38 響いちゃった!?水の祈り!
セリアンは、禁書水声抄に書き残された古代の吟遊詩人の断章集を、飽くことなくめくっていた。
薄い羊皮紙に刻まれた言葉は、ただの記録に見えて――まるで水に映る声を写し取ったように、読む者の心に澄んだ余韻を残す。
やがて、セリアンの唇がごく自然に動きはじめた。
誰に聞かせるでもなく、文字の奥に眠る旋律をなぞるように。
静かなメロディ。けれども、その場に居合わせた者はみな、胸の奥をそっと撫でられたような感覚にとらわれた。
それは郷愁にも似て、はるか古代の叡智に触れたようでもあった。
――音は空気に溶け、水面に広がる波紋のように消えていった。
けれど、耳にした者の心には、「失われたものが、まだどこかで息づいている」という確かな感触が残った。
セリアンは本から目を離さず、かすかに微笑む。
「……これは、ただの歌じゃない。記憶そのものだ」
指先が羊皮紙をなぞり、再び旋律がこぼれた。
古代の吟遊詩人が水面に映した声を、いま蘇らせるかのように。
僕は思わず息を呑む。
「……懐かしいのに、聞いたことのない歌……」
胸の奥に、まだ見ぬふるさとの記憶が揺らめくような感覚が広がっていく。
タリクは腕を組みながら目を伏せた。
「くそ……何なんや、胸がざわつく。剣でも盾でもないのに、こんなに心を揺さぶるとはな」
硬い声の裏に、抗いきれない敬意が滲んでいた。
カゲミは小さな体を震わせ、そっと目をそらす。
「……やめろよ。水に映る影みたいだ……見たら、戻れなくなる」
そう言いつつも、耳はその旋律を離れようとしなかった。
ミレイは静かに手を胸に当てる。
「……水が歌ってるみたい。あたし……。ずっと、ずっと前から知っていたような……」
その横顔には、巫女としての片鱗が淡く浮かびあがっていた。
歌はやがて途切れ、静寂が戻る。
だが、皆の胸には波紋のような余韻が残り――失われた古代の英知が、この場に確かに息づいたことを誰もが感じ取っていた。
セリアンは断章集を開いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
歌うように、語るように――古の文字を声にのせる。
「……水は記す。揺らめきの底に、夢を映し。
夢は声となり、声は歌となり――歌は人を導き、時を超える」
低く澄んだ響きが、一滴の雫となってこぼれ落ちる。
忘れられていたその一雫が、放射状に広がり――世界は静かに、色を取り戻した。
「……聞け。
水の影に揺れる声は、やがて“道”を開く。
その時、人は迷いを越え、真実の岸へ辿り着くだろう」
それは歌でも朗読でもない。
まるで古代の吟遊詩人が、この場に蘇ったかのようだった。
セリアンは静かに書を閉じ、息を吐いた。
「……これが、水声抄の断章。水が覚えていた声だ」
ラグ・ノートリア村の門前。
タリクは深呼吸をひとつして振り返る。そこにはミレイが立っていた。
幼さの残る顔に、無理やり笑顔を貼りつけて。
「……行くんだね、お兄……」
「ああ。ワイにはやらなきゃいけないことがある」
短く言い切った声の奥に、わずかな未練が滲む。
ミレイはぎゅっとスカートの裾を握りしめ、俯いた。
「わかってる。でも……寂しくなるよ。あたし、ずっとここで待ってるから」
「待たなくていい」
タリクは一歩近づき、ミレイと視線を合わせた。
「お前はお前の毎日をちゃんと生きろ。……ワイが帰ってきた時、“ここは変わらへんよ”って胸張って言えるようにな」
ミレイの目が潤む。
「……そんな言い方ずるい。泣かないつもりなのに」
「泣いたっていいさ。俺だって……強がってるだけだ」
ミレイはうつむいたまま、握った手を胸に寄せた。
しばらく黙っていたが、やがて彼女の唇が震え、ぽつりと声がこぼれた。
「タリク兄ー……遠くへ行くけど、心配しなくていい。……あなたは“水の影”に導かれるから」
「水の影……?」
タリクが眉をひそめると、ミレイははっとして目を瞬かせた。
「……あれ? ごめん、変なこと言っちゃった」
気まずそうに笑う声には、どこか澄んだ響きがあった。
「……今の、何のことだ?」
「わからない。でも、“流れの中で道が開ける”って、そんな感じがしたの」
ミレイはそっと彼の手を握る。
「だから、迷わないで。……きっとまた会えるから」
タリクは息を呑み、ゆっくり頷いた。
「……ああ、信じる」
出発の時。
振り返った先で、ミレイの瞳は泉のように澄み、静かに光っていた。
アオハの町に到着すると、噂が広がっていた。
――枯れていた湧水が、再び流れはじめたらしい。町中が潤い、あちこちで祭の準備に追われていた。
「こ!腰が~!」
「だ、大丈夫ですか!?」
荷車のそばで腰を押さえるおじさんに駆け寄ると、顔をしかめながらこちらを見た。
「す、すまん!祭りの会場へこれを届けてくれんか?」
「わかりました!おじさん、安静にしてて。湿布もらってきます!」
僕が荷を受け取った瞬間、すかさずカゲミの声が飛んでくる。
「瀬音ー!協会へ行かなきゃいけないんだぞ!」
「ごめん、すぐ追いつくから!」
……そのつもりだったんだ。ほんとに。
荷物を届け、医局へ湿布をもらいに行く途中で、今度は転んで泣いている迷子に出くわした。
母親を探してると、偶然その家が先ほどのおじさんのご近所とわかる。
泣き止んだ子をおじさんが見守ってくれるというので、ようやく祭り会場を抜けようとした――その時。
「お腹いたいって……耐えろ!耐えるんだーっ!」
「そんなの無理ですーっ!」
腹を押さえる進行役と、その周囲に集まる人々。
混乱の中で僕に向かって叫んだ。
「新米!頼む!オレのハライタがおさまるまで進行しててくれ!」
「へっ!?」
気づけば、貝殻型の拡声器を握らされていた。逃げ場は、ない。
「えっと……では、“水の祈り”を……」
それは祈りのはじまりだった。
「……水は、今日もここにある……」
口から自然にこぼれた言葉が、空気を震わせた。
即興の詩が、泉のようにあふれ出す。
その瞬間、湧水の泉から白い霧がふわりと立ちのぼり、光の粒が舞い上がった。
歓声が広がり、祭りの鐘が鳴る。
「瀬音ーーー!断れって言ったのに! お前、どんだけ流されんだよ!」
「だって……困ってる人、ほっとけないし……」
カゲミが呆れ顔でぼそりと言う。「……はぁ、またこれかよ……」
僕は頭をかきながら、光る泉を見上げた。
――拍手の波が、町を包んだ。
翌日にはもう、“奇跡の記録師”の噂がアオハ中を駆け巡っていた。
「……水は、今日もここにある」
口から自然にこぼれた言葉が、空気を震わせた。
それは祈りのはじまりだった。
― 瀬音の水の祈り ―
水よ、きみは 形を持たず けれど すべてを映す鏡
悲しみを流し 願いをたたえ 言葉より先に心を運ぶ
きみが生まれる音は 誰かの涙のしずくであり 誰かの笑いのしずくでもある
だから どうか この手のひらに集う雫が 争いではなく つながりを描きますように
迷う者の足を清め 倒れた者に光を映し 乾いた大地に 新しい息吹をもたらして
――僕らは、流れの中で出会い 流れの中で別れ それでもまた 水の名を呼ぶ
名もなき泉よ 聞いてくれ 僕たちは忘れない
きみが記した すべての命の声を
いま 僕は歌う “記す者”としてではなく きみと共に ひとつの流れとなるために
水よ――どうか この祈りを また誰かの明日へと運んで
最後の一節を詠み終えた瞬間――
泉の中央から、ふわりと白い霧が立ちのぼった。
それは風ではなく、まるで水が息をしているようだった。
霧の粒が光を受けてきらめき、人々の頬をやさしく撫でていく。
子どもが「冷たいのに、あったかい!」と笑う声があがり、
老いた巫女が涙をぬぐいながら両手を合わせた。
僕は苦笑して頭をかいた。
「はは……ほんと、また流されちゃったな」
けれどその時、確かに感じたんだ。
流されることが、悪いことじゃないって。
水が誰かの願いを運ぶように――僕もまた、誰かの祈りを運べた気がした。




