36 一息ついちゃった!変わりゆく村の温もり
朝の光が森の木々を透かして、柔らかく地面を照らす。
僕たちは、ひっそりと存在するラグ・ノートリアの隠れ里へ向かって歩き始めた。
「……ほんとに、こんなところに人が住んでるのか?エルフか妖精の里ならわかるけど」
セリアンが半信半疑で辺りを見回す。
すると、森の奥から小さな声が響いた。
「お兄ーたち!やっと来てくれたね!」
タリクの妹、ミレイが駆け寄ってきた。
元気いっぱいに手を振る姿に、タリクも思わず笑顔になる。
「ミレイ!元気だったか?」
「うん、ここは安全だからね。みなさんもいらっしゃい!」
里の中では子供たちが元気に遊び、隠れ里の住人たちが静かに見守っていた。
「昨日まで隠れ里の門は閉じてたんだけど、これからはラグ・ノートリア村になったの!
お兄ーのおかげです。ありがとう」
ミレイは自慢げに案内を続け、僕たちを笑わせる。
村長に挨拶を終えたあと、僕たちは記録師協会の騒動から離れた静かな時間を過ごした。
川沿いの道で、僕は久しぶりにゆっくりと筆を取る。
記録者と呼ばれる僕は人の姿をして生きているが、ときに肌を撫でる水のぬるさや流れの重さに、鱗を持っていた頃の記憶がざらりと蘇る。
今いるこの川――谷間の冷水域は、青鮎が好んだ流れだ。
息を吸い込むと、懐かしい藻の匂いが胸に届く。
(……ここ、前にいたかもしれない)そんな感覚がふいに体をよぎった。
「おい、セオトー、ぼーっとしてんなよ。見ろよこれ、記録が流れてきてんぞ!」
背後からカゲミの声。小さな体で、また苛立ったようにしている。
「記録、って……?」
「だから見ろ!この水!人の気配だ。ついさっき誰かが渡った。重いものを引いてた。旅商人かもな」
カゲミの鼻はいい。
僕よりずっと先に、水のにおいから誰かの“記録”の残り香を見つける。
囮にされて死んだ鮎だったいつかの前世は、誰かに犠牲にされるしかなかった小さな命。
それでも今、僕の隣で一番先に気づいてくれる。
「ありがと、カゲミ。君がいてくれてよかった」
「うっせえよ!礼なんか言うな!」
照れ隠しのツンとした顔。僕は思わず笑ってしまう。
水面がぱしゃりと波打った。
カゲミの小さな背中を追って川沿いを進むと、聞き覚えのある声がした。
「おや、あんた……!」
振り返ると、キャラバンチルで出会った行商の親子が立っていた。
逞しい父親、商才のある気丈な母親、元気いっぱいの少年――荷馬車を引いていたのは彼らだったようだ。
「ノートリア兄ちゃん!」
少年が真っ先に駆け寄り、ぱっと笑顔を見せる。
「元気そうだね。こんなところで会えるなんて」
僕も思わず笑ってしまった。心がふっと軽くなる。
父は荷を背負い直し、照れくさそうに頭をかく。
「実は私たち、これからラグ・ノートリアに腰を落ち着けようと思ってましてな」
「行商よりも、子どもに安定した暮らしをさせたくて」
母が柔らかく笑い、その瞳は少し潤んでいた。
「ラグ・ノートリア村に……!」
胸の奥がじんと温かくなる。
隠れるだけだった里が、移住者を迎え入れる村になろうとしている。
僕はほんわかした気持ちで、その光景を記録した。
――村の小道。
ツバネはゆっくりと歩きながら、隣のリウラをちらりと見る。
「ここは……癒されますね」
リウラが小さく吐息をもらす。
その横顔を見て、ツバネは自然と歩みを寄せた。
肩をすり寄せたリウラは、ほっとしたように微笑む。
「ありがとう……ツバネ」
安心と信頼がにじむ声に、ツバネはそっと頭を撫でた。
小さな愛情のやり取りが、町の新しい空気に温もりを灯していた。
木漏れ日が石畳にまだら模様を描き、小川のせせらぎがかすかに聞こえる。
隠れ里の昼下がりは、戦いや騒動を忘れてしまいそうなくらい穏やかだった。
タリクは縁側に腰を下ろし、片腕を伸ばして背筋を鳴らす。
「ふぅ……やっぱり、静かな場所はいいな」
隣に座っていたゲルが、じっとタリクの横顔を見つめる。
「……タリクさんの右目は、よく見えるのですか?」
唐突な問いにタリクは目を丸くし、頬をかいた。
「お、おう? 右目か? まぁ、見えるときもあるし、霞むときもある……ってとこかな。
戦いの時は、どうしても左ばかりに頼っちまうんだよ」
ゲルは真剣な顔でうなずいた。
「では、ゲルが右の死角を守ればいいのですね」
タリクは思わず吹き出しそうになり、肩を震わせる。
「ははっ、お前な……。そんな真顔で言うことか?」
「真剣です。タリクさんに隙があるのは危険ですから」
ゲルはきっぱり言い切ると、きらりと光を帯びた瞳でまっすぐにタリクを見た。
タリクはしばし黙り、そして苦笑しながら頭をがしがしと掻いた。
「……お前にそう言われると、悪い気はしねぇな。頼もしいもんだ」
ゲルは小さく微笑んだ。
「ええ、私はいつだって、タリクさんの死角にいます」
その言葉に、なぜか胸が温かくなる。
――守られているのは、むしろ俺の方かもしれない。
タリクは空を仰ぎ、木漏れ日を透かした。
「……ありがとな、ゲル」
小川の水音が、ふたりの沈黙をやさしく包みこんでいた。
その時、隠れ里の小道から小さな悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!」
ミレイが駆け出す。近くの小川で、子供のひとりが足を滑らせて落ちかけていたのだ。
「待て、俺が支える!」
タリクは即座に駆け寄り、腕を伸ばす。
ゲルも横で身構え、落下に備える。
カゲミは素早く川辺に飛び、子供の腕を掴んだ。
「おい、無理すんな!」
普段はツンツンしているが、その声は必死だった。
リウラは周囲の危険な枝や岩を押さえながら声を張る。
「こっちに逃げてくださいな!」
ツバネはその声に従い、他の子供たちを安全な場所へ誘導した。
わずか数瞬の連携で、子供は無事に救われた。
「ありがとう、お兄ちゃん! みんなも!」
ミレイが両手を広げて駆け寄り、無邪気な笑顔を見せる。
ゲルは少し照れたように視線を伏せる。
(……タリクに、少しはいいところを見せられたでしょうか)
カゲミも肩越しにほっと息をついた。
(……みんなのそばに……瀬音のそばにいられて、やっぱり嬉しい……)
夕暮れの光が森の葉に反射し、皆の笑顔を柔らかく包む。
小さな事件に過ぎなかったが、協力して乗り越えた安心感は、確かな絆を深めていた。
星空の下。泉の奥から、波紋のように広がる思念があった。
「ホーン ホーン ホーン ホーン」
低く、しかしどこか楽しげに響く。
久潤の泉の亀様のもとにテレパシーが届く。
『……この思念は禁書ホンホンか。友よ、楽しそうじゃな』
すぐに、胸いっぱいに弾けるような返答が届いた。
「きいてくれるかホン!泉萬介くん!
ホンホンは……瀬音たちの笑顔を見て、いっしょに歩けて、幸せなんだホン!」
紙の端が震えるように、ホンホンの声は弾む。
ページに刻まれた記憶ではなく、今この時を語っているのだ。
亀はゆるやかに瞬きをして、静かに応じた。
『カッカッカ!そうか……それでよい。禁じられた書であろうと、幸せを記すことは誰にも止められぬ。
そしていつの日か、その幸せも泉に還してくれ。そうすれば永遠に流れ続けようぞ』
「わかってるホン!ああ!泉萬介くんとのテレパシーも嬉しくて筆が進むホンホン!」
泉に小さな光がまたたき、星空と重なる。
幸せを分かち合うその思念は、水面にきらめく波紋となって広がっていった。




