてすぐそばで流れを切り、一生懸命に生きて、必死でアイツを守りたくて。
そして、上流まで辿りついて、力尽きた。
あの最後の瞬間は苦しかったはずなのに……なぜだろう。思い返すたび、胸の奥がふわりとあたたかくなる。
「……あれを、幸せだったって言うのかな……」
闇となり、再び流れに戻れた今の自分。セオトの隣には、どんな時だっていられる。影のように寄り添って、彼の呼吸の揺れさえも感じ取れる距離。
――それなのに。
「……なんで、こんなにもやもやしてんだよ……」
満たされない。その理由に気づくのは想像以上に痛かった。
リウラが嫉妬していたのは知っている。でも――
「俺だって……人間になりたいって、ずっと葛藤してんだよ……」
言葉にした途端、胸がつまって声が震えた。青鮎だった頃の夢。“相棒として隣にいられる自分”への憧れ。
そして今、セオトの隣にいるのに、なりきれない“何か”。
「……闇精霊って……なんなんだよ……」
闇精霊のままでは届かないものがある。その事実が、静かに刺さった。
記録師協会が崩れはじめたのは、クロムとオルグの過ちが原因だ。最初は建物の軋みだと思った。けれど、それは違った。
――“記憶の穴”が開いたのだ。
黒とも青ともつかぬ深い闇。形があるのかも分からないのに、確かにこちらを見返してくる何か。
「……見ちゃいけない。分かってるのに……!」
心の奥から警鐘が鳴る。だが、思えば思うほど抗えなくなる。視線は引き寄せられるように、穴の中心へ――。
「っ……やめろ、俺……!」
闇が呼ぶ。吸いこむように、手を伸ばしてくる。
ああ。
暗黒に惹かれるだなんて、ほんと――
「……闇精霊らしいじゃないか、俺」
皮肉のつもりで笑おうとしたのに、喉が乾いてひび割れた声しか出なかった。それでも目は離れない。
穴に落ちて終わるくらいなら。こんなふうに抗ってみせるくらいなら。
「……はは。素直になっておけばよかったよなぁ……」
伝えたい気持ちも、未練も、隠したまま。中途半端なまま、生き方の形も変えられなかった。
笑うしかなかった。
「アハハ……! 煮え切らない自分に笑えるわ……」
闇が足元をさらう。視界が落ちる。それでも、最後の最後まで――負けはしない。
「大丈夫だ。次も……必死で、生きてやるから」
そこから記憶が……ない。
「カゲミ」って呼んでる声が聞こえたような……気もする。
落ちていく感覚も、苦しさも、痛みも――何も覚えていない。
ただ。
「……え?」
目を開けたとき、目の前には濁った水の色があった。淡水。水草。小さな虫。ゆっくりと流れる、見覚えのない川。
自分の手足を動かしてみる。手? いや、ヒレだ。
背中の形もおかしい。体の感触が、以前の鮎とも違う。
「……ちょっと待て。俺、これ……外来種じゃね!?」
しかも、よりによって。
水面に映った影は丸っこくて、青黒くて、見慣れない体型をしていた。
そう、異世界の川魚でも、清流の鮎でもない。
――外来種のブルーギルだった。
「……はぁ!?なんでブルーギル!? 俺、選べなかったの!?」
軽くパニックを起こしながら尾びれをばたつかせる。水がばしゃっとひっくり返った。
でも、どれだけ取り乱しても、現実は変わらない。体は小さくて、丸くて、ぴちぴちしてて。どこからどう見てもブルーギル。
「……マジかよ。これが“次”なのか?……鮎より生きやすいのかな?」
ぽつりと呟いた声は、水の中で丸い泡になって小さく弾けた。期待でも楽観でもない、ただの自嘲。
それでも、どこかで“今度こそ上手くやれるかも”なんて思ってしまった自分がいた。
だが――現実は甘くなかった。
ブルーギルは、嫌われ者だった。自分だって魚の世界の常識は知っているつもりだったが、ここは日本の川。清流に入れば追われ、石陰を狙えばつつかれ、縄張りに近づけば追い出される。
「ちょ、待てって……! 俺そこ通りたいだけなんだけど!?」
追い払われ、また追い払われ、辿り着いたのは――水がほとんど動かない、重たい淀み。透明度は低く、泥が沈殿し、流れはほとんど感じられない。
「……うわー……俺、こんなとこ住むのか……」
鮎の頃とは真逆の環境。きらきらした流れも、清らかなセセラギも、ここにはいない。代わりにあるのは、重たい静寂と、底に溜まった影のような暗さ。
その“影”の正体に気づいたのは、淀みに一歩踏み込んだ瞬間だ。
――ゴボォッ。
大気を震わせるような水のうねり。巨大な影が、ゆっくりと持ち上がる。
「……え?」
視界いっぱいに広がる、黒い壁。いや、背ビレだ。続いて、無駄にデカい口。丸呑み特化の、あの悪名高き種。
ブラックバス。
しかも、ただのバスじゃない。
目が合った瞬間――異様な迫力。精神の奥底をかき回すような圧。圧倒的捕食者の風格を纏いながら、どこか、こう……ひたすら自由奔放で、危険な匂い。
「……なんか、ちょっとイカれてね? このバス……」
そいつは口角を上げた――ように見えた。そして、低く、ドスの効いた声が水を震わせる。
「久しぶりだな、カゲミ」
――え?
「……えっ、おま……誰!?」
巨大バスは、深い淀みの底から浮かび上がるように姿を現し、ゆらり、ゆらりと尾びれを揺らした。その動きだけで、水全体が圧に震える。そして――妙に荘厳な声で名乗った。
「こう見えて、わしは協会長で”偉大なる記録師”オルグ」
「はぁぁぁあああ!?オルグって誰!?なんでブラックバスがマグカップって!?いや似合ってるけど!!」
自分でも何を言ってるか分からない。けれど、それ以上に理解できないものが目の前にいる。存在感がデカすぎて、意味がわからない。何より――
「圧がすごいんだよ!!こえぇぇぇぇーー!!」
水の中なのに喉がカラカラになっていく。ブルーギルの小さな体がビリビリ震える。
巨大バス――オルグは、じっとこちらを見下ろした。その目は、深淀みそのもののように暗く、底を読めない。
「……覚えていないのか。つまらん」
淡々と、しかしどこか失望を含んでつぶやく。次の瞬間――
オルグの巨体は、影のように水中へ沈んでいった。尾びれの一振りだけで、淀みが闇に戻る。
ゴボ……ゴボォ……。音だけが重たく響く。
「……え、えぇ……?置いてくの?こっわ……!」
残されたカゲミは、濁った水の中でただ震えるしかなかった。淀みはひどく静かで、どこまでが水で、どこからが闇なのかさえ曖昧に思えるほどだ。
――本当に、ここで生きていくのか?
小さなブルーギルの胸に、不安がじわりと染み込んでいった。
「覚えていないのか。つまらん」
――まったく、肩すかしもいいところだ。
……これだから外来種は――。
……わしも、外来種だった。
ゴボ……ゴボォ……。重たい音だけが響く。
――ブラックバス、オルグ。




